tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

徐福伝説と徐福公園(JR新宮駅前)/熊野霊場をゆく(5)

2022年06月09日 | 記紀・万葉
徐福(じょふく)をご存じだろうか。辞書によると〈中国の伝説上の人物。秦の始皇帝の時代、不老不死の仙薬を求めて海を渡ったとされる。日本に漂着したともいわれ、各地に伝説が残る〉(デジタル大辞泉)。特に熊野地方には、多くの伝承が残る。新宮市には駅前に「徐福の墓」があり、周辺は徐福公園(和歌山県新宮市徐福1-4-24)として整備されている。一般財団法人新宮徐福協会の公式HPには、



徐福は今から二千二百年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、その命により、東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて三千人の童男童女を引き連れ、この熊野に渡来したと伝えられています。徐福一行は、この地に自生する「天台烏薬(てんだいうやく=整腸薬)」という薬木を発見しましたが、気候温暖、風光明媚、更には土地の人々の暖かい友情に触れ、ついにこの地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すき等の技術をこの地に伝えたと言われています。



徐福の渡海は、中国の有名な歴史書である『史記』にも記されています。1982年、中国の江蘇省連雲港市かん楡(かんゆい)県において徐福村が発見され、徐福が実在の人物として学術研究会で発表されるようになりました。徐福村には祠も再建され、その内部には東方を向いたりりしい徐福の座像がまつられています。一方、始皇帝が不老不死の霊薬を探しだそうと躍起になり、各地をたずねたあげく、方士徐福に出会ったのが徐郷県(現・山東省龍口市)といわれています。



現中国においても徐福ゆかりの地がクローズアップされており、その研究も活発に行われています。日本でも徐福渡来の伝承地がいくつかあり、古くから地域伝承を育み、様々な文化が形づくられてきました。特に熊野地域には徐福渡来の地として数々の伝承・史跡が残り、鎌倉時代には文献に出てきます。


訪問当日(5/13)徐福の墓は見つけられなかったので、写真は新宮徐福協会の公式HPから拝借

新宮駅から東にわずか100mのところに「徐福の墓」があり、蓬莱山南麓の阿須賀神社には「徐福の宮」もあります。平成6年8月、「徐福の墓」を中心に極彩色豊かな中国風楼門を配した整備を行い、「徐福公園」としてオープンしました。

駅前の一等地に石像や公園まで作るとは、力が入っている。徐福伝説は、これからもう少し掘り下げてみることにしたい。
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熊野那智大社、主祭神は熊野夫須美大神(イザナミノミコト)/熊野霊場をゆく(4)

2022年06月08日 | 記紀・万葉
熊野三山の最後は、熊野那智大社だった(2022.5.13参拝)。那智の滝がご神体と思っていたが、滝は飛瀧(ひろう)神社(熊野那智大社の摂社)のご神体だった。同大社の公式HPには、
※トップ写真は、熊野那智大社の拝殿


飛瀧神社の鳥居ごしに那智の滝を拝む

(御由緒1.)熊野那智大社は、田辺市の熊野本宮大社、新宮市の熊野速玉大社とともに熊野三山の一社として、 全国約4,000社余ある熊野神社の御本社でもあり、日本第一大霊験所根本熊野三所権現として崇敬の篤い社です。古来当社はご祭神「熊野夫須美(ふすみ) 大神」の御神徳により「結宮(むすびのみや)」と称され、人の縁だけでなく諸々の願いを結ぶ宮として崇められました。



那智御瀧は自然を尊び延命息災を祈る人が多く、また八咫烏の縁起によりお導きの神として交通・海上の安全の守護を祈り、さらに御神木の梛の木は無事息災をあらわすものとして崇められています。熊野の自然と共に神々の恵み深い御神徳のある神社であります。



(御由緒2.)当社は神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)の御東征を起源としています。西暦紀元前662年、神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(にしきうら)(現在の那智の浜)に上陸されました。一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、那智御瀧を探りあてられ、その御瀧を大己貴神(おおなむちのかみ)の現れたる御神体としてお祀りされました。

神日本磐余彦命の一行は天照大神より使わされた八咫烏の先導により、無事大和の橿原の地へお入りになられ、紀元前660年2月11日に初代天皇、神武天皇として即位されました。先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は烏石に姿を変えて休んでいるといわれています。

その後、熊野の神々が光ヶ峯に降臨され、御瀧本にお祀りしていましたが、仁徳天皇5年(317年)、山の中腹へ改めて社殿を設け、熊野の神々・御瀧の神様をお遷し申し上げました。これが熊野那智大社の始まりとされています。那智御瀧は熊野那智大社の別宮、飛瀧神社の御神体としてお祀り申し上げています。

