tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中利典師の「仏教は人間主義的宗教」

2024年10月05日 | 田中利典師曰く
先日、こんなニュースが発信され、田中利典師もご自身のFacebookで紹介されていた。TOPPANのニュースリリースによると、
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜。コロナ渦中でStay Home中の2020.3.30 に撮影した

TOPPAN、世界文化遺産 金峯山寺の秘仏を超高解像度16KでVR化
金峯山寺の国宝「蔵王堂」と重要文化財「蔵王権現立像」を自由に鑑賞できるVRコンテンツで没入感のあるデジタル文化体験を提供

TOPPANホールディングス株式会社のグループ会社であるTOPPAN株式会社(本社:東京都文京区、代表取締役社長:齊藤 昌典、以下 TOPPAN)は、金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺(所在地:奈良県吉野郡、以下 金峯山寺(きんぷせんじ))の協力のもと、本堂である国宝「蔵王堂(ざおうどう)」と秘仏本尊である重要文化財「金剛蔵王大権現立像(以下 蔵王権現立像(ざおうごんげんりゅうぞう)」をデジタルアーカイブし、その魅力を伝えるVR作品『金峯山寺』を製作しました。

本作品はTOPPAN小石川本社ビル地下1階の、「デジタル文化財ミュージアム KOISHIKAWA XROSS®(コイシカワ クロス)」のVR THEATERで公開します。なお本作品は、10月5日(土)より週末限定で一般公開を行います。


全編は約50分で、今日(2024.10.5)から、土日および土日に続く祝日に「KOISHIKAWA XROSS」で公開されるが、ダイジェスト版の〈VR作品『金峯山寺』紹介映像〉は、以下の通りである。これを見るだけでも、VR作品の素晴らしさが実感できることだろう。


さて、今日の「田中利典師曰く」は、「豈(あ)に旧を守りて、化道(けどう)を壅(ふせ)べけんや」(師のブログ 2016.10.30 付)。これは中国天台の祖・天台大師智顗(ちぎ)の言葉で、〈既成概念に固執して、社会実践の工夫を怠ってはならない〉という意味である。師は「金峯山時報」平成13年(2001年)11月号の「蔵王清風」欄にこのエッセイを寄稿された。

執筆当時、師は46歳という若さだった。この年に宗務総長に就任されたばかりで、かなり肩に力の入った文章である。では、以下に全文を紹介する。

「豈(あ)に旧を守りて、化道(けどう)を壅(ふせ)べけんや」ー田中利典著述集281030
昨日からですが,過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。今日のは、ちょうど15年前、金峯山寺の宗務総長に就任した年に書いた、とても青い文章です。青いなあ…。

***********************

「豈(あ)に旧を守りて、化道(けどう)を壅(ふせ)べけんや」
ちょっと難しい聖句を紹介する。「豈に旧を守りて、化道を壅べけんや」。中国天台の祖・天台大師智顗(ちぎ)の言である。意味は、既成概念に固執して、社会実践の工夫をおこたってはならない、というようなことであるが、人間というものは元来が頑固で、しかも保守的・保身的気質を持っており、一度やりだしたことはなかなか変えようとしない。

昨日やったことは今日も出来ると思っている。しかしそれは大間違いなのだと、1400年も昔の天台大師の言葉が、それを教えている。とりわけ21世紀が始まって、ご承知のように、テロ多発事件、アフガン戦争など、世界の情勢は大激変する中、日本社会もその渦中にあり、それら様々な変化に応じた我々の生き方もまた、緊迫感を持って問われ直す時代を迎えているのである。教化を待つ衆生の変化に対応した、教化の方法が行われなければならない。

管長猊下特命を以てこの4月に宗務の統括に当たる総長職を担当して半年になるが、なかなか変革の時を迎えられないでいる。宗内の体制が整わないこともあるが、危機認識が欠如しているのが一番の原因ではないかと思っている。

