奈良大学の教授陣による奈良に関する「特別講義」を受講する機会に恵まれた。平城遷都1300年記念事業の目玉事業である「奈良大和路 秘宝・秘仏特別開帳」などを支援するボランティア養成のための研修として企画されたものである。講座は10日間(20コマ・1コマ80分)で、6人の教授・名誉教授が担当される。とても充実した講義だし、奈良検定(奈良まほろばソムリエ検定)の受験にも役立つと思うので、順次内容を紹介することにしたい。
http://www.nantobank.co.jp/news/090817.htm
第1回(8/19)は、文学部地理学科教授・池田碩(いけだ・ひろし)氏の講義だった。講義名は「奈良-古都を育んだ内陸の盆地」である。講義はたくさんの地図を使った本格的なものであったが、ここでは若干のキーワードとともに、目からウロコの話をピックアップする。
1.奈良盆地は、地震エネルギーをため込みつつある
日本列島は若く、今も隆起を続けている(古くて安定したオーストラリア大陸には、火山も地震もない)。「太平洋プレート」(太平洋の海底に広がる巨大な岩盤)は、年間8~10cmの早さで日本列島の下に沈み込み、巨大地震や津波が起きる要因となっている。
地震には2種類ある。1つは「プレート境界型地震」(海溝型・海洋性地震)。地球の表面は、大小10枚程度のプレートと呼ばれる板状の岩盤でおおわれており、そのプレート(岩盤)とプレートがぶつかりあうところで伸びや縮みなどのひずみが生じ、このひずみが限界に達するとプレートが急に元に戻る。このときの衝撃によっておこる地震がプレート境界型地震で、規模が大きく大規模な津波による被害も予想される(関東大震災、十勝沖地震、三陸はるか沖地震など。近い将来発生すると予測されている「東海地震」もプレート境界型地震)。とてもわかりやすい地震である。
いま1つは「内陸直下型地震」(内陸型・プレート内地震)。プレート内において発生する活断層が動いて起こる地震で、プレートを圧縮する力や引っ張る力などがプレート内で部分的に解放されて起きる。日本の至る所で見られる活断層の多くは、内陸直下型地震の古傷が地表に表れたもので、将来にわたって地震発生の可能性もある(たとえ何千年に1回動くかどうかと言われていても、活断層の真上には、建物等は建てない方が賢明である)。
プレート境界型地震と比べて規模は小さいものの、人々の住む町の周辺で起こると、震源からの距離が近いだけに大きな被害が出る(阪神大震災はマグニチュード7.2と内陸の直下型地震としてはさほど大きくなかったが、人口が密集している都市の下で起こったため、地震災害として戦後最悪のものとなった)。
阪神大震災では約6500人の死者が出たが、これが明治時代に起きていたら、死者は50~60人どまりだったろう。それだけ文明が発達したということだ。阪神大震災では、六甲山が上がり、大阪湾が下がるという現象が起きた。奈良で内陸直下型地震が起きると、生駒山が上がり、奈良盆地が下がるだろう。つまり「日本沈没」ではなく「日本隆起」だ。活断層が集中しているのは関西で、奈良盆地にも多い。奈良盆地は日本列島の「くびれ部」にあり、着々と地震エネルギーを溜め込んでいる(地震の準備をしている)。
大阪平野最大の活断層は、大阪市内を南北に縦断する「上町断層」で、これが活動したときには巨大地震になる(M8級?)と予想されている。
2.奈良盆地に火山があった
約1千万年前、奈良盆地には火山があった。かつては「瀬戸内火山帯」という言葉もあった(愛知県鳳来寺山~二上山~四国の五剣山~屋島~九州)。若草山や二上山からは火山岩である安山岩が出てくる(サヌカイトもその1種)。 畝傍山と耳成山も火山だった。前述の断層は、これらの火山で作られた。おかげで、奈良の素晴らしい地形も形成された。
「撓曲(とうきょく)」とは、地中の断層がずれたことで、上にある地層が撓(たわ)む現象。つまり硬い骨が断層、柔らかい肉が撓曲である。阪神大震災では、撓曲のところに大きな被害が出た。奈良盆地にはたくさんの撓曲があるので、注意を要する(例えば奈良市東向中町など)。
近畿地方の地質構造を考える上で「近畿トライアングル構造帯」という概念が参考になる。琵琶湖の東と西とで大きく地質椎造が変わることに着目して調査・実証されたもので、東は伊吹・養老山地、西は丹波山地、南は紀伊山地に囲まれた三角形状地域が「近畿トライアングル」で、これは過去100万年の間に、北のユーラシアプレート、東の太平洋プレート、南のフィリピン海プレートによって圧縮されてできたものである。この三角地帯には断層が集中し、今も変動が継続している。
※「近畿トライアングル」を提唱された故・藤田和夫氏へのインタビュー記事
http://www.kobe-np.co.jp/sinsai/kataru/1999/990928-hujita.html
