下り坂の途中から右折し西へ進むと左手に金光教音戸教会(音戸町引地1丁目3‐2)がある。教会の西隣の大きな家には木製の忍び返しが取り付けられていた。
忍び返しは財力のある家が防犯対策として設けた泥棒よけで戦災を受けていない港町(例:福山市鞆町など)でよく見かける。瀬戸八幡宮からの帰りに出会った老人はこの町屋を「きょうごく」と呼んでいた。「きょうごく」の対面の家も非常に立派な構えである。
忍び返しは財力のある家が防犯対策として設けた泥棒よけで戦災を受けていない港町(例:福山市鞆町など)でよく見かける。瀬戸八幡宮からの帰りに出会った老人はこの町屋を「きょうごく」と呼んでいた。「きょうごく」の対面の家も非常に立派な構えである。
瀬戸八幡宮(瀬戸八幡神社)の建立が江戸時代であることは、拝殿前の石造物の銘(天保二卯…)からも分かる。
瀬戸八幡神社
瀬戸三区の氏神として、延宝3年(1675)に建立され、宝永8年(1711)再造、さらに拝殿の建立は天保6年(1835)とされ、祭神は応神天皇(品陀和気命)である。
境内にあるユーカリの木は、三抱えもある大木で神木といわれている。
-音戸の史跡と文化財- 音戸町教育委員会 平成6年(1994)11月1日発行より
参拝を済ませて朱塗りの本殿を眺め参道へ戻る。手水鉢(?)に刻まれた本家戸田とは山本五十六氏と関係の深い戸田本店(音戸町坪井)のことだろうか。
坂を上ってくる老人と出会い挨拶を交わし旧色街の情報を仕入れた。彼は最後に「以前芝居小屋だったところを今工事しとるわ」と言った。
瀬戸八幡神社
瀬戸三区の氏神として、延宝3年(1675)に建立され、宝永8年(1711)再造、さらに拝殿の建立は天保6年(1835)とされ、祭神は応神天皇(品陀和気命)である。
境内にあるユーカリの木は、三抱えもある大木で神木といわれている。
-音戸の史跡と文化財- 音戸町教育委員会 平成6年(1994)11月1日発行より
参拝を済ませて朱塗りの本殿を眺め参道へ戻る。手水鉢(?)に刻まれた本家戸田とは山本五十六氏と関係の深い戸田本店(音戸町坪井)のことだろうか。
坂を上ってくる老人と出会い挨拶を交わし旧色街の情報を仕入れた。彼は最後に「以前芝居小屋だったところを今工事しとるわ」と言った。
8月1日発行のひろしま県民だよりの見出しは、みんなの心のそばに、「ひろしま」を届けたい。7月16日に東京銀座1丁目にオープンした広島ブランドショップ「TAU」について最初に特集を組んでいる。湯崎県政になって本当に良かったと思うのは、広島県内の市や郡に均等に光を当てようと努力する姿勢が見えてくる点だ。ショップオープン前に「おしい!」CMを制作したのは伏線だったのだろう。
三原市は福山市同様あまり自己主張をしない(昔の日本人にはあった美徳・知恵)街のため、知名度は低かった。しかしCMの効果は絶大でタコで有名な地ということを広島市民(安芸国の住民)にまで知らしめた。
まずは県民の間で有益な情報を共有し、東京を中心にPRをして全国に広めていく手法はわかり易く支持も集まる。また広島観光にも大きな変化が出始めている。かつては莫大な金をかけただけの所が有名になっていた(作られたイメージ先行という弊害は大きかった)が、これからは名所が分散して観光客自身が自由に訪問先を選択できる時代である。
「昔の名前で出ています」のような黴臭くてワンパターンなフレーズでは見向きもされなくなるのは明らかだ。県知事の示した方向性でますます面白くなるのは暑苦しくない三原・福山だと思う。情報発信は市民の側からもできる。
三原市は福山市同様あまり自己主張をしない(昔の日本人にはあった美徳・知恵)街のため、知名度は低かった。しかしCMの効果は絶大でタコで有名な地ということを広島市民(安芸国の住民)にまで知らしめた。
まずは県民の間で有益な情報を共有し、東京を中心にPRをして全国に広めていく手法はわかり易く支持も集まる。また広島観光にも大きな変化が出始めている。かつては莫大な金をかけただけの所が有名になっていた(作られたイメージ先行という弊害は大きかった)が、これからは名所が分散して観光客自身が自由に訪問先を選択できる時代である。