アメリカの精神分析学者エーリッヒ・フロムは、宗教には「権威主義的宗教」と「人間主義的宗教」の二通りあるとする。前者は人間を超越した権威に対する屈伏を本質的要素とし、後者は人間を中心とし、その力を十分に展開することによって自己実現をはかる。そこでは神は、超人間的な力ではなく人間自身の力の象徴である…と説いているが、ここに筆者は仏教の可能性を見るのである。

権威主義的宗教とは正に唯一絶対の神を頂く、ユダヤ・キリスト・イスラムの一神教宗教であろう。これに対して、仏教は絶対神を立てず、人間が有する仏性を前提として修行が展開される。人間が覚って仏陀となる教えが仏教なのである。人間にとって宗教は不可欠のものと筆者は思っているが、宗教の有り様が二通りに分けられるとするフロムの説に大変興味をもつのである。

閑話休題。本論に戻そう。ついこの前まで世界は安定していると思っていた。それもつかの間、権威主義的宗教同士のぶつかり合いによって、大きく揺るぎ出している。筆者では予見の付かない大激動が必ず来るだろう。その危機感を知るところからしか、激動に対応できる生活は生まれないのである。

しかしながら仏教徒にとって最も大事なことは実は別にある。世の中がどうかわろうと、自らを灯火とし、法を灯火としつつ、我が人生苦の克服を第一義とするのが、仏教徒のあるべき生き方なのである。

世界の混乱は、宗教とはなんぞや、ということを突き詰めて問いかけている。ただ手を合わせていたらよい、というようなことでは説得力を持てない時代なのだ。そういう意味合いからこそ、人間主義的宗教が必要とされていると堂々というべき認識がいると思っている。

自分の仏性を磨き、人々の仏性を認め合うーそういう宗教活動によってしか、世界の平和はもたらされない。そして修験道にはそれがあると意識するところに、激動の時代に耐えうる教化活動が生まれるのではなかろうか。そういう想いが筆者を突き動かすのである。
ー「金峯山時報平成13年11月号所収、蔵王清風」より

*****************

本文でも書いているとおり、えらい意気込みであるが、この意気込みのまま、14年の総長生活を駆け抜けたのは事実である。成果があったかどうか、「自分で言うな!」と、常から人に戒められるので、ここでは触れないでおこう。

ま、まだまだ私の人生は終わったわけではないのだし、還暦をすぎて、新たに生き直している今は、なおまだ「人生を語らず」でありたいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中利典師の「法華経の冥加」

2024年10月03日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「法華経の冥加(みょうが)」(師のブログ 2016.10.29付)。冥加とは、〈神仏から知らず知らずに受ける加護〉のことである。
※トップ写真は近隣公園の桜。コロナ渦中で「Stay Home!」を言われた2020.3.30.撮影

師は法華経「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」の最後の4句を読み上げていたとき、〈どうにも有り難くなってきて、自分ながら驚いてしまったのである。涙が出そうに有り難く心に響くのであった〉とお書きである。その後、師は「法華経一昼夜不断経」という修行を、金峯山寺の年中行事に、取り入れられた。では全文を以下に紹介する。

「法華経の冥加」ー田中利典著述集281029
今回からしばらく、私が26才から金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」に書かせていただいた駄文から、折に触れて、転記します。

***********************

「毎自作是念、以何令衆生、得入無上道、速成就仏身(意訳:私はいついかなる場所にあっても、次のことを念じ続けている。 即ち、どのようにして人々を無上の仏道に入らしめ、しかも速やかに悟りに到達して仏の境地を得せしめようか、と)」。…これは妙法蓮華経如来寿量品の最後の四句である。 日頃の勤行では何気なく唱えている読み慣れた経文であるが、昨年の本山練成会で、ちょうどこの如来寿量品を講読したとき、この一節に胸を詰まらせたことがある。

