tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

応神天皇ゆかり、天武天皇しのぶ「国栖奏(くずそう)」の浄見原神社(吉野町南国栖)/毎日新聞「やまとの神さま」第108回

2025年01月14日 | やまとの神さま(毎日新聞)
新年第1回(2025.1.8)の「やまとの神さま」は、〈浄見原神社(吉野町)/天武天皇しのぶ歌舞〉だった。執筆されたのは、姫路市在住の池内力(いけうち・ちから)さん。池内さんはご遠方にも関わらず、よく奈良県に来られ、各地の史跡などを精力的に訪問されている。では、以下に全文を紹介する。
※トップ写真は、国栖奏が行われる浄見原神社の拝殿=吉野町

浄見原神社(吉野町)/天武天皇しのぶ歌舞
浄見原(きよみはら)神社は、吉野町南国栖(みなみくず)を流れる吉野川右岸の断崖に鎮座しており、祭神は天武天皇です。大海人(おおあまの)皇子(後の天武天皇)は、近江大津宮で、兄の天智天皇から皇位継承の要請を受けましたが、これを固辞して出家し吉野に逃れました。

伝承によれば、吉野の国栖人(くずびと)は、皇子を和田岩窟に匿(かくま)い、一夜酒(ひとよざけ)やウグイなどを献上するとともに、応神天皇に由来する歌舞「国栖奏(くずそう)」を奏上しました。その後、壬申の乱で勝利した天武天皇は、即位に際して国栖人を召して国栖奏を奏上させました。

それ以降、大嘗祭(だいじょうさい)や節会(せちえ)などの重要な行事で奏上されましたが、時代が下るにつれてその機会が少なくなってきました。このため、平安時代末、国栖人は、和田岩窟の近くに浄見原神社を創建して、国栖奏を奉納するようになり、以降、毎年、旧暦1月14日に絶えることなく行われています。

当日は、拝殿の通路部分が板でふさがれ、舞殿になります。演じるのは、「翁筋(おきなすじ)」の家の人達で、舞翁2人、笛翁4人、鼓翁1人、謡翁5人の計12人です。拝殿から続く石段の上には本殿があり、石段には、一夜酒・ウグイ・木の実・根芹・アカガエルが供えられます。(奈良まほろばソムリエの会会員 池内力)

(住 所)吉野町南国栖1
(祭 神)天武天皇
(交 通)近鉄大和上市駅から吉野町コミュニティバス(オンデマンド)で「浄見原神社口」下車、西へ徒歩約10分
(駐車場)あり(有料)
(電 話)なし


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ご祭神はえびす神、15社めぐりの第8番「佐良気(さらけ)神社」(奈良市 春日大社境内末社)/やまとの神さま第107回

2024年12月22日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週水曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先週(2024.12.18)掲載されたのは〈人生の難所守る15社の1つ/佐良気神社(奈良市)〉、執筆されたのは、奈良市にお住まいの新島弓美子(にいしま・ゆみこ)さんだった。
※トップ写真は、春日大社若宮神社近くに鎮座する佐良気神社=奈良市春日野町で

佐良気神社はえべっさん(えびす神社)で、本えびすは1月10日(春日の十日えびす)なので、ご注意いただきたい。私もお参りしたことがあるが、普段は参拝者の少ない若宮15社の中で、ここには行列ができていた。特に午前10時頃に混み合うようなので、正午前後にお参りするのが良さそうだ(ただし吉兆笹は、なくなり次第終了)。では、以下に全文を貼っておく。

人生の難所守る15社の1つ/佐良気神社(奈良市)
春日大社南門前の石灯籠(とうろう)が並ぶ御間道(おあいみち)を100㍍ほど南に行くと「おん祭」で有名な春日若宮があります。この神社の周りに人が生涯を送る間に遭遇するさまざまな難所をお守りする神々が若宮15社として鎮座しています。

神社の南側、15社めぐりの第8番納札社が春日大社境内末社の佐良気(さらけ)神社です。赤い柵に囲まれた敷地には鳥居があり、小さな境内の中、城の石垣のような上にお社が東側の深閑(しんかん)とした森を背にして立つ姿に威厳を感じます。

ご祭神は蛭子神(ひるこのかみ)(一般にはえびす神)です。蛭子神はイザナギとイザナミが最初に生んだ神様でした。手足が不自由な姿ゆえ葦(あし)の舟で海に流されてしまい、今の大阪・兵庫あたりで拾われ、「えびす三郎」という名で大切に育てられ、恵比寿明神になったという伝承もあります。商売繁盛、交渉成立をお守りくださる神さまとされています。

