tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

壷阪寺(西国33所・第6番札所)は、花まっ盛り!

2012年04月30日 | 写真
昨日(4/29)、壷阪寺(高市郡高取町壷阪)にお参りした。今年(2012年)の春(3/31~5/31)と秋(10/1~11/30)、お寺では秘蔵の「壷阪荒神」(子島荒神像)を特別開帳しており、「ナント・なら応援団」がガイドをしている。そのお手伝いでお訪ねしたのである。お寺は八重の山吹などがまっ盛りだった。お寺のHPには《子島荒神は、子嶋寺・壷阪寺の中興の祖である真興が感得したと伝えられる荒神である。そのお姿が彫像として残るのは非常に珍しく壷阪寺では永らく壷阪荒神として祀られてきた。今回開帳される尊像は江戸時代、東大寺大仏殿中門二天像を再建した大仏師順慶によるものであり、享保7年に制作されて 290年来初めての一般公開である》とある(パンフレットはこちら)。
※写真はすべて4/29に撮影


荒神像が開帳されている大講堂の前で。制服姿はOBのKさん





拝観時間は9時~16時、入山料は大人600円、小人100円で、駐車料金は別途500円(普通車)必要である。この小さなご神像は、2003年(平成15年)に、同寺にあるお堂の解体修理の際、厨子に収められた格好で発見された。修理を施したあと、05年から毎年1回(12月18日)、信者さん向けに特別開帳されていたが、一般公開されるのはこれが初めてであり、いわば290年ぶりのご開帳である。なお大講堂内は写真撮影禁止なので、ご注意いただきたい。





壷阪寺は、眼病平癒のご利益と巨大な石仏で有名だが、「花の寺」であることは、案外知られていない。春から初夏にかけて、桜、山吹、ツツジ、ラベンダーが咲き誇り、秋には紅葉が楽しめるのである。壷阪寺とは、どんなお寺か、おさらいしておく。『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』(山と渓谷社刊)によると、



正式には南法華寺、俗には壷阪観音という。大宝三年(七〇三)に佐伯姫足子入道尼(善心)が高市郡に建てた、あるいは大宝三年に元興寺の僧、弁基大徳が建立したともいう。境内から出土する白鳳期の瓦は両説の年代と一致する。平安時代には長谷寺とともに定額寺に列せられ、『枕草子』『今昔物語集』などの王朝文学にも名のあがる著名な寺になった。


ピンクと赤の芍薬(シャクヤク)が咲いていた



嘉保三年(一〇九六)に本堂、礼堂、五大堂、弥勒堂、宝蔵、船形房、客房、小板敷などが焼失したが、これらはその後再建。南北朝時代以降は高取城を拠点とする越智氏の寺になったものの、その滅亡とともに寺も衰微した。慶長年間(一五九六~一六一五)に高取城主の本多氏によって修復がなされ、寛永年間(一六二四~四四)以後は高取城主植村氏の庇護により栄えた。



明応六年(一四九七)に建立された三重塔と室町時代中期の礼堂、絹本著色一字金輪曼荼羅図や鳳凰文塼が重要文化財。盲目の沢市と、その眼を治そうと壷阪寺の千手観音に通い詰めた献身的な妻お里の人情話を描いた世話物浄瑠璃「壺坂霊験記」でも知られ、眼病平癒の祈願に訪れる参詣者も多い。西国三十三ヶ所の第六番札所。





『壺坂霊験記』のことをご存じない読者のために、念のためお寺のHPを引用しておく。

今より三百年以上昔、座頭の沢市は三つ違いの女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。沢市は盲目ゆえ琴三味線を教え、お里は内職というなんともつつましい暮らしであった。そんな沢市の胸中に一つ不安が生まれていた。というのも明けの七つ(午前四時)になると、お里が毎晩床を抜け出していたからだ。「もしや好きな男が…」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、この三年もの間欠かさず壷阪寺の観音様に朝詣でをしていると訴える。


こちらは西洋シャクナゲ


八重桜も満開

疑った自分を恥じる沢市はともに観音様にお参りすることにしたが、心の中は盲目がゆえに不遇な暮らしをしているのだと自分を責める。そして、一度お里を家に帰して、お里を自由な身にしてやろうと自分の身を投げてしまうのであった。不吉な予感であわてて戻るお里は、非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまう。しかし、二人のせつない夫婦愛が、観音様の霊験により奇跡が起こり、沢市・お里は助かり、沢市の目が開眼した。本堂横手には、そのお里、沢市が身を投げた、投身の谷と言い伝えられている谷がある。

これからが壷阪寺のオン・シーズンである。このゴールデンウィークには、ぜひカメラ持参でお訪ねいただきたい。
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森と水の源流館の尾上忠大さん( by 西久保智美さんの 「地域に生きる」 )

2012年04月29日 | 奈良にこだわる
週刊奈良日日新聞に毎月1回、「地域に生きる」というインタビュー記事が載る。私はこれが楽しみで、いつも真っ先に読む。インタビュアー(兼ライター)は、コミュニティライターで「工房街道推進協議会」広報担当の西久保智美さんである。その10回目(4/27付)に登場されたのは、このたび森と水の源流館事務局長に就任された尾上忠大(おのうえ・ただお)さんである。

同館のHPによると《事業の企画を担当。いろんな人、いろんな考え方、そのおもしろさとチカラをつないでいきたいです。ニックネームは「おのぴー」》とある。同館を運営するのは「公益財団法人 吉野川紀の川源流物語」で、西久保さんは同法人の理事を務めておられる。


平城宮跡会場(平城遷都1300年祭)での出張源流教室(トップ写真と次の写真も)。10.5.10撮影

私にとって尾上さんは、「とても頼りになる人」である。平城遷都1300年祭では、学べる屋台(出張源流教室)で、何度もご講話いただいた。奈良女子大の学生対象のインターンシップ研修でも、一昨年から川上村に研修生を受け入れて、説明・案内を担当してくださっている。神戸ご出身のシティボーイなのに、村に見込まれて源流館に転職、大淀町の花吉野ガーデンヒルズ(近鉄福神駅前)に住んでおられる。前置きが長くなったが、以下、記事全文を紹介する。タイトルは《「はじまり」の10周年》である。



北海道などで外資による水源地の森林売買の問題を受け、各地では水源地を守る保全条例の施行など対策を取り始めた。奈良県南部を流れる吉野川は、川上村が約10億円かけて「水源地の森」を購入し、源流を守り続けている。この森を管理し、自然や水の大切さを伝え続けてきた「森と水の源流館」が今月29日、開館10周年を迎える。事務局長の尾上忠大さん(47)は「これからがはじまり」と話す。

川上村は平成6年、かけがえのない水と森を守り育てていこうという願いと決意を込めた「川上宣言」を全国に向けて発信。この宣言に基づき、源流館を開館された。当時、環境計画などのコンサルタント業務をしていた尾上さんは、この宣言文に心が響いた。「住民や村が今後目指すべきビジョンや行動の目的が明確に描かれていて、川上宣言を具現化することに魅力を感じました」と振り返る。



環境問題に関する研修会で(3/16川上村役場 次の写真も)

源流館に転職した尾上さんは、「エコ」や「リサイクル」など環境問題がまだ話題になっていない時代、まずは源流館の存在を知ってもらおう発信強化に努めた。その矢先、県が平成18年から森林環境税を導入、森林環境教育に力を注ぐようになったことも後押しとなり、源流館としての活動の立ち位置がはっきりしたという。吉野川・紀の川流域の学校や団体などの体験学習の場として、水源地の森でフィールドワークを行い、源流の自然や水源地を守ることの大切さを分かりやすく伝える取り組みのほか、住民や流域の生産者との意見交換を通じて、きれいな水を流す責任を学ぶ取り組みも行っている。



