tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

大神神社で七福倍増(大和七福八宝めぐり・其の八)

2011年01月07日 | 大和七福八宝めぐり
昨日の当麻寺中之坊の布袋さまで七福神はすべてお参りしたが、最後に、桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ・三輪明神)で「七福倍増」の願掛けをする。四国八十八ヵ所巡礼では、最後に高野山の奥ノ院(金剛峯寺)をお参りして結願成就するが、それとよく似たイメージである。


写真は05.1.3の撮影

大和七福八宝の会のHPには《東方「三輪山」より登る太陽が西方「二上山」に沈む。これが大和の信仰の原点です。日本最古の神社というより、我が国最古の聖地として全国より信仰される「大和一之宮」です》《三輪明神は福寿増進の神として知られており、七福神の七福を倍増させ八宝円満に導く御利益があります》。



ちょうど1/5付の毎日新聞奈良版の連載「記紀探訪(4)」に、《「パワースポット」三輪山登拝》という記事が載っていた。《昨年登拝した人は前年の1.6倍の約5万人。古代から聖地とされ、今なお人々を引き付けている》。平岡昌彦権禰宜(ごんねぎ)は《修行目的など限られた登拝が、一般に許されるようになったのは昭和30年代以降。「口コミで広がる程度で多くても年間1万人程度だったが、一昨年からパワースポットブームで急増した」》《「何か感じた場所を自分の『パワースポット』として通う人も多い。山は古くから聖地として認識されており、登拝者それぞれの何かを感じていただければいい」》と話す。

三輪山~パワースポットを追い続ける写真家、堀田賢治と、
ヒーリングピアニスト、松尾泰伸とのスーパーコラボレーション



大和七福八宝の会のパンフレットに、大神神社の縁起が載っていた。《遠い神代の昔、大国主命が自らの和魂を三輪山にお鎮めになり、大物主大神の御名をもってお祀りされたのが当神社の始まりです。それ故に本殿は設けず、拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられている、我が国最古の神社です》。

《大神を「おおみわ」と申し上げますのは、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内大社、二十二社、官弊大社として最高の待遇に預かり、また「三輪明神」として古くより親しまれ無比のご神格がうかがわれます》。



さらに、大神神社(ネットで百科)には《大神神社の神木杉を清浄とみる禁忌や大物主神を造酒神としたり味酒 (うまさけ) が〈みわ〉の枕詞であるところから,とくに造酒家の信仰を集めた。それとともに,神木杉の葉の玉が造酒家の標示としてひろまったが,これに現世利益を信仰する農民・商工民の信者を加えて,今日に及んでいる》。



さらに、卯年の今年は、「なでうさぎ」に注目しなければならない。境内の案内板によると、第10代崇神天皇の時代、日本に大難が起きた。この時、天皇は神意のままに《三輪の大神さまを鄭重にお祭りされ平安な国に再興されました。そのご神意の日が「卯の年」であり「卯の日」であります。これにより大神神社では「卯」を御神縁の日として殊の外畏み毎月「卯の日」にお祭りを奉仕しております。この「なでうさぎ」は 江戸中期から大神神社に伝わるもので いつからとはなしに撫でるとご神助をいただけるという信仰があります》。


画像は「楽々はがき2009」より(トップと下の画像も)

《「卯」は「門」を開いたかたちを表し 陽気が地中より出ることを意味し、時間では午前6時、方角では日のさし昇る東方、色では青、季節では春に当たり、動物では穏やか誠実で、聡くすばやい兎にあてられており、万物の萌え出て茂る瑞祥のしるしであります。どうぞご神助をいただきよりよい年を迎えられますことをお祈りいたします。弥栄、弥栄、弥栄》。


なでうさぎ(大神神社のHPより)

同神社のHPにも、《なでるとご利益があって、手足の痛みを取ってくれると言われ、大勢の皆様によってなでられた「なでうさぎ」は、一層にピカピカに光ります。特に平成23年は卯歳でもあり「なでうさぎ」も一層注目されるでしょう。どうぞ「なでうさぎ」をなでて無病息災・諸願成就をお祈り下さい》とある。



卯年の今年は、なでうさぎを撫で、晴れて七福倍増とおさめたいところである。全8回にわたって「大和七福八宝めぐり」を紹介してきたが、ちゃんとお参りしなければご利益はいただけない。うまい具合に明日からは3連休。私も、お参りに出かけてきます!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

当麻寺中之坊の布袋尊(大和七福八宝めぐり・其の七)

2011年01月06日 | 大和七福八宝めぐり
いよいよ、七福神のおしまいとなった。信貴山の毘沙門さんに続き、今回は葛城市にある当麻寺中之坊の布袋尊(ほていそん)を紹介する。中之坊の公式HPによると《當麻寺は、白鳳時代に創建され、奈良時代の三重塔を東西二基とも残す全国唯一の寺で、白鳳・天平様式の大伽藍を有し、「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」を本尊とする「極楽浄土の霊場」です。


写真はすべて06.5.14の撮影

《この當麻曼荼羅は、奈良時代、藤原家の郎女・中将姫(ちゅうじょうひめ)さまが写経の功徳によって目の当たりにされた極楽浄土の光景を、壮大な規模で再現したものです。国宝・曼荼羅堂では室町時代に転写された當麻曼荼羅(重文)をお祀りしており、中将姫さまが感得された極楽浄土の光景を皆様に拝んでいただくことができます》。



これらの写真は、5年前に訪ねた「聖衆来迎練供養会式(しょうじゅうらいごう・ねりくようえしき)」の模様である(毎年5/14開催)。これは《當麻寺春の大祭で、中将姫の現身往生を再現する行事。観音菩薩、勢至菩薩ら二十五菩薩が、現世に里帰りした中将姫を迎えて、極楽へ導くという儀式です。1000年を越える伝統を持つこの行事は、もちろん我が国の「練供養(ねりくよう)」の発祥で、境内は、数多くの参詣者で埋め尽くされます》。



中之坊は、当麻寺の塔頭の1つである。《壮麗な絵天井で知られる中之坊の「写仏道場」では、色鮮やかな平成當麻曼荼羅をお祀りしており、この當麻曼荼羅に描かれたほとけさまを描き写す「写仏体験」をしていただくことができます。写経によって極楽浄土を観じられた中将姫さまにあやかって、極楽浄土の仏さまを身近に感じてみてください。當麻寺はまた、中将姫さまゆかりの寺として女人救済の信仰が篤く、中之坊本尊「導き観音さま」は當麻曼荼羅とともに全国的な信仰を集めています》。



導き観音さまがご本尊としてお祀りされている中之坊の本堂(中将姫剃髪堂)には、《大和十三仏第六番のご本尊「弥勒菩薩」さま、その化身で大和七福八宝めぐりのご本尊「布袋尊」さまもお祀りされていて、多くの参拝者に信仰されています》。おお、布袋さまは、弥勒さまの化身(垂迹)だったのだ。こちらの霊宝館にも、布袋さまの屏風(金色六曲・時代不明)がお祀りされている(1~2月まで特別公開)。



大和七福八宝の会のHPによると、布袋さまは「家門隆昌・子宝の福宝」である。《中国後梁の時代の実在のお坊さまで、本名を契此(かいし)といいます。常に布の袋を担いで諸国を歩き、人々に福を授けて回ったことから「布袋さま」と呼ばれるようになりました。特に子供たちに慕われたことから子供の病や子宝に霊験があるといわれ、またその円満な相好にあらわされるとおり家庭円満の御利益があらたかです》とある。



画像は「楽々はがき2009」より(トップ画像とも)

Wikipedia「布袋」には《唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な僧。水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる》《太鼓腹の姿で、寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという。また、そのトレードマークである大きな袋を常に背負っており、生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたという》。



画像は「筆まめver.8」より

《雪の中で横になっていても布袋の身体の上だけには雪が積もっていなかった、あるいは人の吉凶を言い当てたなどという類の逸話が伝えられる。彼が残した偈文に「弥勒真弥勒、世人は皆な識らず、云々」という句があったことから、実は布袋は弥勒の垂迹、つまり化身なのだという伝聞が広まったという》《日本では鎌倉時代に禅画の題材として布袋が受容された。庶民には福の神の一種として信仰を集め、室町時代後期に成立した七福神に組み入れられた》《肥満体の布袋は広い度量や円満な人格、また富貴繁栄をつかさどるものと考えられ、所持品である袋は「堪忍袋」とも見なされるようになった》。

おっとりとユーモラスなお姿から「家庭円満」「富貴繁栄」、その太鼓腹から「子宝の福宝」とされる布袋さま。ぜひ、ご家族でお参りいただきたい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信貴山朝護孫子寺の毘沙門天(大和七福八宝めぐり・其の六)

2011年01月05日 | 大和七福八宝めぐり
第5回子嶋寺の大黒天に続く第6弾は、生駒郡平群町信貴山にある朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)の毘沙門天(びしゃもんてん)を紹介する。ここは「信貴山の毘沙門さん」として、広く知られている。何しろ朝護孫子寺本堂のご本尊なのである。同寺の公式HPによると《今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています》。



画像は「筆まめver.8」より

《醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました(=910年)。また、朝護孫子寺は、「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています》。


写真はすべて04.11.7の撮影

このお寺で有名なのが、国宝「信貴山縁起絵巻」である。Wikipedia「朝護孫子寺」によると《紙本著色信貴山縁起絵巻 平安中期に信貴山で修行した命蓮上人に関する説話を描く。山崎長者の巻、延喜加持の巻、尼公の巻の3巻からなる絵巻で、作者は不明ながら、人物の表情や躍動感を軽妙な筆致で描いた絵巻の一大傑作である。(原本は奈良国立博物館に寄託、霊宝館では複製を展示している。国宝は年に一度、一巻を公開)》 。



ぜひお参りしたいのが「経蔵堂」である。お寺のHPには《当山の経蔵堂は、中央に回転できる経厨子があり、中に仏教のあらゆる法門の経典を集めた「一切経」を納めてあります。その経厨子は、一回転させる毎に「一切経」をすべて読誦したのと同じ功徳があると言われています。皆様も、家内安全、身体健全、商売繁盛などの諸願成就を念じ、経厨子を右廻りに回してその功徳を授かって頂くことをお勧めいたします。また四面の壁面上部の彫刻は、印度から中国、日本への仏教の伝来の様子が説明してあり、一見の価値があります》とある。



さて、毘沙門天さまである。多聞天とも呼ばれ、悪を懲らしめ仏法を守護する存在で、悪を退散させる力が貧乏神を追い払い、財を呼びこむとされる。また幸福の象徴・吉祥天を妻(or妹)としているところから福の神とされ、知恵・開運・出世にご利益がある。お寺のHPによると《大和国信貴山は毘沙門天王が日本で最初に御出現になった霊地で、毘沙門天王の総本山です。毘沙門天王は七福神のなかでも、商売繁盛、金運如意、開運招福、心願成就の得を最も厚く授けてくださる福の神です》。



画像は「楽々はがき2009」より

《信貴山毘沙門天王の、ご尊体に鎧兜を召されておられるのは、世の中のあらゆる邪魔者を退散してやるというお姿で、見るからに恐ろしそうな尊顔は、心を強く持って、どんな苦しい困難に出会っても、がまん強い精神で何事も行なえということを教えておられるのです。また、右手に如意宝珠の棒を持っておられるのは、心ある者には、金銭財宝を意のままに授けて、商売繁盛させてやるぞとの思し召し、左手の宝塔は、この中に充満する福を、信ずる者の願いに任せて与えてやるとの福徳の御印です》。


中央が、「銅造毘沙門天立像」(平安時代後期)。西域に起源を持つ
「兜抜昆沙門天」の特徴を備える。奈良県指定文化財(画像はお寺のHPより)

開運招福にご利益のある毘沙門天さまにちなんで、山門前には「開運橋」というネーミングの現存最古の「近代化遺産」がある。開運橋は全長106mの鋼製橋である。山と渓谷社刊『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』によると《親柱には「昭和6年12月竣工」と刻まれている。橋の形式は「上路カンチレバー橋」といい、他の例として長野県佐久市の千曲川に架かる昭和7年(1932)完成の「中津橋」がある。戦前の上路カンチレバー橋はほとんど例が無く、同形式としては最古の現存例である》。ここから眺める景色もいい。特に紅葉の季節はおススメだ。



昨年は寅年だったので、このお寺で賑やかに「平城遷都1300年祭 カウントダウン&オープニングイベント」(09.12.31~00.1.1)が行われ、荒井知事も寒さに震えながら挨拶されていた。卯年の今年は、そんなに混雑することもなさそうなので、安心して開運招福の毘沙門天さまをお参りいただきたい。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子嶋寺の大黒天(大和七福八宝めぐり・其の五)

2011年01月04日 | 大和七福八宝めぐり
早くも今回で第5回となった。久米寺の寿老神に続き、今回は子嶋寺(こじまでら 高市郡高取町)の大黒天を紹介する。Wikipedia「子嶋寺」によると、このお寺は《高野山真言宗の寺院。山号は子嶋山(報恩山とも)。本尊は大日如来。開山は寺伝では僧・報恩と伝える。平安時代中期作の国宝・両界曼荼羅図(子島曼荼羅)を伝えることで知られる。「清水の舞台」で知られる京都東山の清水寺は子嶋寺の僧・延鎮によって開かれたとされ、平安時代中期以降は真言宗子嶋流の道場として栄えるなど、歴史的に重要な寺院である》。清水寺は子嶋寺の支坊として開かれた。つまり子嶋寺は清水寺のご本家なのである! これはすごい。


この山門は、高取城二の門を移築したもので、現存する唯一の高取城遺構

国宝の両界曼荼羅図は《京都・神護寺の高雄曼荼羅と並ぶ両界曼荼羅図の代表作で、子嶋寺中興の祖とされる真興が一条天皇の病気平癒祈願の功により賜ったと伝わる。(奈良国立博物館寄託)》というものだ。現物は3m四方ほどの巨大なものだそうだが、お寺には4分の一サイズの複製品(銅板製)が置かれている。

両界曼荼羅図とは何か。Wikipedia「両界曼荼羅」によると《密教の中心となる仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅である。大日如来を中心とした数々の「仏」を一定の秩序にしたがって配置したものであり、「胎蔵曼荼羅」(胎蔵界曼荼羅とも)、「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」または「両部曼荼羅」と称する》《胎蔵曼荼羅(大悲胎蔵生曼荼羅)は「大日経」、金剛界曼荼羅は「金剛頂経」という密教経典をもとに描かれている》《胎蔵曼荼羅が真理を実践的な側面、現象世界のものとして捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理を論理的な側面、精神世界のものとして捉えていると考えられる》。


嘉永元年(1848年)建立の子嶋寺本堂(写真はすべて07.9.1撮影)

瀧谷不動尊の「こころの法話」に、やさしく説かれている。《「真言宗のお寺では、本尊様の両側に一対の曼荼羅が掛けられています。向かって右が胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅、左が金剛界(こんごうかい)曼荼羅です。曼荼羅には多くの仏さまが規則正しく配置され、荘厳な仏さまの集合図になっています。胎蔵界曼荼羅は、正しくは「大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)曼荼羅」と言います。私たち衆生に対する仏さまの大きなあわれみの心を母胎として生み出されました》。


子嶋曼荼羅の複製品(銅板製・部分)

《金剛界曼荼羅の「金剛」とは、元々は雷やダイヤモンドのことですが、ここでは「仏の智慧」のこと、「界」とは「元要素」の意味ですので、金剛界曼荼羅「仏の智慧を原要素とする曼荼羅」です。これら一対の曼荼羅で、慈悲と智慧という仏さまの大きな二つの働きを表しているのです。曼荼羅の中では、すべての仏さまが緊密に連携してそれぞれの役割を果たし、慈悲と智慧が完成された世界を作り出しています》。


画像は「楽々はがき2009」。トップ画像とも

さて大黒天さまは、大和七福八宝の会のHPに《大黒天「財宝の福宝」 大黒天はもとはインドの戦いの神で強い力をお持ちです。日本において大国主命と神仏習合し、福徳の神となりました。金運の神として知られるとおり、財宝の徳を授けられます》とあるとおり、日本では「大黒天=大国主」で、豊穣・食物・財福を司る神さまとなり、トップ画像のように、米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った「微笑の長者」の格好で表現される。



サッカーJリーグの大黒将志(おおぐろ・まさし)選手が、颯爽とゴールを決める姿に、スポーツ紙が「神さま 仏さま 大黒(だいこく)さま」という見出しを付けたことがあったが、それほど身近な神さまなのである。豊穣・財福の神さまである大黒さまは、商売の神さまである恵比寿さまと一緒に「恵比寿・大黒」と、一対で信仰されることも多い。ぜひ、おふさ観音の恵比寿さまとともに、今年の金運上昇をお願いしていただきたい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久米寺の寿老神(大和七福八宝めぐり・其の四)

2011年01月03日 | 大和七福八宝めぐり
昨日アップした談山神社の福禄寿に続き、第4弾では久米寺(くめでら)の寿老神を紹介する。Wikipedia「久米寺」によると《奈良県橿原市久米町にある真言宗御室派の寺院。山号は霊禅山。詳しくは霊禅山東塔院久米寺と称する。本尊は薬師如来。開基(創立者)は聖徳太子の弟の来目皇子(くめのおうじ)とも言うが未詳》《大和三山の1つ、畝傍山の南方に位置し、橿原神宮からも近い。開基は聖徳太子の弟・来目皇子(くめのおうじ)とも久米仙人とも伝わるが、詳細は不明である。空海(弘法大師)が真言宗を開く端緒を得た寺として知られる》。

このお寺のことは、nara_nakaさんのブログに写真入りで詳しく紹介されているので、ぜひご覧いただきたい。久米寺は花の寺としても知られ、梅雨どきのアジサイのほか、春にはツツジが境内を美しく彩る。昨年の平城遷都1300年祭「祈りの回廊~奈良大和路 秘宝・秘仏特別開帳」では、江戸時代に京都の仁和寺から移築され、通常は非公開となっている多宝塔(重文)初層が特別開扉されていた。


久米寺本堂(江戸時代の再建)。写真はすべて07.9.1撮影

このお寺の、久米仙人の伝説が面白い。空中飛行中、娘の白いふくらはぎに見とれて霊力を失い、空から落ちたというのである。《久米仙人の伝説 久米仙人による開基伝承は『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』などのほか、『今昔物語集』巻十二本朝仏法部にも収録され、『徒然草』にも言及されている著名な話である。それによると、吉野山龍門寺の久米仙人は仙術で空を飛べるようになったが、ある日空を飛んでいる時、川で洗濯をしている女のふくらはぎに見とれて法力を失い、地上に落ちてしまった。久米仙人はその女とめでたく結婚。その後は普通の俗人として暮らしていた》。


境内には、金色(こんじき)に輝く大日如来像が鎮座する

《その後、時の天皇が遷都を行うことになり、俗人に戻った久米仙人は遷都のための工事に携わる労働者として雇われ、材木を運んだりしていた。ある日仕事仲間から「お前も仙人なら、仙術を使って材木など一気に運んでしまったらどうだ」とからかわれた。一念発起した久米仙人は7日7晩祈り続けた後、仙力を回復。久米仙人の仙術で、山にあった材木が次々と空へ飛び上がり、新都へと飛んで行った。これを喜んだ天皇は久米仙人に田30町を与え、これによって建てたのが久米寺である、という話である》。

お寺のお祭に「練供養(ねりくよう)」がある。橿原市のHPによると《久米寺練供養(5月3日・久米寺)春の農繁期前の祭典。通称、『久米レンゾ』と呼ばれる会式が、近在の老若男女を多数集めて開かれます。薬師如来像を先頭に観音さまなど25菩薩が長い橋を練り渡ります。また、久米仙人長寿の法要も行われます》。


桃山様式を残す多宝塔(重文)は万治2年(1659年)、京都・仁和寺より移築されたもの

さて寿老神(寿老人)とは、Wikipedia「寿老人」によると《道教の神仙(神)。中国の伝説上の人物。南極老人星(カノープス)の化身でもある》《酒を好み頭が長く、白髪で赤い顔をした長寿の神とされる。日本では七福神として知られているが、福禄寿はこの寿老人と同一神と考えられていることから、七福神からはずされたこともあった。寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである鹿を従えている。手には、これも長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている》。


画像は「楽々はがき2009」より

名前の通り、長寿の神さまなのだ。鹿を従えているところが、奈良県のイメージと重なって、興味深い。最近は、「ぽっくり寺」(ぽっくりと往生できるというご利益のある寺)とか、「延命地蔵」さま(延命・利生[りしょう]を誓願する地蔵尊。新しく生まれた子を守り、その寿命を延ばすという。後世は、短命・若死にを免れるため信仰された。「デジタル大辞泉」)をお参りするお年寄りが多いが、ぜひ寿老神も加えていただきたいものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする