古野上町12の駐車場のフェンスに沿って東へ少し歩くと大きな木の前にもう一枚「陸軍水源地跡」を示すプレートがある。それには「明治29年7月20日(1896)岡山17師団所属連隊として福山へ歩兵第41連隊が移転してから軍用水道として古野上町に芦田川伏流水を水源として地吹町、野上町、光南町を経て御門町の連隊まで100mm鉄管1350mを布設して軍用水の確保を行っていました。」とあり、水源地の面積が195平米で集水槽や配水塔などが建設されていたようである。戦前の地図を参考にすると陸軍水源地は古野上町11及び12辺りにあった。


このプレートの蓮向かいにお堂があり、前に置かれた赤い帽子を被った立江地蔵大菩薩が一際異彩を放つ。近所のおばさんの話では福山空襲の犠牲者も一緒に供養しているという。地蔵の赤く焼けた跡が無差別爆撃の悲惨さを今に伝えている。

お堂の左を流れるのが下井手川で、上流に目を向けるとあのホテルプリンスの焼け焦げたてっぺん部分がはっきりと見える。私は大水害、大空襲、そしてホテル火災の犠牲者の冥福を祈った。
大正8年(1919)の野上堤防決壊で旧市内が水浸しになった主原因は福山の街が江戸時代から干拓によって広げられて行った歴史にある。干拓地で暮らす民の命は今も強固な堤防によって守られていると言ってよい。私は大正生まれの古老から「一文字堤防へ行けばどれほど危険な場所で生活しているのかが分かるよ」と教わったことを思い出して久し振りに現地まで足を延ばした。

福山市新涯町2丁目23辺り(一文字堤防の上)から北方を撮影した写真から高低差は一目瞭然であろう。簡単に左から順に主要な建造物を解説しておく。一文字町の福山ボウルの観覧車(直径48m)、道路(一文字堤防)、福山港(※海面が写っていないが)、そして右端がJFE(旧日本鋼管)である。

続いて一文字町の村上商事の前辺りから東方の堤防を望む写真をご覧いただこう。干拓地から堤防まではこうした緩やかな上りになっているのだ。この一文字堤防は改修されたものである。昭和17年(1942)の台風で堤防が切れて大事になったことを若い人は知らぬと思う。
大災害(水害や直下型の地震や津波)は忘れた頃(約100年周期)に発生することが多いので、普段から避難場所と経路を頭に叩き込んでおく必要がある。役所をあてにせず自分の身は自分で守るくらいの気概が欲しい。


このプレートの蓮向かいにお堂があり、前に置かれた赤い帽子を被った立江地蔵大菩薩が一際異彩を放つ。近所のおばさんの話では福山空襲の犠牲者も一緒に供養しているという。地蔵の赤く焼けた跡が無差別爆撃の悲惨さを今に伝えている。

お堂の左を流れるのが下井手川で、上流に目を向けるとあのホテルプリンスの焼け焦げたてっぺん部分がはっきりと見える。私は大水害、大空襲、そしてホテル火災の犠牲者の冥福を祈った。
大正8年(1919)の野上堤防決壊で旧市内が水浸しになった主原因は福山の街が江戸時代から干拓によって広げられて行った歴史にある。干拓地で暮らす民の命は今も強固な堤防によって守られていると言ってよい。私は大正生まれの古老から「一文字堤防へ行けばどれほど危険な場所で生活しているのかが分かるよ」と教わったことを思い出して久し振りに現地まで足を延ばした。

福山市新涯町2丁目23辺り(一文字堤防の上)から北方を撮影した写真から高低差は一目瞭然であろう。簡単に左から順に主要な建造物を解説しておく。一文字町の福山ボウルの観覧車(直径48m)、道路(一文字堤防)、福山港(※海面が写っていないが)、そして右端がJFE(旧日本鋼管)である。