当初に比べ、相互に水に対する意識も変わってきたという。「いろんな人に助けてもらいながらの10年でした。地道な努力が広がり、川上宣言があらためて指針となり、内外の人たちにも広がっているのがうれしい」と尾上さん。今月から、公益財団法人として新たな一歩を踏み出した。今後より一層、信頼と責任を持って、皆さんと一緒に水源地域の環境保全を図り、公共利益に寄与する活動に努めていきたい」と力強く語る。新たな「はじまり」を告げる「開館10周年・誕生日の宴」は29日午前11時から始まる。

4/29といえば、今日である。森と水の源流館は、開館10周年を記念したアニバーサリーイベント「誕生日の宴」を開くのである(当日は入館無料となる)。同村東川(うのがわ)の伝統行事「千本づき」の再現や、山菜天ぷらのふるまいなどの催しがある。

公益財団法人に生まれ変わり、次のステップへの「はじまりの10周年」である。ぜひ、ご参加いただきたい。尾上さん、事務局長ご就任、おめでとうございます。今後とも、ご活躍を期待しています!

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復興のシンボル、三春の滝桜(福島県)が満開!

2012年04月28日 | 日々是雑感
今朝(4/28付)の読売新聞1面に、満開の「三春の滝桜」の写真が載っていた。記事には

大型連休スタート前日の27日、日本三大桜の1つで国の天然記念物に指定されている福島県三春(みはる)町の「滝桜」が満開を迎えた。夜にライトアップされると、ピンク色の花びらが輝き、大勢の花見客が荘厳な姿に見入っていた。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の影響で、昨季の観光客は例年の半数の15万人に落ち込んだ。町は、今年の人出を例年並みの30万人と予想している。見頃は30日頃まで。

同紙の福島県版には、「滝桜に勇気づけられ 故郷の桜 重ね合わせて 富岡 遠藤さん」という記事が載っている。「YOMIURI ONLINE」(4/28)によると、

三春町で27日、満開となった滝桜。東京電力福島第一原発事故で避難し、滝桜の近くの仮設住宅で暮らす富岡町上手岡の遠藤富次郎さん(64)は、美しく咲き誇る姿を故郷の桜と重ね合わせる。(佐藤雄一)

同原発から約8キロ離れた場所に住んでいた遠藤さんは事故後、群馬県、東京都など避難先を転々とした末、昨年8月、三春町の仮設住宅に落ち着いた。散歩で滝桜を訪れる度、推定樹齢1000年以上のベニシダレザクラに圧倒された。長年風雨にさらされながら、生き抜いてきたことを思わせるごつごつとした幹を見て思った。「滝桜が、俺に『頑張れよ』と言っている」

富岡町にも、桜の名所として知られる「夜の森公園」がある。遠藤さんは福島第二原発の作業員の送迎バスの運転手を務める傍ら、自宅近くでコメや野菜を作っていた。「夜の森のサクラが満開になると、田んぼの種まきが始まる。サクラは1年の始まりだったんだ」と当時を振り返る。

勇気づけてくれた滝桜へ感謝の意を込めて、開花前の4月中旬、仮設住宅の住民約30人に声をかけ、滝桜周辺のゴミや落ち葉を拾った。満開を迎えた27日、観光客が大勢詰めかけた滝桜を見守った。「俺たちは、いつ富岡に帰れるか分からないけど、今はこのサクラの木に支えられて生きてるんだ」


大和文華館(奈良市)で咲いた三春の滝桜(4/8撮影)

三春の滝桜は、福島県復興のシンボルである。今年は寒い日が続いたので、例年より10日ほど遅い満開である。奈良に植えられた滝桜(大和文華館)は、4月10日頃に満開だったから、現地より20日近く早かった。奈良に比べ福島は、それほど寒いのである。

桜の語源は《春に里にやってくる稲(サ)の神が憑依する座(クラ)》(Wikipedia)という説が有力である。《桜は穀物の神が宿るとも、稲作神事に関連していたともされ、農業にとり昔から非常に大切なものであった。また、桜の開花は、他の自然現象と並び、農業開始の指標とされた場合もあり、各地に「田植え桜」や「種まき桜」とよばれる木がある》(同)。遠藤さんが、故郷の「夜の森のサクラが満開になると、田んぼの種まきが始まる。サクラは1年の始まりだったんだ」と話されているとおりである。