熊野那智大社主祭神の熊野夫須美大神は、イザナミノミコトともいわれる。女神を祀る神社なので、社殿もやさしい感じに建てられている。



こちらの社殿の裏手に、青岸渡寺(西国三十三所観音霊場 第一番札所)がある。那智勝浦観光サイトによると、

西国三十三所観音霊場の第一番札所である那智山青岸渡寺(なちさんせいがんとじ)は、熊野那智大社とともに熊野信仰の中心地として厚い信仰を集めています。仁徳天皇の時代(313~399)にインドから那智に渡来した裸形上人(らぎょうしょうにん)が、那智の滝で観世音菩薩を感じ得て、現在の場所に庵を造ったのが始まりとされています。御本尊は如意輪観世音菩薩(にょいりんかんせおんぼさつ)。


雨脚が激しくなって、青岸渡寺の写真は撮れなかった。この2枚は那智勝浦観光サイトから拝借

現在の本堂は、天正18年(1590)に豊臣秀吉が再建したもので、桃山時代の特徴を色濃く残しています。また、本堂内にある鰐口(わにぐち)は、秀吉が寄進したもので、秀吉の願文が刻まれています。明治の神仏分離まで、隣接する熊野那智大社と一体をなし、那智の滝を中心にした神仏習合の名残を見る事ができます。本堂後方には、那智の滝との調和が美しい朱色の三重の塔が立っており、フォトスポットとなっています。



有名な「那智の火祭り」(那智の扇祭り)、今年(2022.7.13~14)はやや参加者数を制限しつつ催行されるそうで、詳しくはこちらに出ている。

雨に阻まれながらも、これで熊野三山はすべてお参りした。最後に新宮駅前の「徐福公園」にお参りしたので、明日(6/9)にでも紹介することにしたい。

※6/10追記 奈良まほろばソムリエの会会員で当ブログご愛読者の徳南毅楽さんが、ご自作の漢詩と水墨画を送って下さいましたので、以下に貼っておきます。なお「青岸渡寺」の自画自賛詩は、6/22(水)~28(火)、奈良県文化会館で開催される「奈良墨游水墨画展」に出品されます。 
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熊野速玉大社(熊野新宮)またの名を「熊野権現」/熊野霊場をゆく(3)

2022年05月25日 | 記紀・万葉
熊野霊場をゆく(3)では、熊野権現、熊野新宮とも呼ばれる「熊野速(早)玉大社」(和歌山県新宮市新宮1番地)を紹介する。
※トップ写真は、平重盛の手植えと伝わる熊野速玉大社の梛(ナギ)のご神木。
推定樹齢は約1,000年で、日本一の梛の巨樹だ。写真はすべて2022.5.12に撮影


熊野速玉大社に到着する頃には、雨が本降りになってきた

私は本宮(熊野本宮大社)に対して「新宮」だと思っていたが、元宮の神倉神社(旧宮)に対して「新宮」と呼ばれるのだそうだ。山深い熊野本宮大社と違い、こちらは熊野川の河口に近く、海に向かって開けた土地にある。JR新宮駅からも徒歩15分ほどだ。熊野三山協議会の公式HPによると、


熊野速玉大社の飛地境内摂社「神倉神社」の社殿とゴトビキ岩。写真は同協議会のHPから拝借

熊野速玉大社は、熊野三山のひとつとして全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮です。今から約二千年ほど前の景行天皇58年の御世に、熊野三所権現が最初に降臨せられた元宮である神倉山から現在の鎮座地にお遷りになり、これより神倉神社の『旧宮』に対して『新宮』と号したと古書にみえます。


熊野速玉大社拝殿、奥の本殿の屋根が見える

御祭神は、熊野速玉大神(イザナキノミコト)・熊野夫須美大神(イザナミノミコト)を主神に、十二柱の神々を祀り上げ新宮十二社大権現として全国から崇敬を集めています。

特に、孝謙天皇の御世、日本第一大霊験所の勅額を賜り、熊野三山の中でも逸早く『熊野権現』の称号を賜りました。「権現」とは仮に現われるの意味で、神様は御殿の中のもっとも清浄な奥処に鎮まりましますので、私達の目にはそのお姿を直接見ることができません。そこでそのお姿を仮に仏に変えて、我々の住む俗世界に現われるという考え方が浸透していきます。


梛のご神木(トップ写真に同じ)

奈良朝末期にいたって、熊野速玉大神は衆生の苦しみ、病気を癒す薬師如来として過去世の救済を、またお妃の熊野夫須美大神は現世利益を授ける千手観音菩薩、家津美御子大神は来世浄土へ導く阿弥陀如来として位置づけられ、山伏や熊野比丘尼によって熊野権現信仰は飛躍的な拡がりを見せ、全国に数千に及ぶ御分社が祀られるにいたりました。