続いて一文字町の村上商事の前辺りから東方の堤防を望む写真をご覧いただこう。干拓地から堤防まではこうした緩やかな上りになっているのだ。この一文字堤防は改修されたものである。昭和17年(1942)の台風で堤防が切れて大事になったことを若い人は知らぬと思う。
大災害(水害や直下型の地震や津波)は忘れた頃(約100年周期)に発生することが多いので、普段から避難場所と経路を頭に叩き込んでおく必要がある。役所をあてにせず自分の身は自分で守るくらいの気概が欲しい。

ある田舎でおがくずのような山を見つけた。プラスチックの筒から放出されているのはどうやら籾殻(もみがら)らしい。私は近くにいた老婆を呼んだ。
「これ籾殻ですよね」
「すくもよ」
「すくも?」
「じゃーけー籾殻をすくも言うんよ」
噛み合わない会話に老婆は「もう往(い)んでくれんかのぅ」という表情をした。そんなことを全く気にしない男は質問を続けた。
「これ何に使うんですか。やっぱり堆肥にするの?」
「焼きすくもにするんじゃ」
「何でまた?」
「そのままじゃー具合が悪い。焼きゃー嵩(かさ)が減ろー」
「確かに減るね」
「そりょー畑やこに撒くんよ。ちょっちょっとな」
「要するに後々肥料になるってことでしょ」
「まーそう言うことにしとこーか」
我々の会話は最後までこんな感じであった。母はすくも(籾殻)を五右衛門風呂の焚きつけに使っていたと教えてくれた。すくもを焼く際にさつま芋を仕込んでおいたという話が面白かった。
「これ籾殻ですよね」
「すくもよ」
「すくも?」
「じゃーけー籾殻をすくも言うんよ」
噛み合わない会話に老婆は「もう往(い)んでくれんかのぅ」という表情をした。そんなことを全く気にしない男は質問を続けた。
「これ何に使うんですか。やっぱり堆肥にするの?」
「焼きすくもにするんじゃ」
「何でまた?」
「そのままじゃー具合が悪い。焼きゃー嵩(かさ)が減ろー」
「確かに減るね」
「そりょー畑やこに撒くんよ。ちょっちょっとな」
「要するに後々肥料になるってことでしょ」
「まーそう言うことにしとこーか」
我々の会話は最後までこんな感じであった。母はすくも(籾殻)を五右衛門風呂の焚きつけに使っていたと教えてくれた。すくもを焼く際にさつま芋を仕込んでおいたという話が面白かった。

昭和5年(1930)発行の福山市街地図を用いて野上堤防の決壊部分(前田商店~地吹荒神社前)を紫色の線で示してみた。大正8年(1919)の鷹取川・下井手川・鞆軽便鉄道のルート・鷹取橋の位置関係がよく分かると思う。洪水の被害が入江の北(北浜)まで及んだというのだから驚くほかない。

前田商店近くの駐車場(古野上町12)前はごみ捨て場となっているが、その表示の上に「福山大水害と古野上」「人柱お米の伝説」というプレートが取り付けられている。私は平井隆夫さんと同じようにお米が人柱にされた話を信じてはいない。平井さんの著作「おもしろふくやま史(二〇〇一年)」では次のような見解となっている。
人柱伝説 12
人柱伝説は、この地方のみならず全国に多くその例話がある。堤防、築城ということにまつわるものが多いようである。
しかし、これが事実であるか否かということになると、これを裏付ける史資料はなく、いずれも伝説をもとにして後世に作られた物語や墓や塚である可能性が高い。現在の歴史学は実証学であり、これらの伝説をそのまま現実の歴史として考えることはできない。
この地方に伝わる伝説には、服部大池のお糸の物語、芦田川堤防のお米の伝説、瀬戸池のおとせの物語、福山城月見櫓(着見櫓)の人柱、笠岡冨岡大池の人柱などがあるが、これらの物語の登場人物は、継の当てられた着物を共通して着用しており、これは全国に存在する多くの人柱伝説とも共通する要素である。
元和六年、福山城築城、城下町建設の最中、堤防が切れ、城下町が大きな被害を受けた。そのために新しい堤防に人柱を埋めたということになっている。また、服部大池のお糸も池の堤防に埋められたということになっている。
しかし、蟻の穴からでも堤は崩れる、という諺があるように、堤に人間を埋めるような大きな穴を堀り、堤の強度のバランスを崩すようなことをなぜわざわざやらねばならないのか。当時干拓造成が盛んで、築堤術が急速に進歩していたのに、その結果がわからぬはずがない。
したがって、これらの物語は人柱をしたという歴史的事実を伝えているのではなく、各地にある水神信仰から発し、それが物語の形に変化されていったものと考えるべきである。つまり、ここには水神を祀って祈願しているので絶対に堤防は切れない、だから大雨による決壊も心配ないし、日照りによる水の心配もない、という信頼感が、いつの間にか、そこで豊作・豊穣を願う信仰となり、お米やお糸という女性の形を借りた物語へ発展していったのである。物語にあるように、多くの農民が自らの利益を願うために人ひとりを犠牲にし、人柱を立てたと解すべきではない。
このような伝説や物語をいかなる主観で捉えるかは、人それぞれにおいて自由であるが、根本は歴史と伝説を同一視しては実際の歴史認識に誤解が生じるということである。我々は後世のためにも歴史の事実を伝えるべきで、虚構の歴史を作って後世に伝えてはならない。歴史は実証学である。そして伝説は伝説として大切に残されるべきである。
まさに名言である。郷土史研究において最も大切なことは事実を淡々と述べるということであり、一部の特定の人間が飯の種に歴史の捏造を平気で行っていることは決して許されないのである。また恫喝を恐れて事実を隠蔽したり、問題の核心への言及を避ける人間は研究など止めればいいと私は思う。


前田商店近くの駐車場(古野上町12)前はごみ捨て場となっているが、その表示の上に「福山大水害と古野上」「人柱お米の伝説」というプレートが取り付けられている。私は平井隆夫さんと同じようにお米が人柱にされた話を信じてはいない。平井さんの著作「おもしろふくやま史(二〇〇一年)」では次のような見解となっている。
人柱伝説 12
人柱伝説は、この地方のみならず全国に多くその例話がある。堤防、築城ということにまつわるものが多いようである。
しかし、これが事実であるか否かということになると、これを裏付ける史資料はなく、いずれも伝説をもとにして後世に作られた物語や墓や塚である可能性が高い。現在の歴史学は実証学であり、これらの伝説をそのまま現実の歴史として考えることはできない。
この地方に伝わる伝説には、服部大池のお糸の物語、芦田川堤防のお米の伝説、瀬戸池のおとせの物語、福山城月見櫓(着見櫓)の人柱、笠岡冨岡大池の人柱などがあるが、これらの物語の登場人物は、継の当てられた着物を共通して着用しており、これは全国に存在する多くの人柱伝説とも共通する要素である。
元和六年、福山城築城、城下町建設の最中、堤防が切れ、城下町が大きな被害を受けた。そのために新しい堤防に人柱を埋めたということになっている。また、服部大池のお糸も池の堤防に埋められたということになっている。
しかし、蟻の穴からでも堤は崩れる、という諺があるように、堤に人間を埋めるような大きな穴を堀り、堤の強度のバランスを崩すようなことをなぜわざわざやらねばならないのか。当時干拓造成が盛んで、築堤術が急速に進歩していたのに、その結果がわからぬはずがない。
したがって、これらの物語は人柱をしたという歴史的事実を伝えているのではなく、各地にある水神信仰から発し、それが物語の形に変化されていったものと考えるべきである。つまり、ここには水神を祀って祈願しているので絶対に堤防は切れない、だから大雨による決壊も心配ないし、日照りによる水の心配もない、という信頼感が、いつの間にか、そこで豊作・豊穣を願う信仰となり、お米やお糸という女性の形を借りた物語へ発展していったのである。物語にあるように、多くの農民が自らの利益を願うために人ひとりを犠牲にし、人柱を立てたと解すべきではない。
このような伝説や物語をいかなる主観で捉えるかは、人それぞれにおいて自由であるが、根本は歴史と伝説を同一視しては実際の歴史認識に誤解が生じるということである。我々は後世のためにも歴史の事実を伝えるべきで、虚構の歴史を作って後世に伝えてはならない。歴史は実証学である。そして伝説は伝説として大切に残されるべきである。
まさに名言である。郷土史研究において最も大切なことは事実を淡々と述べるということであり、一部の特定の人間が飯の種に歴史の捏造を平気で行っていることは決して許されないのである。また恫喝を恐れて事実を隠蔽したり、問題の核心への言及を避ける人間は研究など止めればいいと私は思う。