福島復興プロジェクトチームの愛称は「花に願いを」である。ゴールデンウィーク前半の3日間はお天気も良さそうなので、満開の桜が楽しめそうだ。福島県の皆さん、ぜひ滝桜から元気をもらってください!
※トップ写真はWikipedia「三春滝桜」より
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奈良町からくりおもちゃ館、本日オープン!(2012Topic)

2012年04月28日 | お知らせ
いよいよ本日(4/28)、「奈良町からくりおもちゃ館」(奈良市陰陽町=いんぎょまち)がオープンする。「入館無料」という太っ腹だ。昨日、開館記念式典が行われ、その模様が同日の奈良経済新聞(インターネット新聞)に《奈良に新観光スポット「からくりおもちゃ館」-町家を利用、体験工房も》として紹介されている。

奈良町の活性化、奈良の観光振興に役立ててもうらおうと、2007年に奈良市に寄贈された1890(明治23)年ごろに建てられた旧松矢宅を利用した同館。からくりおもちゃは、奈良大学で歴史学の研究の一環で約25年にわたり「からくりおもちゃ」の研究を行い、江戸時代のからくりおもちゃを復元してきた元同大学教授の鎌田道隆さんが寄贈したもので、点数は618点に及ぶ。

同館は、古い町家の雰囲気を残したまま耐震工事を行った「展示と遊びのスペース」(母屋)と、庭に今回新たに新設した体験工房から成る。延べ床面積は265.19平方メートル。 

当日の展示スペースには、板の端を持つと表の絵が現れ、手を返すと板が順に裏返り裏の絵が現れる「パタパタ」「板返し」などとも呼ばれる「かくれびょうぶ」。猫とねずみの追いかけっこを表現した「猫とねずみ」、砂が落下する力を利用して人形に鐘を打たせる「鐘打ち人形」など約20点を並べる。これらのおもちゃは自由に遊ぶことができ、子どもはもの珍しいおもちゃに興味深く見入り、大人は懐かしみながらおもちゃを触っていた。

開館を翌日に控えた27日に行われた開館式典で、福井重忠奈良市副市長が「観光客と地元の皆さんの憩いの場として活用してもらいたい。奈良町の活性化につなげていければ」と期待を寄せた。式典後、NPO法人「からくりおもちゃ塾奈良町」理事長で、同館の名誉館長でもある鎌田さんが記念講演を行った。「からくりおもちゃには日常生活の知恵が取り込まれている。動きがのんびりしている『間』と『人間的なしぐさを織り込んでいる』ところがからくりおもちゃの魅力」と話した。開館時間は9時~17時。水曜休館(祝日は開館)。


奈良新聞には、松矢さんのコメントが載っている。《寄贈者の1人で大阪府東大阪市在住の機械設計者、松矢邦利さん(71)は「からくりおもちゃは、遊びを超えた教育であり、日本の教育の原点がここにある。大勢の人に愛される場所になれば」と話していた》。

鎌田道隆氏は奈良大学の前学長で、今は名誉教授である。もう10年近く前になるが、「奈良県“暮らし”と“環境”フェスティバル」で「からくり玩具教室」を開かれていて、大好評を博していた。09年9月には、私の勤務先のOB向けの研修でも講義をしていただいた。屋久島のご出身で、偉い先生なのに飾らないお人柄が、とても印象的だった。

ゴールデンウィークがスタートする今日の奈良は快晴、降水確率もO%である。さあ、奈良町からくりおもちゃ館へ行こう!
※地図は、こちら

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昨年、奈良県を訪れた外国人客は 3割減! 観光地奈良の勝ち残り戦略(58)