毎年1月10日に「春日の十日えびす」と言われる御例祭が行われます。通常、春日大社の巫女(みこ)さんは藤のかんざしをつけていますが、この日は金色の烏帽子(えぼし)をかぶった福娘が吉兆笹(きっちょうざさ)や縁起物を授与してくれます。日ごろ静かなこの神社が大にぎわいを見せることから、人々の信仰を集めていることが実感されます。(奈良まほろばソムリエの会会員 新島弓美子)

(住 所)奈良市春日野町160。春日大社内
(祭 神)蛭子神(えびす神)
(交 通)JR・近鉄奈良駅からバス。「春日大社本殿」下車、徒歩約10分
(駐車場)春日大社にあり。有料
(電 話)0742・22・7788


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県内で最速、1月4日に宵宮、5日に本祭「南市恵毘須神社」(奈良市南市町)

2024年12月19日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週水曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先週(2024.12.11)掲載されたのは〈商売繁盛「五日えびす」/南市恵毘須神社(奈良市)〉、執筆されたのは、奈良もちいどのセンター街で陶器店「器まつもり」を営む松森重博さんだった。
※トップ写真は、南市恵毘須神社の本殿=奈良市南市町で

私は奈良に来るまで、えべっさんは1月9日(宵えびす)、10日(本えびす)、11日(残りえびす)と信じ込んでいたので、南市恵毘須神社は4日と5日と知って、とても驚いたことがある。奈良県内では、2月に営まれるえべっさんもあると聞いて、「さすがに歴史ある奈良県だな」と、しみじみ思った。では、全文を紹介する。


こちらの写真は、私が撮った南市恵毘須神社の本えびす(2006.1.5撮影)

商売繁盛「五日えびす」/南市恵毘須神社(奈良市)
南市恵毘須(みなみいちえびす)神社は、奈良市の中心市街地にあるもちいどのセンター街に隣接する南市町に鎮座します。南市という市は鎌倉時代に開かれたとされ、高天(たかま)市、北市とともに「南都の三市」と呼ばれました。

この神社は春日大社の境外末社で、鎌倉時代の創建と伝わります。本殿は一間社春日造、祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)で、えびす様とも呼ばれます。市場の守護神としてお祭りされ、招福と商売繁盛の神様として有名です。

1月4日に宵宮、翌5日に本祭の初戎(はつえびす)が行われます。県内で年の初めの最初の「えびす祭」と言われ、「五日えびす」との呼称でも名高く、多くの参拝者でにぎわいます。

かつては県内の数あるえびす祭で最もにぎわったと伝わります。大正時代には歌人の会津八一も訪れ、「笹(ささ)の葉に鯛(たい)吊(つ)り下げてあをによし奈良の巷(ちまた)は人の波打つ」(原文はかな)と往時の様子を伝えています。1965年ごろまで芸者を乗せた宝恵籠(ほえかご)が繰り出していました。

春日大社を神仏習合の観点で描いた春日曼荼羅(まんだら)を保有する南市町自治会が日ごろから神社の世話をされています。本祭では春日大社の神官や巫女(みこ)による神事が行われ、同自治会えびす講が吉兆笹を販売します。(奈良まほろばソムリエの会会員 松森重博)

(住 所)奈良市南市町28
(祭 神)事代主命
(交 通)近鉄奈良駅から徒歩約10分、JR奈良駅から徒歩約20分
(見 学)境内は普段、立ち入り禁止。祭事の時のみ開放
(駐車場・電話)なし


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高市県(たけちのあがた)の首長の祖神を祭る「高市御県(みあがた)神社」(橿原市四条町)

2024年12月12日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週水曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先週(2024.12.4)掲載されたのは〈天皇に野菜献上した地の神/高市御県(たけちのみあがた)神社(橿原市)〉、執筆されたのは同会会員で、橿原市にお住まいの亀田幸英さんだった。
※トップ写真は、高市御県神社鳥居と拝殿=橿原市四条町で

御県神社とは、天皇の食事に出す野菜を栽培する朝廷の直轄地のことである。県内には6つの御県があり、前回のこの欄では、志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社を紹介した。

なお高市御県神社は、橿原市今井町の高木家が社人の筆頭として、奉仕して来られた。今井町の「高木家住宅」(国重文)は、内部が一般公開されている。では、以下に全文を紹介する。