速玉大社の次に向かったのは熊野古道大門坂(東牟婁郡那智勝浦町)


老杉の大木は、樹齢800年とか

さらに、中世熊野信仰の興隆にともない、皇室、公卿、武士中心から庶民信仰へと発展し、過去世救済、現世利益、来世加護を説く三熊野詣こそ、滅罪・甦りへの道であるとして、「蟻の熊野詣」の諺のごとく熊野街道は賑わったのです。



熊野速玉大社のあとは、熊野古道大門坂経由で那智の滝へ向かった。続きは、また後日!
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熊野本宮大社 主祭神は、家津美御子大神(スサノオノミコト)/熊野霊場をゆく(2)

2022年05月23日 | 記紀・万葉
熊野詣(2022.5.11~12)の2日目は、熊野御坊南海バスの定期観光バスで熊野三山を巡拝した。1日で熊野三山すべてをお参りできるので、好都合である。ただしバスの出発(紀伊勝浦駅発)が午前8時30分なので、前泊が必須である。私は駅前に宿を取り、朝から魚市場見学も済ませてから、バスに乗り込んだ。
※トップ写真は熊野本宮大社の大鳥居。鳥居の脇に、白河上皇の御製が看板に書かれていた。「咲き匂ふ花のけしきを見るからに 神のこころぞそらにしらるる」


こちらは後鳥羽上皇の御製「はるばるとさかしき峯を分け過ぎて音無川を今日見つるかな」

バスがまず向かったのは「熊野本宮大社」(和歌山県田辺市本宮町本宮)で、ここで約40分の自由見学時間があった。同大社の公式HP「5分でわかる熊野本宮大社」によると、

熊野三山はどんな神社なの?
熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を合わせて熊野三山といいます。熊野の神々は自然信仰に根ざしていましたが、奈良~平安時代にかけて熊野は仏教・密教・修験道の聖地ともなり、神=仏であるという考え方が広まりました。その影響を受けた三山は結びつきを深め、同じ12柱の神々(=仏たち)をおまつりするようになります。



ここから神殿に向かう。雨がしとしと降っていた

熊野三山の神秘性はますます高まり、平安時代の末には「浄土への入り口」として多くの皇族や貴族がお参りするようになりました。浄土へお参りし、帰ってくるということは、死と再生を意味します。そのため熊野三山は「よみがえりの聖地」として、今なお多くの人々の信仰を集めています。


神殿の写真は「撮影禁止」とあったので、この写真は熊野本宮観光協会のHPから拝借。参拝順序は①証誠殿(本宮・第三殿)家津美御子大神(スサノオ)②中御前(結宮・第二殿)速玉大神(イザナキ)③西御前(結宮・第一殿)夫須美大神(イザナミ)④東御前(若宮・第四殿)天照大神⑤満山社 結ひの神(八百萬の神)

熊野本宮大社の歴史まとめ
当社の主祭神は、家津美御子大神(スサノオノミコト)です。歴史を遡ると、古代本宮の地に神が降臨したと伝えられています。三本の川の中州にあたる聖地、大斎原(おおゆのはら)に社殿が建てられたのは、崇神天皇65年(紀元前33年)のことでした。奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としておまつりするようになります。


平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れました。室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました。男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。


おお、こんなところにヤタガラスが!

明治22年の大洪水により、大斎原は大きな被害を受けました。当時は能舞台などもあり、今の8倍の規模を誇っていましたが、明治24年に上四社が現在地へ移されました。今、大斎原には中四社、下四社、境内摂末社の神々がおまつりされています。平成23年9月、紀伊半島大水害により、当社は再び大斎原や瑞鳳殿などに大きな被害を受けました。しかし、平成26年には瑞鳳殿が再建されるなど以前にも増した復興を遂げ、現在に至ります。


本宮大社の手前に大斎原(おおゆのはら=旧社地)があったが、時間がなくてお参りできなかった。こちらの写真は和歌山県公式観光サイトから拝借した

ここにはさらりと「家津美御子大神(スサノオノミコト)」と書かれている。神さまに捧げる食べ物のことを「御饌津物(みけつもの)」というが「ケ」は食べ物のこと。津は助詞の「の」なので、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)は「食べ物を司るうるわしい御子神さま」ということになり、それがスサノオと同体とされているのだ。

