昨日(4/29)、壷阪寺(高市郡高取町壷阪)にお参りした。今年(2012年)の春(3/31~5/31)と秋(10/1~11/30)、お寺では秘蔵の「壷阪荒神」(子島荒神像)を特別開帳しており、「ナント・なら応援団」がガイドをしている。そのお手伝いでお訪ねしたのである。お寺は八重の山吹などがまっ盛りだった。お寺のHPには《子島荒神は、子嶋寺・壷阪寺の中興の祖である真興が感得したと伝えられる荒神である。そのお姿が彫像として残るのは非常に珍しく壷阪寺では永らく壷阪荒神として祀られてきた。今回開帳される尊像は江戸時代、東大寺大仏殿中門二天像を再建した大仏師順慶によるものであり、享保7年に制作されて 290年来初めての一般公開である》とある(パンフレットはこちら)。
※写真はすべて4/29に撮影

荒神像が開帳されている大講堂の前で。制服姿はOBのKさん


拝観時間は9時~16時、入山料は大人600円、小人100円で、駐車料金は別途500円(普通車)必要である。この小さなご神像は、2003年(平成15年)に、同寺にあるお堂の解体修理の際、厨子に収められた格好で発見された。修理を施したあと、05年から毎年1回(12月18日)、信者さん向けに特別開帳されていたが、一般公開されるのはこれが初めてであり、いわば290年ぶりのご開帳である。なお大講堂内は写真撮影禁止なので、ご注意いただきたい。


壷阪寺は、眼病平癒のご利益と巨大な石仏で有名だが、「花の寺」であることは、案外知られていない。春から初夏にかけて、桜、山吹、ツツジ、ラベンダーが咲き誇り、秋には紅葉が楽しめるのである。壷阪寺とは、どんなお寺か、おさらいしておく。『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』(山と渓谷社刊)によると、

正式には南法華寺、俗には壷阪観音という。大宝三年(七〇三)に佐伯姫足子入道尼(善心)が高市郡に建てた、あるいは大宝三年に元興寺の僧、弁基大徳が建立したともいう。境内から出土する白鳳期の瓦は両説の年代と一致する。平安時代には長谷寺とともに定額寺に列せられ、『枕草子』『今昔物語集』などの王朝文学にも名のあがる著名な寺になった。

ピンクと赤の芍薬(シャクヤク)が咲いていた

嘉保三年(一〇九六)に本堂、礼堂、五大堂、弥勒堂、宝蔵、船形房、客房、小板敷などが焼失したが、これらはその後再建。南北朝時代以降は高取城を拠点とする越智氏の寺になったものの、その滅亡とともに寺も衰微した。慶長年間(一五九六~一六一五)に高取城主の本多氏によって修復がなされ、寛永年間(一六二四~四四)以後は高取城主植村氏の庇護により栄えた。

明応六年(一四九七)に建立された三重塔と室町時代中期の礼堂、絹本著色一字金輪曼荼羅図や鳳凰文塼が重要文化財。盲目の沢市と、その眼を治そうと壷阪寺の千手観音に通い詰めた献身的な妻お里の人情話を描いた世話物浄瑠璃「壺坂霊験記」でも知られ、眼病平癒の祈願に訪れる参詣者も多い。西国三十三ヶ所の第六番札所。


『壺坂霊験記』のことをご存じない読者のために、念のためお寺のHPを引用しておく。
今より三百年以上昔、座頭の沢市は三つ違いの女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。沢市は盲目ゆえ琴三味線を教え、お里は内職というなんともつつましい暮らしであった。そんな沢市の胸中に一つ不安が生まれていた。というのも明けの七つ(午前四時)になると、お里が毎晩床を抜け出していたからだ。「もしや好きな男が…」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、この三年もの間欠かさず壷阪寺の観音様に朝詣でをしていると訴える。