3.河川争奪
講義に「河川争奪(かせんそうだつ)」という耳慣れない言葉が出てきた。Wikipedia「河川争奪」によると《河川の流域のある一部分を別の河川が奪う(自らの流域に組み入れる)地理的現象のこと》《流域が隣接する2つの河川があると想定する。両河川の間で河床勾配、流量などに大きな差があり、一方の河川の浸食力が著しく強い場合に河川争奪が発生しやすい。奪う側の河川の谷頭が上流へ浸食して分水界を後退させていく。そして、奪う側の谷頭が隣接河川の水系に達すると、そこから上流の流域をすべて奪うこととなる。これが一般的な河川争奪の過程である。このような河川争奪は、日本では全国的に見られる》。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%B7%9D%E4%BA%89%E5%A5%AA
講義では京阪奈丘陵周辺の例をたくさん教えていただいた。「京都府レッドデータブック」に「山田川による河川争奪」の例が載っているので、以下に引用する。
http://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/geo/db/sur0019.html
《京都府と奈良県の府県境付近に位置する山田川流域では、明瞭な河川争奪の地形が認められる。古い地形図に見られるように、東流する山田川本流の南方では、秋篠川が南流しており、両河川の流域は流域界をもって隣接している。秋篠川は、奈良丘陵と西の京丘陵に東西を限られる幅広い谷底平野を、奈良盆地側に流下していく。その谷幅は現在の流域規模と比べ著しく広く、不釣り合いである》。
《秋篠川の谷底平野は、河道の勾配と調和的に南に傾斜しているが、上流方向にさか上ると、河道の見られなくなる押熊集落北方で、わずかに北傾斜する谷底平野状の地形となめらかに連続する。これをさらに北上すると、その北縁は、急崖によって山田川流域の谷底平野に落ち込む。このような地形は、以下のような山田川による秋篠川の争奪の結果、形成されたと考えられる》。
《かつて秋篠川は、現在よりも北~北西方の丘陵に広く上流域を有し、幅広い谷底平野を形成しながら奈良盆地に流下していた。その後、山城盆地南縁部から西に谷頭侵食してきた山田川の最上流部が、写真のE地点付近で、それまでの秋篠川上流部を切り取った。この河川争奪によって流域を拡大した山田川は流量を増し、侵食力を強めて旧秋篠川上流域に谷を深め、現在では、西の京丘陵を横断しながら、その西縁を南流する富雄川上流をも争奪する勢いになった。古い地形図と新しい地形図とを較べて見ればすぐわかるが、この半世紀の本地域における地形改変には、著しいものがある》。
4.その他
・琵琶湖も大阪湾も、かつては(今の奈良盆地と同じく)「内陸盆地」だった。
・もっとも、ずっと大昔には日本列島はすべて海だった(海底から隆起した)から、都祁の「貝ヶ平山」からは貝の化石が出土するのだが。
・最近、大きな台風被害が報道されているが、このような台風は昔からあった(観測記録が残っていないだけ)。かつては佐保川が氾濫し、洪水で古墳も切られた。
・(池田教授は福岡県のご出身だが)日本で春夏秋冬が揃うのは関西くらいのものだ。なかでも、瀬戸内式気候(温暖小雨)と日本一の多雨地帯(大台ヶ原)が共存する奈良県の自然は、素晴らしい。
以上がこの日の講義内容の(私見による)ポイントである。勉強とはあまり関係ないが、地震の話は衝撃的だった。奈良盆地に高い確率で地震が起きる可能性を、理論的に説明していただいた。
折しも、7/21に「地震調査研究推進本部」(文部科学省研究開発局)が「今後30年以内に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率」を発表し、奈良盆地北部が最も危険な「赤色」(26~100%)に変わっていたことでショックを受けたばかりだったので、なおさらだ。新聞にも、奈良市の地震確率は「67.1%」(昨年は16%)と出ていた。
※地震調査研究推進本部の公表資料(PDF形式)。P8に予測地図が載っている
http://www.jishin.go.jp/main/chousa/09_yosokuchizu/090721yosokuchizu.pdf
※上記を報じる日経新聞のサイト(7/21配信)
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090721AT1G2103N21072009.html
これから9/18までの研修期間中、どんな「目からウロコ」の話が飛び出すか、楽しみである。皆さん、お楽しみに。
※池田教授の推薦図書:『大和を歩く』奈良地理学会編 奈良新聞社刊 1800円(税別)。ただし同書は品切れ中で、12月に新版が出る予定である。
