寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

広島市東遊廓の流れを汲む赤線跡(その3)

2010年08月22日 | 

妓楼から約40m先の古い民家。ここの二階の手すりにも透かし彫りが確認できた。復興期に建てられた家屋はこんな感じが多かったのかも知れない。民家のすぐ近くには旧平塚町の守護神・琴比良神社が鎮座する。

 この町角を真直ぐ南へ行くと、平塚町の金比羅さんがあった。こどものころには、金時サンが持っていた大まさかりの印があるちょうちんを見た。社殿右側の石には、「昭和二十年八月六日原子爆弾に依り炎上」の文字が刻まれてあるのも、戦後の社殿と思われる。別の石柱には、昭和二十三年十二月再建、世話人安田寿夫、湊岩次郎など二十四名の名前が刻まれていた。また、明治四十四年十二月とある石鳥居が、そのまま二度のご用をはたし、それにシンガポール陥落とある九本の幟石も残っていた。
 このあたりに製針工場があって、第一次世界大戦当時はなかなか活気のあった平塚町であった。
 「がんす横丁(前述)」より引用

神社は昭和45年に現在地に遷座しているが、それ以前は老人ホームが建っている辺りにあった(これが被爆前の場所と同一かは自信がない)。辻を北上し鮮魚店の角を右折するとまたしても興味深い建造物が現れた。

広島市中区西平塚町の鮮魚店

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広島市東遊廓の流れを汲む赤線跡(その2)

2010年08月21日 | 

妓楼に付き物とも言える円窓、目を凝らして見ると装飾素材が木ではなく鉄だった。これは戦後に建てられた家屋の特徴かもしれない。2階手すりの透かし彫りは一風変わっており職人のセンスの良さが伺える。私は道路を南西の方向に進んだ。

広島市中区西平塚町界隈

『続々がんす横丁 / 薄田太郎(たくみ出版 昭和四十八年)』にも東遊廓に関する重要な記述があるので補足説明として掲載しておく。

 昭和十一年ごろの新聞記事によると、(中略)東遊廓の貸座敷は四十六軒で、働く女性は三百九十人であった。そしてこれらの女性の稼ぎ高は、一カ月の花代が(中略)東では三万円内外という記録が残されている。

参考までに昭和10年の物価ではコロッケ2銭、カレー10銭、新聞(1ヶ月)90銭である。

「続々がんす横丁 / 薄田太郎(たくみ出版 昭和四十八年)」

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広島市東遊廓の流れを汲む赤線跡(その1)

2010年08月20日 | 

以前広島市西遊廓跡(現・中区舟入町)について書いたのでいずれ後発の東遊廓跡のことも取り上げたいと考えていた。そして漸くこの夏に再調査を行う運びとなった。東遊廓誕生の経緯は『がんす横丁(前述)』の一節を引用させてもらおう。

 火の見小路につながる薬研堀は、下柳町(※)と同じ濠(堀)があって、広島のシンボル柳がその近くに植えられていた。大山元帥の肝入りで、姫路から五軒の遊女屋をよんで、明治二十八年に東遊廓ができた。

角川日本地名大辞典の平塚町(明治15年~昭和40年)の項には次のように記されている。

 東遊廓は日清戦争後の明治28年当町・下柳町・薬研堀にまたがる地域に設けられ、昭和8年にはこの3町から分離し、弥生町となった。第2次大戦後鶴見橋東詰から新己斐橋の間に平和大通を建設。また駅前通りが中央部を斜めに貫通し、町は二分された。40年東平塚町・西平塚町・銀山町・田中町・弥生町・鶴見町・宝町となる。

つまり中区西平塚町及び薬研堀・弥生町・銀山町の一部などが東遊廓のあった場所になる。しかし、原爆投下によって西遊廓と同様に焼失しているので私達は敗戦後にできた赤線の建物(取り壊しを辛うじて免れている物件)しか見ることができない。私は元妓楼と思われる建物の前で立ち止まった。

※著者注 現・広島市中区銀山町かなやまちょう・橋本町

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京橋川西岸に到着

2010年08月20日 | 

京橋川西岸(東広島橋南詰)からは広島市中区となる。私は首に巻いていたタオルを外して随分と重くなっているのを確認して眩し過ぎる天を見上げた。喉はカラカラだった。

中華そば屋の前で大きな息を吐いて南西の方角を見やり「この界隈には素晴らしき建物がまだ残っているんだな」と呟いた。それからかつての色街にズルズルと引き寄せられていったのである。