2012年04月27日 | 観光地奈良の勝ち残り戦略
もやもやとして頭から離れない新聞記事がある。4月24日付の奈良新聞1面トップに出ていた「昨年の県内 外国人の訪問激減 大震災など要因」「県、中国人軸に挽回図る」という記事である。「3.7ポイントの大幅減」「41万人減」「減少率は日本で5番目」「49,600人減」とずらずら並べられた数字も気になる。なぜもやもやしているかというと、「大震災」は東北の話だし、なぜ「中国人」が軸なのか、41万人と49,600人の関連性は何なのか、さっぱり分からないからだ。1面トップに載せるからには、ちゃんとした裏付けデータがあるのだろうか。記事の全文を以下に掲載する。
※トップ写真は春日大社で4/8に撮影。ドイツ語で案内されていた

観光庁が発表した昨年のわが国への外国人の訪問率データから、県は3・8%で前年(7・5%)に比べ3・7ポイントの大幅減となったことが分かった。全国の訪問客数から推計した県への外国人訪問客数は前年比41万人減の23万6千人。昨年3月に発生した東日本大震災の影響などが減少の要因に考えられる。県は中国人を中心に観光客誘致に力を入れ、落ち込みの挽回を図っている。

訪問率とは、日本を訪問した外国人への調査回答者のうち何%が当該地域を訪れたかを示す率。昨年の標本数は2万5744。1~3月は日本政府観光局(JNTO)が、4~12月は観光庁が調査を実施した。県は全国順位でも昨年の11位から12位に後退。減少率では東京都や京都府などに次いで5番目だった。また、県独自に実施する県内主要観光案内所での定点調査でも4万9600人減少し、外国人観光客の落ち込みを裏付けている。

県国際観光課は、東日本大震災の影響による全国的な減少▽平成21年の平城遷都1300年祭の反動▽調査実施機関の変更―などを減少要因に分析。昨年実施した外国人観光客向けパンフレットのリニューアルなどの効果を検証しつつ、新たな誘致策も検討。中国人が宿泊すると3年間有効な数次査証(マルチビザ)を取得できる、沖縄県と連携したツアーづくりを模索する。

また、従来の中国、韓国、台湾、香港、フランスに加え、新たにタイとオーストラリアを重点国・地域として観光客誘致を図る予定だ。県国際観光課は「中国人観光客にとって奈良は歴史や文化で有名だが観光地のイメージがない。関西国際空港から約1時間の利便性の良さも訴えたい」としている。


どうやらこの記事は県の発表をモトにしているようなので、県国際観光課のホームページを開いてみた。すると「平成23年奈良県への外国人訪問客数(推計)について」という「新着情報」が出てきた。これをもとに、以下にきちんと検証してみよう。

1.訪日外国人の訪問率は減少し、全国順位も下がった
訪日外国人の奈良県への年間訪問率は6.2%・全国順位11位(2009年)、7.5%・11位(2010年)、3.8%・12位(2011年)と推移した。これが記事の見出しにあった「3.7ポイントの大幅減」(10年比)である。それなのに全国における順位が1つ繰り下がっただけで済んだのは、全国的に訪問率が下がっているからである。全国の年間訪問率は230.3%(2009年)、248.3%(2010年)、204.9%(2011年)と推移した。

2.訪問率の減少幅は、例年に比べて△約30%(2010年と比べて△約37%)
奈良県への訪問外国人客数は、421千人(2009年)、646千人(2010年)、236千人(2011年)と推移した。記事にあった「41万人減」は、この数字である。率にすると△43.9%(09年比)、△63.5%(10年比)となる。4~6割減とは、穏やかでない(なお、1300年祭のおかげで10年は09年に比べ、訪日外客が53.4%も増えていたのだ!)。

しかし全国への訪問外国人客数も、6,790千人(2009年)、8,612千人(2010年)、6,219千人(2011年)と推移している。これは△8.4%(09年比)、△27.8%(10年比)である。特に2010年比での落ち込み幅が大きい。やはり震災が影響したのだろう。

問題は「全国的に減っている中で、奈良県がどれだけ減ったのか」であるから、「訪問率の全国シェア(全国の訪問率に占める奈良県への訪問率の割合)の推移」を見るのが、最も妥当なバロメータになる。すると2.7%(2009年)、3.0%(2010年)、1.9%(2011年)となり、それぞれ△29.6%(09年比)、△36.7%(10年比)である。1300年祭のあった2010年との比較は酷なので、通常の年である2009年と比較すべきであり、すると「約3割減」ということになる。これが2011年の実態である。 