こちらは西洋シャクナゲ

八重桜も満開
疑った自分を恥じる沢市はともに観音様にお参りすることにしたが、心の中は盲目がゆえに不遇な暮らしをしているのだと自分を責める。そして、一度お里を家に帰して、お里を自由な身にしてやろうと自分の身を投げてしまうのであった。不吉な予感であわてて戻るお里は、非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまう。しかし、二人のせつない夫婦愛が、観音様の霊験により奇跡が起こり、沢市・お里は助かり、沢市の目が開眼した。本堂横手には、そのお里、沢市が身を投げた、投身の谷と言い伝えられている谷がある。
これからが壷阪寺のオン・シーズンである。このゴールデンウィークには、ぜひカメラ持参でお訪ねいただきたい。
※写真はすべて4/29に撮影

荒神像が開帳されている大講堂の前で。制服姿はOBのKさん


拝観時間は9時~16時、入山料は大人600円、小人100円で、駐車料金は別途500円(普通車)必要である。この小さなご神像は、2003年(平成15年)に、同寺にあるお堂の解体修理の際、厨子に収められた格好で発見された。修理を施したあと、05年から毎年1回(12月18日)、信者さん向けに特別開帳されていたが、一般公開されるのはこれが初めてであり、いわば290年ぶりのご開帳である。なお大講堂内は写真撮影禁止なので、ご注意いただきたい。


壷阪寺は、眼病平癒のご利益と巨大な石仏で有名だが、「花の寺」であることは、案外知られていない。春から初夏にかけて、桜、山吹、ツツジ、ラベンダーが咲き誇り、秋には紅葉が楽しめるのである。壷阪寺とは、どんなお寺か、おさらいしておく。『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』(山と渓谷社刊)によると、

正式には南法華寺、俗には壷阪観音という。大宝三年(七〇三)に佐伯姫足子入道尼(善心)が高市郡に建てた、あるいは大宝三年に元興寺の僧、弁基大徳が建立したともいう。境内から出土する白鳳期の瓦は両説の年代と一致する。平安時代には長谷寺とともに定額寺に列せられ、『枕草子』『今昔物語集』などの王朝文学にも名のあがる著名な寺になった。

ピンクと赤の芍薬(シャクヤク)が咲いていた

嘉保三年(一〇九六)に本堂、礼堂、五大堂、弥勒堂、宝蔵、船形房、客房、小板敷などが焼失したが、これらはその後再建。南北朝時代以降は高取城を拠点とする越智氏の寺になったものの、その滅亡とともに寺も衰微した。慶長年間(一五九六~一六一五)に高取城主の本多氏によって修復がなされ、寛永年間(一六二四~四四)以後は高取城主植村氏の庇護により栄えた。

明応六年(一四九七)に建立された三重塔と室町時代中期の礼堂、絹本著色一字金輪曼荼羅図や鳳凰文塼が重要文化財。盲目の沢市と、その眼を治そうと壷阪寺の千手観音に通い詰めた献身的な妻お里の人情話を描いた世話物浄瑠璃「壺坂霊験記」でも知られ、眼病平癒の祈願に訪れる参詣者も多い。西国三十三ヶ所の第六番札所。


『壺坂霊験記』のことをご存じない読者のために、念のためお寺のHPを引用しておく。
今より三百年以上昔、座頭の沢市は三つ違いの女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。沢市は盲目ゆえ琴三味線を教え、お里は内職というなんともつつましい暮らしであった。そんな沢市の胸中に一つ不安が生まれていた。というのも明けの七つ(午前四時)になると、お里が毎晩床を抜け出していたからだ。「もしや好きな男が…」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、この三年もの間欠かさず壷阪寺の観音様に朝詣でをしていると訴える。

こちらは西洋シャクナゲ

八重桜も満開
疑った自分を恥じる沢市はともに観音様にお参りすることにしたが、心の中は盲目がゆえに不遇な暮らしをしているのだと自分を責める。そして、一度お里を家に帰して、お里を自由な身にしてやろうと自分の身を投げてしまうのであった。不吉な予感であわてて戻るお里は、非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまう。しかし、二人のせつない夫婦愛が、観音様の霊験により奇跡が起こり、沢市・お里は助かり、沢市の目が開眼した。本堂横手には、そのお里、沢市が身を投げた、投身の谷と言い伝えられている谷がある。
これからが壷阪寺のオン・シーズンである。このゴールデンウィークには、ぜひカメラ持参でお訪ねいただきたい。