それは寿量品の解説をし終えて、みんなで偈文の書き下しを読み上げていたときであった。 「毎に自らこの念を作す、何を以てか衆生をして、無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめんと」。この一偈が誠にどうにも有り難くなってきて、自分ながら驚いてしまったのである。涙が出そうに有り難く心に響くのであった。

懸命に泣くまいと歯をくいしばってふと目を上げると、席の前列の二、三人の人が、やはり小生と同じように感無量の表情を湛えている。こんなことがあるのだろうかと、不思議なくらいの有り難さであった。二年あまり、法華経の講読は続いているが、あんなことは後にも先にも一度きりであるが、本当に法華経の有り難さが身にしみた一時であった。それ以後、法華経講読の冒頭では必ず、この寿量品の偈文をみんなで読み上げることにしている。

法華経には五つの功徳が説かれている。受持・読・誦・解説・書写の五つである。受持とは持つことであるが、本当はただ持つのではなく、法華経の教えを堅く信じ、堅持することをいう。でも単に持つだけでもそれはそれで功徳にはなる。読とは目で見て読むこと、誦とは暗唱すること、心の中で繰り返し読むこと。

解説は法華経の意味を理解し、人々に説いていくこと。書写とは写すこと、つまり法華経の写経である。これらは五種の功徳であると共に、五種法師の修行でもある。法華経を広める人のことを法師というが、その法師が行ずるべき修行が受持・読・誦・解説・書写の五つなのである。

この五種法師の修行、当初、漫然と受けとめていたが、寿量品の冥加に出会って以後、読誦の大切さに思いを致すようになった。何よりも我々は法華経を読まなければならないのである。しかも身にしみて有り難くなるような読み方をしなければならない。近頃真剣にそう思っている。

実は法華経を読み出して不思議なことがもう一つある。それは法華経を読み進めば読み進むほど、先の五種法師の修行を私に行じさせようと、法華経自体が問いかけてくるのである。強要してくるといった方が正確かも知れない。それはちょっと怖い感じさえする。

法華経とはそんな不思議な経典であるが、先に述べたように間違いなく有り難い経典でもある。その法華経が本宗の中心的経典であることはご存じのはず。是非、多くの人に法華経の縁に連なっていただきたいと思っている次第である。
「金峯山時報第362号(1997年3月号)所収、蔵王清風」より

*****************

法華経はほんとに不思議なお経である。もう20年以上も前に書いた文章であるが、本質をよくとらえていると、我ながら、思うところである。このあと私は金峯山寺の年中行事に、「法華経一昼夜不断経」という修行を、青年僧の会の主催によってはじめることとなるが、法華経講話での冥加がなければ、はじまっていない修行会である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中利典師の「吉田拓郎 LIVE 2016」

2024年10月01日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「吉田拓郎 LIVE 2016 in東京国際フォーラム」(師のブログ 2016.10.21 付)。この年のこの月、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。この拓郎のライブでも、ギター1本で「Blowin' in the Wind (風に吹かれて)」をフルコーラス歌ってくれたそうなので、これにはシビれたことだろう。ラスト(アンコールの前)の「流星」も、良い曲である。では、全文を紹介する。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜。コロナ渦中の2020.3.30に撮影

「ブルボンpresents 吉田拓郎 LIVE 2016 in東京国際フォーラム」
もう一昨日になるが10月19日、東京国際フォーラムで行われた「ブルボンpresents 吉田拓郎 LIVE 2016」に行ってきた。その感想です。実は、年甲斐もなく、始まる前から興奮したのか、心臓がばくばくで、狭心症で倒れやしないかと、思うほどの状態だった。「救心」をホテルの机に置いてきたのをずっと後悔していた。

そういう不安な状態で始まったコンサートだったが、連れの友人がはじめからのりのりで、私も彼につられて、ノリノリのコンサートとなった。もちろん、心臓はバクバクだったのだが…終わる頃にはそれも忘れていた。