「昔の名前で出ています」のような黴臭くてワンパターンなフレーズでは見向きもされなくなるのは明らかだ。県知事の示した方向性でますます面白くなるのは暑苦しくない三原・福山だと思う。情報発信は市民の側からもできる。
広島県福山市笠岡町1-13に「とおり町交流館」の看板が出ている。マンション・ダイアパレスプラザ本通りの1階に交流館があり、背後(西側)は笠岡町公園である。
この場所にはかつてショッピングセンターがあった。通町(とおりちょう)筋の住民から「ほんど~るピック」と呼ばれていたことを最近聞いた。私は中学生の頃にショッピングセンターによく来ていた。
店名も何階にあったかもすっかり忘れてしまったが、マニアックなプラモデル屋が密かに営業していた。昭和町の大松模型店では扱っていないイタラエリ(現イタレリ)の1/35シリーズが置いてあるのが大きな魅力だった。私の記憶が正しければ、この店は後に花園町2丁目へ移転したはずである。
母が「通町に元気がなくなったのはダイエーが来てからよなー」と回想していたが、私が同様の感情を抱くようになったのは昭和53年(1978)頃である。ダイエー福山店の開業から10年後にあたる。それまではほとんど通町周辺で買い物をしていた。はぶ文泉堂やスポーツ用品店の国輝堂(支店が駅前大通り沿いの繊維ビル1階にあった)や書店はよく利用したものである。だから自転車で駅前のデパートまで出掛けるというのは特別なことを意味していた(少なくとも小学校卒業までは)
この場所にはかつてショッピングセンターがあった。通町(とおりちょう)筋の住民から「ほんど~るピック」と呼ばれていたことを最近聞いた。私は中学生の頃にショッピングセンターによく来ていた。
店名も何階にあったかもすっかり忘れてしまったが、マニアックなプラモデル屋が密かに営業していた。昭和町の大松模型店では扱っていないイタラエリ(現イタレリ)の1/35シリーズが置いてあるのが大きな魅力だった。私の記憶が正しければ、この店は後に花園町2丁目へ移転したはずである。
母が「通町に元気がなくなったのはダイエーが来てからよなー」と回想していたが、私が同様の感情を抱くようになったのは昭和53年(1978)頃である。ダイエー福山店の開業から10年後にあたる。それまではほとんど通町周辺で買い物をしていた。はぶ文泉堂やスポーツ用品店の国輝堂(支店が駅前大通り沿いの繊維ビル1階にあった)や書店はよく利用したものである。だから自転車で駅前のデパートまで出掛けるというのは特別なことを意味していた(少なくとも小学校卒業までは)
木造二階建てモルタル塗りの洋館は昭和10年(1935)から12年頃の建築で国登録有形文化財に指定されたのは最も早い(平成9年7月15日)。
現在1階は茶処ばらになっており、郷土料理うずみなどの食事もできる。戦前の雰囲気を残す数少ない場所として市民に愛されている。洋館の前に建つ標石には所有権の移行の歴史が書かれてあった(※渋谷昇氏は福山通運の創業者)
福壽會館
昭和二十八年五月福山市天神町澁谷昇氏より福山市に寄贈せらる依って其の篤志を後世に傳える為に此の標石を建つ
昭和三十一年五月
福山市長 徳永豊
一般公開されている庭園では出張中のサラリーマンの姿を目にすることがある。県外のもっと多くの人に知ってもらいたい福山市中心部(備後国の本流)の宝だ。
現在1階は茶処ばらになっており、郷土料理うずみなどの食事もできる。戦前の雰囲気を残す数少ない場所として市民に愛されている。洋館の前に建つ標石には所有権の移行の歴史が書かれてあった(※渋谷昇氏は福山通運の創業者)
福壽會館
昭和二十八年五月福山市天神町澁谷昇氏より福山市に寄贈せらる依って其の篤志を後世に傳える為に此の標石を建つ
昭和三十一年五月
福山市長 徳永豊
一般公開されている庭園では出張中のサラリーマンの姿を目にすることがある。県外のもっと多くの人に知ってもらいたい福山市中心部(備後国の本流)の宝だ。