※トップ写真は吉野川(紀ノ川)宮滝・5/17撮影。《吉野川の谷は、顕著な活断層として知られ、西南日本を南北に二分するように縦断して東西方向に連なる中央構造線と呼ばれる大断層に沿って形成されている》(『大和を歩く』)。
http://www.nantobank.co.jp/news/090817.htm
第1回(8/19)は、文学部地理学科教授・池田碩(いけだ・ひろし)氏の講義だった。講義名は「奈良-古都を育んだ内陸の盆地」である。講義はたくさんの地図を使った本格的なものであったが、ここでは若干のキーワードとともに、目からウロコの話をピックアップする。
1.奈良盆地は、地震エネルギーをため込みつつある
日本列島は若く、今も隆起を続けている(古くて安定したオーストラリア大陸には、火山も地震もない)。「太平洋プレート」(太平洋の海底に広がる巨大な岩盤)は、年間8~10cmの早さで日本列島の下に沈み込み、巨大地震や津波が起きる要因となっている。
地震には2種類ある。1つは「プレート境界型地震」(海溝型・海洋性地震)。地球の表面は、大小10枚程度のプレートと呼ばれる板状の岩盤でおおわれており、そのプレート(岩盤)とプレートがぶつかりあうところで伸びや縮みなどのひずみが生じ、このひずみが限界に達するとプレートが急に元に戻る。このときの衝撃によっておこる地震がプレート境界型地震で、規模が大きく大規模な津波による被害も予想される(関東大震災、十勝沖地震、三陸はるか沖地震など。近い将来発生すると予測されている「東海地震」もプレート境界型地震)。とてもわかりやすい地震である。
いま1つは「内陸直下型地震」(内陸型・プレート内地震)。プレート内において発生する活断層が動いて起こる地震で、プレートを圧縮する力や引っ張る力などがプレート内で部分的に解放されて起きる。日本の至る所で見られる活断層の多くは、内陸直下型地震の古傷が地表に表れたもので、将来にわたって地震発生の可能性もある(たとえ何千年に1回動くかどうかと言われていても、活断層の真上には、建物等は建てない方が賢明である)。
プレート境界型地震と比べて規模は小さいものの、人々の住む町の周辺で起こると、震源からの距離が近いだけに大きな被害が出る(阪神大震災はマグニチュード7.2と内陸の直下型地震としてはさほど大きくなかったが、人口が密集している都市の下で起こったため、地震災害として戦後最悪のものとなった)。
阪神大震災では約6500人の死者が出たが、これが明治時代に起きていたら、死者は50~60人どまりだったろう。それだけ文明が発達したということだ。阪神大震災では、六甲山が上がり、大阪湾が下がるという現象が起きた。奈良で内陸直下型地震が起きると、生駒山が上がり、奈良盆地が下がるだろう。つまり「日本沈没」ではなく「日本隆起」だ。活断層が集中しているのは関西で、奈良盆地にも多い。奈良盆地は日本列島の「くびれ部」にあり、着々と地震エネルギーを溜め込んでいる(地震の準備をしている)。
大阪平野最大の活断層は、大阪市内を南北に縦断する「上町断層」で、これが活動したときには巨大地震になる(M8級?)と予想されている。
2.奈良盆地に火山があった
約1千万年前、奈良盆地には火山があった。かつては「瀬戸内火山帯」という言葉もあった(愛知県鳳来寺山~二上山~四国の五剣山~屋島~九州)。若草山や二上山からは火山岩である安山岩が出てくる(サヌカイトもその1種)。 畝傍山と耳成山も火山だった。前述の断層は、これらの火山で作られた。おかげで、奈良の素晴らしい地形も形成された。
「撓曲(とうきょく)」とは、地中の断層がずれたことで、上にある地層が撓(たわ)む現象。つまり硬い骨が断層、柔らかい肉が撓曲である。阪神大震災では、撓曲のところに大きな被害が出た。奈良盆地にはたくさんの撓曲があるので、注意を要する(例えば奈良市東向中町など)。
近畿地方の地質構造を考える上で「近畿トライアングル構造帯」という概念が参考になる。琵琶湖の東と西とで大きく地質椎造が変わることに着目して調査・実証されたもので、東は伊吹・養老山地、西は丹波山地、南は紀伊山地に囲まれた三角形状地域が「近畿トライアングル」で、これは過去100万年の間に、北のユーラシアプレート、東の太平洋プレート、南のフィリピン海プレートによって圧縮されてできたものである。この三角地帯には断層が集中し、今も変動が継続している。
※「近畿トライアングル」を提唱された故・藤田和夫氏へのインタビュー記事
http://www.kobe-np.co.jp/sinsai/kataru/1999/990928-hujita.html
3.河川争奪