知人に用意してもらった席は、2ブロック目の最前列で、とても見やすかったのも、ノリのよかった条件となった。22列10番。…コンサート開幕直前にはアルフィーの坂崎くんや高見沢くんなどが目の前を通っていった。会場は盛り上がっていましたね。間違っているかも知れないが、セットリストをあげておきます。

1 春だったね 2 やせっぽちのブルース 3 マークⅡ 4 落陽
MC
5 アゲイン 6 朝陽がサン
MC
7 消えていくもの 8 唇をかみしめて
MC
9 ジャスト・ア・RONIN 10 いつでも
MC
11 Blowin' in the Wind (風に吹かれて) 12 君のスピードで 13 白夜 14 旅の宿
MC
15 全部だきしめて~メンバー紹介~ 16 いくつになっても happy birthday 17 海を泳ぐ男 18 僕達はそうやって生きてきた 19 流星
アンコール
20 ある雨の日の情景 21 Woo Baby 22 悲しいのは 23 人生を語らず

全23曲…ちがっていたらごめんなさい。ボブディランのノーベル文学賞受賞については、直接のMCはなかったけど、ボブディランに影響されて鳥取・島根へと放浪?の旅に、かあちゃんに小遣いをもらって行った…という有名はエピソードを語ったあと、「風に吹かれて」をギター1本でフルコーラス歌ってくれた。感動であった。

前回と前々回の復活コンサートのときは、なんとなく、会場のみんなが「ともかく帰って来てくれてありがとう。あまり頑張らなくていいから、身体を大事にしてね」というような、なんともいえない拓郎の身体や声を気遣う雰囲気が充満していたような気がしたが、今回は、少し違っていたように思う。

確かに病気と年齢を重ねてきたせいで、若い頃のパワーとは比べようもないかもしれないが、とてもとても、よかったと、私は素直に感動していた。

ほぼ半分は立って、拓郎と一緒に大声で唄を歌っていた。私にとっては初めてのことだった。今回の一番の曲は私的には、やはり「風に吹かれて」と「流星」。「流星」はちょっと泣きそうだった。

前回は終演時に、これが見納めかなあと、内心思わないこともなかったのだが、きっと次回もあると確信して、会場をあとにし、夜遅くまで友人と拓郎を語り合い、そしてカラオケで歌った。「誘ってくれてありがとう」とめったに礼なんか言ったことのない友人が何度も何度も、つぶやいていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中利典師の「今夜の一言特集 2016年7~9月」

2024年09月29日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「今夜の一言特集・7月8月9月編」(師のブログ 2016.10.8 付)。これまで書きためて来られた珠玉の言葉「今夜の一言」の3ヵ月分を、一挙に蔵出しされた。ちなみに一昨日(2024.9.27)、師はFBに久々の「夫婦の会話」を紹介された。こちらもぜひ「総集編」を期待したいところだ。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜。コロナ渦中の2020年3月30日に撮影

このブログで師は「皆さんのお気に入りの言葉を」とお書きなので、私は「お誕生日は父母(ちちはは)に『生んでいただいて、ありがとう』と伝える日。父母の生きているうちに言いたいね」。私はこのことに気付かず、父母を見送ったことを今も後悔している。では、以下に全文を紹介する。

「今夜の一言特集・7月8月9月編」(2016年)
実はもうずいぶん前からツイッターやフェイスブックで書き綴ってきた「今夜の一言」。これってその日、その夜、つれづれに自分の心に浮かんが言葉を吐露したほとんどがオリジナル言葉(迷言かなあ…)です。まあ、大した意味のない言葉ばかりですがね。最近、それをとりまとめています。今日は7月8月9月編をどうぞ…。