広島市中区西平塚町の飲食店

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炎天下に東広島橋を渡る

2010年08月19日 | 

東広島橋の中ほどから京橋川上流を望む。手前の橋が柳橋、そして奥の橋が路面電車の通る稲荷大橋である。私が市内で暮らしたのはわずか1年半(昭和末期)だが、広島は水の街という印象が強かった。少し遠出をする際には必ず大きな橋を渡り川面を眺めたものである。

中でも最も身近に感じていたのがこの京橋川だ。総合科学部長刺殺を機に京橋川緑地帯は私が思索に耽る場となっていた。象牙の塔で発生した血生臭い事件は学生のみならず日本国民に大きな衝撃を与えた。

私は事件の推移を見て加害者と被害者双方に非があると思った。そして男の嫉妬は女のそれ以上にドロドロとして醜いものだという印象を持った。いけ好かない人間に嫌がらせをして憂さ晴らしをする幼児性、他者の存在を認められなくなり畜生道に堕ちる過程を冷静に分析した。「自分の考えていることが常に正しいとは限らない」との思い(所謂謙虚さや自省の念)が両者にあったならば、あの事件は起こらなかったかもしれない。

学内の極左暴力集団(過激派)が偏った思想について行けずに足抜けしようとする仲間をリンチした悪行も根っこは同じだ。私は全共闘世代の人間をほとんど評価していない。その理由は彼らの大半が犯した過ちを総括することなく社会に出たためだ。愚行を武勇伝として語り正当化しようとする点は非常に嘆かわしい。

旧体制打破とは聞こえはいいが、先人のひいたレールにのっただけで何も新しいものを生み出さなかったという或る学者の突き放した意見は的を射ている。団塊の世代の政治家(特に今の与党)を端から観察しているとそれがよくわかる(笑)

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予定を変更し南区松川町方面に移動

2010年08月18日 | 

首に巻いていたタオルは汗でビショビショになった。アンダーシャツも同様である。当初、比治山橋か平野橋を渡って母校跡に向かう予定だったが「そう急ぐ必要もなかろう」という思いが強くなった。

私は逆方向に進路をとり松川町に入った。昭和の雰囲気が残る理容院の前に「冷シャンプー」の幟が出ていた。頭から湯気を出している男は暫く思案した末にノロノロと北に向かって歩き駅前通りにぶち当たった。

広島市南区松川町界隈

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比治山の名水

2010年08月17日 | 

明治35(1902)年11月1日(広島市)生まれの薄田太郎さんは明治42(1909)~43(1910)年頃の比治山について著書で回想している。参考までに一部を抜粋しておこう。

 …比治山のドンについて書こう。
 ドンは正午の時刻を砲声のドンという音響で知らせたもので、同時にこれが昼めしのきっかけとなっていた。著者が七つ、八つのころ、平塚の土手下の家から、近所の人につれられて西の旧市場へ法事用の菓子なんかを仕入れに行ったとき、天満橋近くまでくると「ドン」の音がしてワケもなく情けなくなって、大声で泣いたことを覚えている。
 (中略)
 この広島のドンには、落語ならぬ一つの落ちがある。比治山の別名を「肱山」ともいうが、この山に大砲がすえられてからあの松林からスズメが姿を消した。スズメはヒジ鉄砲をくったかも知れないが、広島人は毎日ヒジ大砲-ヒジドンを楽しんだ。比治山の頂上あたりにパッと白煙が立ち上ると、間もなくドンというにぶい音が聞かれたもので、ある東部の中学校の小使さんは、あの白煙を見るとすぐに昼食の鐘を叩いて正確な時を知らせると同時に、少しでも早く生徒たちに弁当を食べさせてやりたいという親心を発揮した。キトクな小使さんから聞いたヒジドンのそう話である。
 「がんす横丁 / 薄田太郎(たくみ出版 昭和四十八年)」

広島市南区の地図

明治時代の様子を思い浮かべながら神社を後にした。そして更に比治山通りを南下し面白い物を発見した。比治山の名水と書かれた古びたタンクが山の麓に設置されている。近くの立て看板に醸造元「原本店」の名が記されていた。今なお中区白島九軒町で酒造りが行われていることを知り非常に驚いたのである。

比治山の名水を使用して酒造りを行う原本店(中区白島九軒町)

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再び真夏日に

2010年08月16日 | 日記
蒸し暑いの一言に尽きる。やはり最高気温が35℃を超えていた。体が塩気を求めるのも無理はない。トマト料理で栄養補給し梅酒を少し飲んだ。これから一週間は天気が続き我慢を強いられることになるだろう。秋よ、早く来てくれ(笑)