古野上町バス停(鞆鉄)そばの駐車場はフェンスで囲まれ施錠してある。水道局の職員が朝鍵を開けていることから市の持ち物なのかもしれない。

堤防決壊の上手は前田商店(古野上町11-9)辺りと言われ、この駐車場とは細い道を挟んで向かいあっている。鷹取川の泥水は下井手川を呑み込んで東方(霞町4丁目・地吹町方面)へ恐ろしいスピードで流れていったことになる。
大正7年(1918)生まれの村上正名氏は『芦田川文庫8 城下町福山』で母校の大水害の爪跡について次のように記している。
被害状況の記録を見ると、流失家屋百一軒、全壊二十四、半壊九十七、床上浸水三千四百二十三、床下浸水千二百六十一、市内計四千九百六軒という多数に達し、家の下敷きやおぼれ死んだ者男六人、女十一人という悲惨事となったのである。
水はなかなか引かず、二日目の六日夕刻、入江から北の各町では路面が見えだしたけれど、霞町・野上・明治・光南・道三・御門・南町などは舟でたき出しを配り、二階で生活し城山に逃げた人はわが家にも帰れない状態であった。鉄道も四日以後、松永・大門間は不通となり、決壊口せき止めの工事を岡山から工兵二個中隊の来援、付近町村の消防団員等八百余名の献身的な作業で、四日目の八日午後五時やっとせき止めに成功している。
七日になってようやく霞町以南も道路が見えはじめたが、その後が大変で崩壊家屋のかたづけ、浸水家屋の洗浄、家財道具、日々の食糧補給と混乱はつづくのである。
私達も霞町の誠之館中学に通学した頃、教室や教科準備室の戸棚に水かさを物語る跡がついていて、当時の被害の物すごさを目のあたり見たものである。
こうして、市制施行後おこった二大災害は福山市民の大きな試練であった。
大水害の被害状況を捉えた写真は数多く残されているが、私が注目したのは『保存版ふるさと福山 / 郷土出版会(2011年7月)』の142ページに掲載された、有志による「被災者への炊き出し」風景である。瓦葺の木造家屋の前に釜が2つと寿司桶などが置かれ疲れた表情の男達がカメラの方向を向いている。釜の周辺に藝妓券番と書かれた長い提灯が吊るされ、後方に割烹喜楽庵の看板らしきものが見える。
当時の券番(福山本検株式会社)は神島町中市(現在の伊予銀行福山支店辺り)に、そして喜楽庵は船町南浜(地元で有名な臓物煮込み屋の西隣)にあった。写真は現在の船町、新町遊廓の西側で撮影されたものと思われる。地面の荒れ具合と建物下部の汚れから判断して水が引いてから数日後の情景であろう。


堤防決壊の上手は前田商店(古野上町11-9)辺りと言われ、この駐車場とは細い道を挟んで向かいあっている。鷹取川の泥水は下井手川を呑み込んで東方(霞町4丁目・地吹町方面)へ恐ろしいスピードで流れていったことになる。
大正7年(1918)生まれの村上正名氏は『芦田川文庫8 城下町福山』で母校の大水害の爪跡について次のように記している。
被害状況の記録を見ると、流失家屋百一軒、全壊二十四、半壊九十七、床上浸水三千四百二十三、床下浸水千二百六十一、市内計四千九百六軒という多数に達し、家の下敷きやおぼれ死んだ者男六人、女十一人という悲惨事となったのである。
水はなかなか引かず、二日目の六日夕刻、入江から北の各町では路面が見えだしたけれど、霞町・野上・明治・光南・道三・御門・南町などは舟でたき出しを配り、二階で生活し城山に逃げた人はわが家にも帰れない状態であった。鉄道も四日以後、松永・大門間は不通となり、決壊口せき止めの工事を岡山から工兵二個中隊の来援、付近町村の消防団員等八百余名の献身的な作業で、四日目の八日午後五時やっとせき止めに成功している。
七日になってようやく霞町以南も道路が見えはじめたが、その後が大変で崩壊家屋のかたづけ、浸水家屋の洗浄、家財道具、日々の食糧補給と混乱はつづくのである。
私達も霞町の誠之館中学に通学した頃、教室や教科準備室の戸棚に水かさを物語る跡がついていて、当時の被害の物すごさを目のあたり見たものである。
こうして、市制施行後おこった二大災害は福山市民の大きな試練であった。
大水害の被害状況を捉えた写真は数多く残されているが、私が注目したのは『保存版ふるさと福山 / 郷土出版会(2011年7月)』の142ページに掲載された、有志による「被災者への炊き出し」風景である。瓦葺の木造家屋の前に釜が2つと寿司桶などが置かれ疲れた表情の男達がカメラの方向を向いている。釜の周辺に藝妓券番と書かれた長い提灯が吊るされ、後方に割烹喜楽庵の看板らしきものが見える。
当時の券番(福山本検株式会社)は神島町中市(現在の伊予銀行福山支店辺り)に、そして喜楽庵は船町南浜(地元で有名な臓物煮込み屋の西隣)にあった。写真は現在の船町、新町遊廓の西側で撮影されたものと思われる。地面の荒れ具合と建物下部の汚れから判断して水が引いてから数日後の情景であろう。


卯の花(おから)を出汁・砂糖・塩・酢を合わせた調味液で煮てほんのり甘酸っぱい味に仕上げる。これを衣として糸造りにしたコノシロ(酢で〆たもの)、塩もみしたキュウリとニンジン、そして黄身そぼろと和える。
酸味を緩和してまろやかな風味を作り出す砂糖と黄身の働き。地味な食材が華やかに、かつ上品な味に仕上がるのが卯の花和えの醍醐味である。一般の人には見向きもされないコノシロを逸品にまで昇華させることができる日本料理の技法をより多くの人に伝えたいと思う。
コノシロ酢も普段の酒のアテとしては合格点が出せる。ただし、片身づけにしたのは失敗だった。皮が噛み切りにくいのである。三等分に切り分けた方が良かったと大いに反省した。

酸味を緩和してまろやかな風味を作り出す砂糖と黄身の働き。地味な食材が華やかに、かつ上品な味に仕上がるのが卯の花和えの醍醐味である。一般の人には見向きもされないコノシロを逸品にまで昇華させることができる日本料理の技法をより多くの人に伝えたいと思う。
コノシロ酢も普段の酒のアテとしては合格点が出せる。ただし、片身づけにしたのは失敗だった。皮が噛み切りにくいのである。三等分に切り分けた方が良かったと大いに反省した。


過去の歴史を振り返る上で先人が遺した記録(町史など)を何度も読み返すことは重要である。思いがけない発見があったり、見落としていた事実が浮かび上がってきたりするからだ。『わたしたちの町ふるのがみ1981 / 古野上町内会』における福山大水害の言及は資料的価値が高い。
福山大水害と古野上
大正8年7月5日の福山大水害の頃の芦田川は改修工事の行なわれる前で、現在の神島橋付近で川は芦田川と鷹取川に分かれておりました。川巾もせまく、堤防も水野時代のものでかなり古くなって、河底も上流から運ばれた土砂で、埋もり80ミリ以上の降雨があると、各所ではんらんし、決壊さわぎは毎年のように起っていたようです。明治以前、明治、大正とたびたびの洪水の記録が残っております。
注 現在の水道局前から競馬場へ通ずる道が昔の鷹取川の堤防で野上堤防と呼ばれていましたが、終戦後まもなく現在のような道路になり河川敷は住宅地になりました。
注 鞆鉄道の木橋は現在の、なかま理容院前から草戸へ通じる道路の位置にあった。決壞個所の地吹荒神社から上流約200mは古野上町の前田文具店付近と思われる。
決壞口に近い古野上町、古宮町(現在の霞4丁目)地吹町を始め西霞町(霞3丁目)中霞町(霞2丁目)道三町、野上町などは特に被害が大きく、明治町、御門町、松浜町、沖野上町あたりも一面泥の海となりました。
干拓のため低地だった川口村(川口町)は800戸の人家はすべて屋根を残して濁流は軒を洗う状態だったといわれます。(当時の市内は大部分が泥の海と化し、家財道具も一切取り出すことは出来ず着のみ、着のままで屋根によじのぼり、あるいはやっと堤防に駆け上がる状態だったと言われています。
それでは堤防決壊の現場に戻ろう。古野上(南)交差点から水道局方面(北西の方向)に進む。地吹町公園の先が鞆鉄の古野上町バス停である。濁流がものすごい勢いでこの道路を(左から右へ)横切ったという事実を我々はもっと重く受け止めなければならないだろう。

福山大水害と古野上
大正8年7月5日の福山大水害の頃の芦田川は改修工事の行なわれる前で、現在の神島橋付近で川は芦田川と鷹取川に分かれておりました。川巾もせまく、堤防も水野時代のものでかなり古くなって、河底も上流から運ばれた土砂で、埋もり80ミリ以上の降雨があると、各所ではんらんし、決壊さわぎは毎年のように起っていたようです。明治以前、明治、大正とたびたびの洪水の記録が残っております。
注 現在の水道局前から競馬場へ通ずる道が昔の鷹取川の堤防で野上堤防と呼ばれていましたが、終戦後まもなく現在のような道路になり河川敷は住宅地になりました。
注 鞆鉄道の木橋は現在の、なかま理容院前から草戸へ通じる道路の位置にあった。決壞個所の地吹荒神社から上流約200mは古野上町の前田文具店付近と思われる。
決壞口に近い古野上町、古宮町(現在の霞4丁目)地吹町を始め西霞町(霞3丁目)中霞町(霞2丁目)道三町、野上町などは特に被害が大きく、明治町、御門町、松浜町、沖野上町あたりも一面泥の海となりました。
干拓のため低地だった川口村(川口町)は800戸の人家はすべて屋根を残して濁流は軒を洗う状態だったといわれます。(当時の市内は大部分が泥の海と化し、家財道具も一切取り出すことは出来ず着のみ、着のままで屋根によじのぼり、あるいはやっと堤防に駆け上がる状態だったと言われています。
それでは堤防決壊の現場に戻ろう。古野上(南)交差点から水道局方面(北西の方向)に進む。地吹町公園の先が鞆鉄の古野上町バス停である。濁流がものすごい勢いでこの道路を(左から右へ)横切ったという事実を我々はもっと重く受け止めなければならないだろう。


草戸2丁目の井上タバコ店前から引き返す。旧芦田川は大雨が降るたびに増水して周辺住民を恐怖に陥れていた。

数ある洪水による災害の中で最も有名なのが大正8年(1919)7月5日の野上堤防決壊である。その舞台となったのが現在の地吹荒神社前交差点(現在のバス通りがもと野上堤防)周辺である。
野上堤防の決壊 まず『福山水害誌』によると、次のように記している。
「雨は七月一日午前十一時より降り始め、三日三晩降り続き四日午後、芦田川の水量増嵩し神辺・横尾方面一帯は既に濁流に呑み尽くされ、福山方面も危険が迫り、本庄野上堤防も警戒を要する事態となった。その後も降り続く中を市・警察・消防・連隊と力を合わせ危険箇所の応急修理に全力を尽くした。しかし、夜になると作業は困難となり、警備は手薄になった翌五日午前三時半頃に至り、草戸鷹取橋畔の量水標は十三尺七寸という未曾有の増水となった。このとき対岸草戸新涯は堤防数箇所決壊するところとなり、また干潮時刻とも重なり、おりしも雨は止み、こうしたことから水量は急速に減じ、一同胸を撫で下ろした。
しかるに午前四時三十分、上流より家一軒の藁葺屋根が流れて来て、野上堤防に架かる鞆軽便鉄道木橋の東端に突き当たるや激流は遮られ、弱っていた堤防を奔流は突き破り、古宮・古野上・地吹・西霞町と、つぎつぎと洪水に圧せられ連隊も濁流に呑まれた。さらに川口村の三百町歩と人家八百を呑みつくし、内堤防を外に突き破り、そして芦田川堤防も一気に潰し去った。」
『福山市多治米町誌(平成五年)』
野上堤防決壊場所に関する更に詳細な記述が『古野上町内誌 / 佐伯秀三編』にあるので参考までに一部を引用する。
…上流からわらぶきの家が流れて来て、野上堤防にかかっていた鞆鉄道の木橋の東端にひっかかり、激流はこれにさえぎられて右岸に突き当たり水を含んでもろくなっていた堤防はひとたまりもなく突破され、いったんくずれた口はみるみる拡大して、長さ二〇〇mにわたって決壊し、(地吹荒神社から上流)水はどっと町中にあふれ出たのです。
地吹荒神社前からバス通りを北西(競馬場方面とは逆方向)に進むと鉄道橋が架かっていたという古野上(南)交差点が見える。


数ある洪水による災害の中で最も有名なのが大正8年(1919)7月5日の野上堤防決壊である。その舞台となったのが現在の地吹荒神社前交差点(現在のバス通りがもと野上堤防)周辺である。
野上堤防の決壊 まず『福山水害誌』によると、次のように記している。
「雨は七月一日午前十一時より降り始め、三日三晩降り続き四日午後、芦田川の水量増嵩し神辺・横尾方面一帯は既に濁流に呑み尽くされ、福山方面も危険が迫り、本庄野上堤防も警戒を要する事態となった。その後も降り続く中を市・警察・消防・連隊と力を合わせ危険箇所の応急修理に全力を尽くした。しかし、夜になると作業は困難となり、警備は手薄になった翌五日午前三時半頃に至り、草戸鷹取橋畔の量水標は十三尺七寸という未曾有の増水となった。このとき対岸草戸新涯は堤防数箇所決壊するところとなり、また干潮時刻とも重なり、おりしも雨は止み、こうしたことから水量は急速に減じ、一同胸を撫で下ろした。
しかるに午前四時三十分、上流より家一軒の藁葺屋根が流れて来て、野上堤防に架かる鞆軽便鉄道木橋の東端に突き当たるや激流は遮られ、弱っていた堤防を奔流は突き破り、古宮・古野上・地吹・西霞町と、つぎつぎと洪水に圧せられ連隊も濁流に呑まれた。さらに川口村の三百町歩と人家八百を呑みつくし、内堤防を外に突き破り、そして芦田川堤防も一気に潰し去った。」
『福山市多治米町誌(平成五年)』
野上堤防決壊場所に関する更に詳細な記述が『古野上町内誌 / 佐伯秀三編』にあるので参考までに一部を引用する。
…上流からわらぶきの家が流れて来て、野上堤防にかかっていた鞆鉄道の木橋の東端にひっかかり、激流はこれにさえぎられて右岸に突き当たり水を含んでもろくなっていた堤防はひとたまりもなく突破され、いったんくずれた口はみるみる拡大して、長さ二〇〇mにわたって決壊し、(地吹荒神社から上流)水はどっと町中にあふれ出たのです。
地吹荒神社前からバス通りを北西(競馬場方面とは逆方向)に進むと鉄道橋が架かっていたという古野上(南)交差点が見える。