天皇に野菜献上した地の神/高市御県神社(橿原市)
高市御県神社は歴史ある町並みの今井町を解説する資料館、今井まちなみ交流センター「華甍(はないらか)」の南隣に鎮座します。創建は明らかではありませんが、平安時代の「延喜式神名帳」には、名神大社に列せられ、古くは極めて有力な神社だったと思われます。

高市県については、「日本書紀」の672(天武天皇元)年7月条で壬申の乱の記事に登場する当地の「高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)」の名が見えます。古代の大和国では、天皇に献上する野菜を栽培する直轄地を御県といい、「延喜式」にある祈年祭(としごいのまつり)の祝詞の中に「六つの御県」(高市、葛木、十市、志貴、山辺、曽布)の各郡の名前と、土地の霊を祭る御県神社の存在が記録されています。

祭神の天津彦根命(あまつひこねのみこと)は高市県主の祖と言われています。他方の祭神の高皇産霊命(たかみむすびのみこと)が祭られている事情は不明です。その後時代と共に神社は衰えますが、江戸時代以降当社は高木宮(こうきのみや)とも呼ばれ、今井町の有力な高木家が当社社人(しゃじん)の筆頭となり、高木一族が氏子として奉仕してきました。

近年では高木本家が中心になって祭礼を取り仕切っています。なお、国重文「高木家住宅」は19世紀初頭に本家から分家し内部は一般公開されています。(奈良まほろばソムリエの会会員 亀田幸英)

(住 所)橿原市四条町817
(祭 神)天津彦根命、高皇産霊命
(交 通)近鉄橿原線八木西口駅より南へ約10分
(拝 観)境内自由
(駐車場)なし
(電 話)0744-22-6551(株式会社タカギ)


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崇神天皇の宮跡伝承地、志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社(桜井市金屋)

2024年11月26日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週水曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先週(2024.11.20)掲載されたのは〈古代ヤマト王権発展の地/志貴御県坐神社(桜井市)〉執筆されたのは、田原本町にお住まいで、桜井市で勤務されている岡本喜一さんだった。
※トップ写真は、志貴御県坐神社の本殿=桜井市金屋で

御県坐神社とは聞き慣れない言葉だが、天皇の食事に出す野菜を栽培する朝廷の直轄地のことである。県内には7つほどの神社があり、以前、これらを1日で参拝するツアーを企画したこともある。では、全文を以下に紹介する。

古代ヤマト王権発展の地/志貴御県坐神社(桜井市)
三輪山の南西の麓(ふもと)に鎮座しており、すぐ近くを山の辺の道が通っています。御県(みあがた)とは天皇の食事に添える蔬菜(そさい=野菜)を栽培する朝廷の直轄地を示しており、大和にあった六つの御県の一つ、志貴の地に建てられた式内大社です。創建は明らかではありませんが、730(天平2)年の大和国正税帳(しょうぜいちょう)にその名が見られます。

主祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)。本殿は流造檜皮葺(ながれづくりひえだぶき)、前に千鳥破風がつきます。拝殿は切妻造桟瓦葺(さんかわらぶき)。境内社は二社あり、琴平神社・嚴島神社。拝殿東側には四つの磐座(いわくら)が等間隔で並んでおり、この場所が古くから信仰の場所であったことがうかがえます。

鳥居の前に立つと南には音羽山、鳥見山、御破裂山(ごはれつざん)などの展望が広がります。桜井市金屋は、「八十(やそ)のちまた」といわれ古代における交通の要衝でした。万葉集にも歌われた海柘榴市(つばいち)が立った場所です。

東は伊勢街道を通じて初瀬(はせ)・宇陀・東国へ、南は磐余道(いわれみち)や多武峰(とうのみね)街道を通じて飛鳥・吉野・紀伊へ、北は山の辺の道を通じて奈良・山城・近江へ、西は横大路や大和川の水運により難波・瀬戸内海へとつながっていました。

神社は第十代崇神天皇の磯城瑞籬宮跡(しきみずがきのみやあと)の伝承地といわれ、石碑が建っています。まさに古代ヤマト王権が発展していく拠点となった地です。(奈良まほろばソムリエの会会員 岡本喜一)

(住 所)桜井市金屋896
(祭 神)大己貴神
(交 通)JR桜井線三輪駅から徒歩約15分
(拝 観)境内自由
(駐車場)なし
(電 話)三輪惠比須神社(0744-42-6432)


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