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広島市南区の比治山神社に参拝する

2010年08月16日 | 

段原一丁目電停から比治山通りを南下する。南区比治山町の辺りは私が昔暮らしていた場所から1kmちょっとの位置だが、何故かほとんど来たことはない。

比治山神社の石柱に気づいた私は予定を変更して寄り道することにした。由緒に目を通しもとは黄幡(おうばん)大明神と称して比治山南の谷(俗称で黄幡谷)に鎮座していた歴史や大国主大神などが祀られていることを知った。お賽銭を入れて手を合わせると神社の関係者が出てきてお祓いをしてくれた。

本殿・拝殿

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的場町界隈

2010年08月15日 | 

噴き出る汗をハンカチで拭いながら猿猴橋(※1)を渡り的場町(※2)に入る。

「あそこに東横インが出来ている」

私は普段通らない道を歩いて偶然にも市立段原小学校に着いた。それから南消防署の前を通過して電車通りを横断した。

広島市立段原小学校


※1 長い間、広島の玄関口になっていた猿猴橋は、広島の数ある橋のうちでも確かに異彩を放っていた。毛利時代の広島城下絵図にも「エンコウバシ」と書いてあるので、昔からあったものだが、名の由来についてはわからない。
 長さ三十五間(約六十三メートル)巾四間(約七メートル)で、木橋だったのが、大正十五年に改装され、同年三月十六日に渡り初めが行われている。橋の名前であり、川の名前でもある猿猴とは、手の長い河童をもじったものであるらしい。

※2 源蔵という者が、ここに住んで的を作っていたので的場町と呼ばれるようになったと伝えられている。
 「がんす横丁 / 薄田太郎(たくみ出版 昭和四十八年)」より引用

「がんす横丁 / 薄田太郎(たくみ出版 昭和四十八年)」


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稲の高温障害

2010年08月14日 | 日記

一面緑の田んぼを眺めていた私は稲の生育に若干の不安を覚えた。高温障害で乳白米が発生するおそれがあるからだ。高温に(そして病気にも)強い稲の開発が様々な機関で行われている。品種改良の意味が大きく変わってきたことを農家だけでなく私たちも知る必要がある。

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お盆の墓参りを済ませる

2010年08月13日 | 日記

日が昇り始めた頃、私は海の方へ車を走らせていた。先祖の眠る高台へは20分弱で着いた。茶色くなった榊を新しいのと取り替えて水を注ぎ、周りの落ち葉などを拾う。墓を水拭きして線香に火をつけ手を合わせた。

お盆は長年にわたる血のつながりを再確認するとともに己の(けがれた)心を清める意味合いもある。午前6時半を過ぎた辺りで墓参りをする人が一気に増えた。私は坂道を下りながら瀬戸内海に浮かぶ島々を晴れ晴れとした気持ちで眺めた。

瀬戸内海に浮かぶ島々

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夏の果実・桃をかじる

2010年08月12日 | 食材

夏の果物で高級感のあるものと言えばやはり桃になるだろう。高い糖度と酸味のバランスが素晴らしく鼻腔をくすぐる様な甘い香りがたまらない。梨が桃を超えられないのはフレーバーが弱いからだろう。

桃のもう一つの魅力は姿の美しさだ。岡山で白桃といえば白く仕上げるのが当たり前だったが、産地によってほのかに赤みをつけたり、全体を赤くしたりするなど違いが見られる。桃に被せる袋などで着色の度合いを調節する農家の苦労を知ると味わいも更に深まる。最近は画像のような桃が人気があるそうだ。

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激安イタリアンの舞台裏(サイゼリヤ)

2010年08月12日 | 日記
低価格がウリのイタリアンレストラン「サイゼリヤ」が成長を続けている。私は以前から大阪市内の同店で食事をして安さと繁盛ぶりに感心していた。1000円札1枚でお釣りがかえって来て、しかも味はそこそこイケるのである。グラスワイン(やデカンタ)が手頃な価格で楽しめるので薀蓄嫌いの酒飲みの間では密かに人気が高い。

さてそのサイゼリヤの舞台裏を某テレビ局が取材したのを昨日見た。安さの秘密は徹底した無駄の削除にあった。店内の掃除はモップを使う、調理は同時進行、自社工場でブレンドしたサラダを店で盛り付けるだけ、など無駄な動きを無くすことで人件費の削減に成功していたのである。

サイゼリヤがイタリアから直輸入したワインをすべて保管管理しているとは初耳だった。「イタリアのワインを1人でも多くの人に(赤字が出ても)味わって欲しい」と語る会長は更に料理を安く提供することを目標に掲げた。家庭の料理や仕事においてもサイゼリヤの取り組みは大いに参考になると思う。

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恵みの雨が降る

2010年08月11日 | 日記
台風4号接近の影響で午後10時頃から本降りとなった。今日も蒸し暑かったが、この打ち水で多少はマシになるはずだ。雨を渇望していたのは人間よりもむしろ畑の野菜の方だろう。

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