空海の風景〈上〉 (中公文庫) | |
司馬遼太郎 | |
中央公論社 |
「司馬遼太郎が教えてくれた」として2回の記事を書いたが、おかげさまで反応は上々である。「司馬遼太郎は読んだことがない」という若者や女性が、「目からウロコだった」と言ってくれるのが嬉しい。これからも、司馬遼太郎の著作から「目からウロコ」の話をピックアップして、どんどん紹介したい。
さて、今日のテーマは弘法大師・空海である。司馬遼太郎には『空海の風景』という大著がある。司馬はこの本で芸術院恩賜賞を受賞しており、「司馬文学の頂点を示す画期作」とされる。中公文庫版『空海の風景』の解説では、大岡信は《いったい司馬遼太郎以外のどんな作家が、空海を主人公とした『小説』を書くことを夢想し、かつ実現し得ただろうか》。この本は《まさしく小説にちがいなかったが、伝記とも評伝ともよばれうる要素を根底に置いているがゆえに、空海を中心とする平安初期時代史でもあれば、密教とは何かに関する異色の入門書でもあり、最澄と空海の交渉を通じて語られた顕密二教の論でもあり、またインド思想・中国思想・日本思想の、空海という鏡に映ったパノラマでもあり、中国文明と日本との交渉史の活写でもあるという性格のものになった》。
そして最後に《このようなタイプの主人公がこの国の小説でかつて扱われたことがなかったという事実に、あらためて注目せざるを得ない。司馬氏が空海を主人公に選んだという事実は、そのこと自体において、文学史的にもひとつの事件だったということができる》と絶賛している。
今日の話は前回の「日本語文章体」の大衆化から、やっと60年[司馬遼太郎が教えてくれた(2)]と同じく、朝日文庫『司馬遼太郎全講演[2]』から引用する。1976年6月6日に行われた高野山真言宗参与会設立総会特別講演(於:和歌山県高野町・高野山大学松下講堂)で、演題は「『空海の風景』余話」である。
『空海の風景』を旅する (中公文庫) | |
NHK取材班 | |
中央公論新社 |
日本の歴史のなかで出現した偉人はいずれも、「日本の」菅原道真であり、「日本の」源頼朝であり、「日本の」西郷隆盛であります。みな、「日本の」という接頭語がつく。ところが1人、弘法大師だけは例外ですね。彼だけが「人類の」空海です。お大師さんの思想はアメリカであれ、アフリカであれ、どこへ行っても通用する。
日本の歴史がこれまでに持った最大の巨人で、真理そのものといったところがある。とても小説の対象にはならないのです。空海という巨人の、衣の袖の塵埃(じんあい)だけでも最後に描ければというそれだけの目的で、私は書いてみることにしたのです。
『空海の風景』を構想して、ある日、大変科学的な考えを持った東洋史学者(両親が徳島出身)に、司馬が空海について質問する。
その先生の答えはこうでした。「私のような四国の者にとってはお大師様は『神様』ですね。『どう思うか』ということはないんです。ただそれだけです」 どんな場合にも理性を失いそうもない人文学者が、こと空海のことになると、「神さまだから感想も何もない」とおっしゃる。それを聞いたときは、息をするのを忘れるような驚きがありました。
空海が渡った唐の都・長安は、世界で最大の文明都市だった。
長安の繁華街には銀座のスタンドバーのようなところがあり、イランから来た青い目のホステス嬢がぶどう酒を注いでくれる。白壁で緑の瓦の洋風教会も散在していました。
空海は日本の歴史のなかでも最も芸術的才能の豊かな人であり、さまざまな方面に豊かな感受性を持った方でもあります。私は空海には、長安という街そのものがひとつの壮大な芸術品として感じられたのではないかと思っています。
空海は40歳をすぎてから、プライベートなお寺として高野山をつくりました。官寺ではなく私寺です。
これはやはり青年時代の感受性を刺激した長安のイメージがあるのではないでしょうか。いわばお大師さんの「空想」と日本思想史上に位置する空海の「思想」とは無縁でありますが、詩人の直観で、「長安の都に似たものをつくることで、世界に通じる思想をここに据えておこう」 そう思ったのではないでしょうか。
高野山とは、陰々滅々とした仏教臭さというものはなく、生命と天地を謳歌し、太陽のように明るくいきいきとした生命のほとばしり出る真言密教の趣旨や思想の表れなのだと、考え直してみてください。そうするとお大師さんが長安を偲ばれたのではないかとする私の妄想も、けっして冒瀆(ぼうとく)ではないと思うのであります。真言密教は石の上に座るようなせせこましいものでも、死後の世界だけを考えるというようなものでもなく、本来は非常におおらかで、世界性を持った宗教なのではないかと、私のような素人は思うのであります。
私の生まれた九度山町(和歌山県伊都郡)は、高野山の麓にある。高野山には何度も訪ねたことがあり、児童向けの漫画本で、空海の生涯や教えを描いたものがたくさん売られていて、私も読んでいた。だから子供の頃から「お大師さん」は、身近な存在だった。もちろんウチの宗派は、高野山真言宗(南無大師遍照金剛)だ。子供の頃、手足などをどこかにぶつけて泣きべそをかいていると、祖母が「高野の弘法大師さん、どうかこの子の痛みをとっておくれ」と言いながらさすってくれたのを思い出す。まさに「神さま」だったのだ。
2015年(平成27年)は、空海による「高野山開創1200年」である。高野山・金剛峯寺は、イメージキャラクターやロゴマークを作った。今年(2013年)からは、空海・高野山検定も始まる(試験日は6月9日)。
空海は入唐(にっとう)前には吉野山で修行したり、大安寺で中国語を学んだり、東大寺で得度受戒したり、また帰朝後は東大寺に真言院(灌頂道場)を建立し、東大寺別当も務めているので、奈良とも縁がある。今も東大寺の近くに空海寺がある(もとは空海の草庵)。「高野山開創1200年」を機に、奈良と高野山が連携して、空海をテーマとしたイベントができそうである。そのためには、また『空海の風景』を読み直さなければ…。
そんな「思想の巨人」を小説に描いていただき、司馬遼太郎さん、有難うございました。