なお、記事に「県独自に実施する県内主要観光案内所での定点調査でも4万9600人減少」という全く別個の数字が出ている。県のHPを調べると、これは「奈良県における主要観光案内所での外国人観光客案内実績の推移」というでデータであった。奈良市内5か所の案内所での「SGG及びEGG案内所での外国人観光案内実績」である(要するに「奈良市内5か所での外国人応対実績」だ)。もともとのサンプル数が少ないので、これを観光庁データと並べるのは無謀である。それを無視して「41万人減」と「4万9600人減」を並べては、読者が迷うだけである。こういう調査はパーセンテージだけ見れば足りる。すると2011年は△23.9%(09年比)、△39.0%(10年比)と、観光庁調査とよく似た傾向になっていることがわかる。

3.2011年の調査にはバイアスがかかっている可能性があり、鵜呑みにするのは危険
記事に「調査実施機関の変更―などを減少要因に分析」とある。これは、従来JNTO(日本政府観光局)が手がけていた調査が、政府の行政刷新会議による事業仕分けのため、観光庁に移管されたということである。「観光庁に移管されたから、より精密な調査になる」というのは逆で、観光庁は民間業者に調査を再委託するので荒っぽくなった可能性がある、ということなのだ。全国の年間訪問率で230.3%(2009年)、248.3%(2010年)、204.9%(2011年)と、10年と11年の開きがあまりにも大きいのは、そのせいかも知れない。

4.中国人富裕者向け「沖縄マルチビザ」なんか、奈良観光の切り札にはならない
県国際観光課のコメントに「数次査証(マルチビザ)を取得できる、沖縄県と連携したツアーづくりを模索する」とあり、「沖縄マルチビザ」に言及している。これは《中国人の観光客を増やすため、外務省が7月1日から新たに発給しているビザの通称。中国人の富裕層(年収約25万元/日本円で300万円強)を対象とし、1度の発給で3年以内なら何度でも日本に訪れることができ、1回の滞在は最長90日間。年間では180日間までで、初回の滞在時に最低1泊以上、沖縄県内で宿泊しなければならないという点が義務付けられている。中国人にも人気が高い観光地である沖縄を起点に、もっと多くの中国人観光客を訪日させようという狙いがある》(週プレニュース)という代物である。沖縄に泊まりに来る観光客を奈良へ、という淡い期待であるが、距離的にも遠すぎるし、観光目的が違いすぎる。リゾートや買物が目的の中国人観光客が、奈良の歴史遺産にさほど興味があるとは思えない。
                   
県下では、中国人観光客の誘致に期待する声が高いが、私には理解できない。海外へ旅行したいという中国人のうち、日本へ行きたいと希望する中国人は、わずか1%、という調査結果を耳にしたことがある。しかも訪日中国人の最大の観光目的は「ショッピング」だ。日本政策投資銀行のレポートによれば、日本に来た中国人の訪問地は、大阪府が47.9%、京都府が34.3%なのに、奈良県はわずか3%程度である。むしろ奈良の自然や歴史遺産に関心の高い欧米人こそ、観光ターゲットにすべきではないか。

2011年は、奈良を訪れた外国人観光客(訪問率シェア)は、通常年(09年)に比べて約3割減った。10年は約5割も増えていた(09年比)のに、これはとても残念なことである。さまざまな外部要因(震災、円高、調査機関の変更など)があったにしても、全国順位が下がったことは事実であり、減少幅も全国で5番目に高かった。これでは訪日外国人客誘致の努力が足りなかったといわれても、仕方がない。今後は、県国際観光課が新たに制作したパンフレットなどを活用し、また近隣府県などと連携し、官民あげて欧米をはじめとする外国人観光客の誘致に取り組まねばならない。

以上が私の結論である。あぁ、スッキリした!
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