講義に「河川争奪(かせんそうだつ)」という耳慣れない言葉が出てきた。Wikipedia「河川争奪」によると《河川の流域のある一部分を別の河川が奪う(自らの流域に組み入れる)地理的現象のこと》《流域が隣接する2つの河川があると想定する。両河川の間で河床勾配、流量などに大きな差があり、一方の河川の浸食力が著しく強い場合に河川争奪が発生しやすい。奪う側の河川の谷頭が上流へ浸食して分水界を後退させていく。そして、奪う側の谷頭が隣接河川の水系に達すると、そこから上流の流域をすべて奪うこととなる。これが一般的な河川争奪の過程である。このような河川争奪は、日本では全国的に見られる》。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%B7%9D%E4%BA%89%E5%A5%AA
講義では京阪奈丘陵周辺の例をたくさん教えていただいた。「京都府レッドデータブック」に「山田川による河川争奪」の例が載っているので、以下に引用する。
http://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/geo/db/sur0019.html
《京都府と奈良県の府県境付近に位置する山田川流域では、明瞭な河川争奪の地形が認められる。古い地形図に見られるように、東流する山田川本流の南方では、秋篠川が南流しており、両河川の流域は流域界をもって隣接している。秋篠川は、奈良丘陵と西の京丘陵に東西を限られる幅広い谷底平野を、奈良盆地側に流下していく。その谷幅は現在の流域規模と比べ著しく広く、不釣り合いである》。
《秋篠川の谷底平野は、河道の勾配と調和的に南に傾斜しているが、上流方向にさか上ると、河道の見られなくなる押熊集落北方で、わずかに北傾斜する谷底平野状の地形となめらかに連続する。これをさらに北上すると、その北縁は、急崖によって山田川流域の谷底平野に落ち込む。このような地形は、以下のような山田川による秋篠川の争奪の結果、形成されたと考えられる》。
《かつて秋篠川は、現在よりも北~北西方の丘陵に広く上流域を有し、幅広い谷底平野を形成しながら奈良盆地に流下していた。その後、山城盆地南縁部から西に谷頭侵食してきた山田川の最上流部が、写真のE地点付近で、それまでの秋篠川上流部を切り取った。この河川争奪によって流域を拡大した山田川は流量を増し、侵食力を強めて旧秋篠川上流域に谷を深め、現在では、西の京丘陵を横断しながら、その西縁を南流する富雄川上流をも争奪する勢いになった。古い地形図と新しい地形図とを較べて見ればすぐわかるが、この半世紀の本地域における地形改変には、著しいものがある》。
4.その他
・琵琶湖も大阪湾も、かつては(今の奈良盆地と同じく)「内陸盆地」だった。
・もっとも、ずっと大昔には日本列島はすべて海だった(海底から隆起した)から、都祁の「貝ヶ平山」からは貝の化石が出土するのだが。
・最近、大きな台風被害が報道されているが、このような台風は昔からあった(観測記録が残っていないだけ)。かつては佐保川が氾濫し、洪水で古墳も切られた。
・(池田教授は福岡県のご出身だが)日本で春夏秋冬が揃うのは関西くらいのものだ。なかでも、瀬戸内式気候(温暖小雨)と日本一の多雨地帯(大台ヶ原)が共存する奈良県の自然は、素晴らしい。
以上がこの日の講義内容の(私見による)ポイントである。勉強とはあまり関係ないが、地震の話は衝撃的だった。奈良盆地に高い確率で地震が起きる可能性を、理論的に説明していただいた。
折しも、7/21に「地震調査研究推進本部」(文部科学省研究開発局)が「今後30年以内に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率」を発表し、奈良盆地北部が最も危険な「赤色」(26~100%)に変わっていたことでショックを受けたばかりだったので、なおさらだ。新聞にも、奈良市の地震確率は「67.1%」(昨年は16%)と出ていた。
※地震調査研究推進本部の公表資料(PDF形式)。P8に予測地図が載っている
http://www.jishin.go.jp/main/chousa/09_yosokuchizu/090721yosokuchizu.pdf
※上記を報じる日経新聞のサイト(7/21配信)
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090721AT1G2103N21072009.html
これから9/18までの研修期間中、どんな「目からウロコ」の話が飛び出すか、楽しみである。皆さん、お楽しみに。
※池田教授の推薦図書:『大和を歩く』奈良地理学会編 奈良新聞社刊 1800円(税別)。ただし同書は品切れ中で、12月に新版が出る予定である。
※トップ写真は吉野川(紀ノ川)宮滝・5/17撮影。《吉野川の谷は、顕著な活断層として知られ、西南日本を南北に二分するように縦断して東西方向に連なる中央構造線と呼ばれる大断層に沿って形成されている》(『大和を歩く』)。