『古事記』によると、スサノオは口や尻から食べ物を出したオオゲツヒメを「無礼な!」と言って斬り殺した。すると大地に倒れた女神の体から、稲、粟、麦、小豆、大豆の五穀の種と蚕が現れ、それが農産の源になったとされる。これは〈オオゲツヒメが独占していた農産を、スサノオが自由にし、全国に広めたことを示している〉(辰宮太一「家津美御子とスサノオは同体」楽学ブックス『熊野三山』JTBパブリッシング所収)、ここから家津美御子大神=スサノオノという説が生まれたようである。さあ、次は熊野速玉大社(新宮)だ!
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補陀落山寺(紀伊勝浦)参拝の記/熊野霊場をゆく(1)

2022年05月17日 | 記紀・万葉
6月に『古事記』をテーマにした講演をご依頼いただいた。過去のPowerPoint資料に手を入れてアップデートしているとき、「そういえばスサノオノミコトは、熊野エリアで信仰されていたな」ということを思い出した。
※トップ写真は補陀落山寺本堂。ご本尊は千手観音(秘仏)で、前立仏が拝観できる

スサノオをご祭神にしている神社もたくさんある。私は和歌山県に生まれたのに、熊野三山すらちゃんとお参りしていなかったことに気づき、この機会に参拝することにした。


補陀落山寺の手前(駅寄り)にある熊野三所大神社(おおみわやしろ)。もとはお寺と一体
だったようだ。熊野那智大社の末社で、「浜宮王子」と呼ばれた。「王子」は御子神の意

そこで1泊2日で熊野エリア(紀伊勝浦・新宮方面)を訪ねることにした。熊野三山は、2日目に定期観光バスで巡拝する。初日(2022.5.11)は早朝から鶴橋経由天王寺から「特急くろしお」で紀伊勝浦入り(町名は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町、JRの駅名は紀伊勝浦)。天気予報はあいにくの傘マークだった。


鳥居の横に、推定樹齢800年という大楠があった



勝浦の駅前でマグロ丼の昼食を済ませたあと、JRの普通列車で那智駅へ。この駅前に補陀落山寺(ふだらくさんじ=那智勝浦町大字浜ノ宮348)と熊野三所大神社があり、近くを熊野古道(熊野参詣道 中辺路)が通っている。


三所大神社には、熊野那智大社の主祭神である熊野夫須美大神(ふすみのおおかみ)、
熊野本宮大社の主祭神である家津御子大神(けつみこのおおかみ)、熊野速玉大社
の主祭神である熊野速玉大神(はやたまのおおかみ)が祀られている

ここは補陀落渡海信仰のメッカだ。補陀落とは、インド南部にあると伝えられるポータラクの音訳で、観音さまが住んでいる浄土(補陀落浄土)である。補陀落山寺はNHKの「ブラタモリ」(2019.4.20)にも登場したので、ご覧になった方も多いことだろう。なお『日本大百科全書』によると「補陀落渡海」とは、



補陀落浄土を目ざして船で単身渡海すること。補陀落とはインドの南海岸にある山で、ここに観世音菩薩 が住んでいるという。阿弥陀信仰が極楽浄土を願うように、観音信仰ではこの観音菩薩のいる補陀落山に往生することを願うのである。


「ブラタモリ」にも登場した渡海船の復元模型。入母屋造りの箱の中に住職などが
入り、外から釘を打ち付けて蓋をした。箱の四隅には鳥居が立てられている

『吾妻鏡』に、1233年(天福1)に御家人 の下河辺行秀 (しもかわべゆきひで) が紀州那智の海岸から補陀落渡海したという報告がある。船に屋形をつくり、外から釘を打ち、30日分の食糧などを積んで単身出発したという。

この地には補陀洛山寺があり、ここの住職は60歳になると渡海したと伝えられている。この寺の背後には那智山があり、補陀落山に擬され信仰されてきた。


箱は一辺が1m少々ほどの立方体だ。この中に閉じ込められるだけで、頭が変になりそうだ

補陀落渡海はわが国の独特な思想といえるが、そこには日本人の神観念が表れている。死後魂は海上のかなたにある先祖の住む常世国 (とこよのくに) に帰るという考えが、その根底に流れているのである。それが観音信仰と結び付いたものといえよう。


那智勝浦観光サイト(一般社団法人 那智勝浦観光機構)に載っていた「那智参詣曼荼羅図」(たぶん模写)。下の端に渡海船と、沖までそれを曳航する2隻の小舟が描かれている

お寺を守る男性がとても親切で、補陀落渡海信仰のことや井上靖の短編小説「補陀落渡海記」のことを教えてくださり、さらに「那智参詣曼荼羅図」(模写)をもとに絵解き(絵図をもとにした解説)までしてくださった。小説「補陀落渡海記」は、これから読んで、いずれ当ブログでも紹介することにしたい。
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