********************

●平成28年7月
「勝つも負けるも時の運。でも本当は、勝つも負けるも必然の所産かもね」「毎日ご苦労様と仏さまが言っている。毎日ありがとうとご先祖さまが言っている。そう思って生きてみましょう」「夏の花火に夜の風。淡く哀しくいとおしく、頬を優しく時が行く」

「世の中にはどうしても許せないことがある。でも許したい。私もまた誰かに許されて生かされている存在なのだから 」「過去に答えを探しても見つかりません。常に答えは未来にしか用意されていないものなのです ~頭ではわかってんにゃけどなあ~」「人生の節目は悲しみによって作られる~負けないでね」

●平成28年8月
「人はみんな自分の都合で生きている。そう思って、諦めましょう」「私の健康法があるとすれば、常にまだまだだと自分を叱咤激励し続けることです」 「過去に答えはない。しかし人はついつい過去に答えを求めようとする。答えは未来しか用意されていないのに…」

「言葉とは難しいものだ。いくら相手につたえようと言を労しても、誤解は誤解を生み、時として徒労に終わることばかり。言葉にこだわらず、以心伝心、誠心誠意でないと伝えきれないものなのかもしれない。ただ、それも互いが理解しあおうということがなければ成り立たないのだが… ~SMAPだけの問題ではない、みんな、同じですよね」

「みんなはわかっているのに、本人だけがわかっていないことが世間にはままあるものです」「自分のために生きることが下手な人間がいる。自分のことだけに生きるのが上手い人間がいる。でも、私は自分のためだけに生きることに生き甲斐を見いだせない」

「なんでこんなこともできひんのやと思うことが多いけれど、自分もまた人からそう思われているであろうことを忘れてはいけません」「人はこちらが思うほど恩など感じていないものだ。自分を振り返ってごらん、わかるはずだよ」「報われるのは運がいいから。でも報われないのは運の貯金です。」

「誠意ある生き方は目立ちにくいが、そこにしか人間性の善し悪しを計る基準はないのだと信じている」「人生に大切なものなど、そう多くはない。ふつうに生きて、わずかに残った思い出に勝るものなどないのかもしれない」「誰もが幸せになりたいと思っているけど、幸せはなるものではなくて、感じるもの。いまの自分を肯定して、感謝するものだと私は思う」

「お誕生日は父母(ちちはは)に『生んでいただいて、ありがとう』と伝える日。父母の生きているうちに言いたいね」「人生とは糾(あざな)える縄の如しというけれど、縄にもいろいろあって、必ずしも幸不幸が順逆に来るとは限らない」「知らぬが仏と言うけれど、仏さまは全部見てござるのよ」

●平成28年9月
「理不尽ばかりの人生。受け止めて乗り越えることが生きる意味と思いましょう!…」「犬や猫に聞いてごらん。人間だからこそ、祈る喜びを知ることが出来るんだ!」「嘘つきは泥棒の始まり。泥棒は亡国の始まり、と思って正直の美徳を守りたいです。でも、それでは他の国に攻めとられるのだろうなあ」

「人が一番悲しいのは、人から忘れ去られること」「悔やむな自分!負けるな自分!がんばれ自分!と、くじけたときには、自分で自分を励ましてやりましょう」「断捨離断捨離、過去の自分も、いろんな思いも、今はともかく断捨離しよう。答えは先にある。答えを知れば、過去の意味も知る時が来るに違いないから」

「仏の教える善とは、迷いの世界から脱することをいう」「捨てる神あれば拾う神あり。人生万事塞翁が馬なり~で生きましょう…ホントは人間万事塞翁が馬、なのですが、人生の方がすっきりきます」「よい種まきをしましょう。まいた種通りにみな生えます。刈り取るのは自分。まかぬ種が生えません。大根なら大根、人参なら人参… ~今は亡き、吉野の法主猊下の教えから。そのとおりですね」

「人は自分のことばかりをしゃべりたがる。…そうやって人を見ていると、ほんとにその通りだ」「凡人なので、すぐに感謝を忘れる。感謝、感謝、感謝と三回つぶやいて、寝る」「幸せな人生があるとするなら、多くを望まないこと、ささやかに生きること、人や神仏に感謝すること、その三つに尽きるのかも知れない」

「裏切り者!と怒るなかれ。彼もまた自分の都合があるのだから。そう自分がある時、そうであったようにね」「人生は常に台風一過のようなもの。嵐もあれば平穏もあり、嵐に遭うから平穏のありがたみを知る」「人は過去を乗り越えることで未来を開く」

「でたらめ、あきらめ、いいかげんに生きるが仏の教え by 今日のひろさちや」「人はそれぞれ自分の都合が優先する。親兄弟や友人と言えども、そこはなかなか越えがたい」

「自分だけが正しい!と振る舞うほどに、アホ面を世の中にさらしているときはない ~ややもすれば、他人に厳しく自分に甘い人間はこういう気持ちに陥りやすいものである」「人の命はひとつではない。たとへ寿命がつきようとも、人の記憶の中にもうひとつの命は行き続けるのである」「笑う門には福来る、怒る門には悪来る ~人を幸せにする笑いは、自分のためにも大事です」

****************

こんな駄作ばかりですが、みなさんで、お気に入りの言葉があればありがたいです。ちなみに私は「過去に答えを探しても見つかりません。常に答えは未来にしか用意されていないものなのです」とか、「人生の節目は悲しみによって作られる~負けないでね」…がお気に入りです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中利典師の トイレの神様 「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」

2024年09月26日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「トイレの神様」(師のブログ 2026.10.2 付)である。トイレの神様というと、植村花菜の歌でよく知られている。「小3の頃から なぜだか おばあちゃんと暮らしてた~♪」という歌である。紅白にも出演したので、覚えている方も多いことだろう。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜(コロナ渦中の2020.3.31に撮影)

しかし、本当に「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」というトイレの神様がいたということは、この記事で初めて知った。しかも金峯山寺では、この神様のお札を授けてくれるとのことである。ウチも最近、温水洗浄便座を取り替えたので、今度お参りしたときは、ぜひいただいてきたいと思う。では、以下に全文を紹介する。


この写真は、田中利典師が撮影された高岡山瑞龍寺(富山県)のトイレの神様。
レプリカなので写真撮影可だったとか。ご真言は「オン・クロダナ・ウン・ジャク」

「トイレの神様」
7月からはじめた自坊のトイレ工事は先月ようやく終了し、先月末には、トイレの神様「烏枢沙摩明王」をお祀りしている。

〈烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう、Ucchuṣma)とは、密教における明王の一尊である。「烏芻沙摩」「烏瑟娑摩」「烏枢沙摩」とも表記される。特に有名な功徳としては便所の清めがある。便所は古くから「怨霊や悪魔の出入口」と考える思想があったことから、現実的に不潔な場所であり怨霊の侵入箇所でもあった便所を、烏枢沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰が広まり今に伝わっている〉(Wikipedia)。



写真の札は金峯山寺がお授けしている烏枢沙摩明王であるが、この明王のお札は存外世の中には出回っていなくて、発行しているお寺や神社も極めて少ないことを最近知った。誇り塾で学んだ岡本(彰夫)塾頭の「トイレの神様」の講座である。金峯山寺では昔から授けていたので、なんとも思わなかったのであるが、調べてみると極めて希なお札であることがわかった。「うすさまネット」によると主な寺院は以下

高岡山瑞龍寺(富山県)/秋葉総本殿・可睡斎(静岡県)/金龍山・明徳寺(静岡県)/曹洞宗・海雲寺(東京都)/天台宗泰叡山・瀧泉寺(東京都)/金峯山修験本宗総本山・金峯山寺(奈良県)/我拝師山求聞持院・出釈迦寺(香川県)

トイレの神様をみなさん、大事にしましょう…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする