tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中利典師の「チベット旅行記」(1)

2024年08月31日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は〈「チベット旅行記」(1) 田中利典著述集を振り返る280830〉(師のブログ 2016.8.30付)。2006年(平成18年)9月から「仏教タイムス」に9回にわたって連載された旅行記の初回だ。師の盟友で、宗教学者の正木晃氏に同行された。長い連載だが、ぜひ最後までお付き合いいただきたい。

チベット旅行記(1)
もう10年前になる。ちょうどチベットに、西寧とを結ぶ青蔵鉄道が開業する直前のラサの町を、盟友の正木晃先生一行とともに訪れたのだった。先生はもう6度目か7度目のチベット訪問だったように聞いている。稚拙ながらそのときの旅行記を、「仏教タイムス」に連載させていただいた。

心が痛むのだが、あれから、チベットはますます混迷を深めている。鉄道が敷延されたことで、それまで以上に漢族が大量に流入し、チベット民族への圧政は更にひどくなり、命を持って抗議の焼身自殺が繰り返されるチベット僧の数はすでに百数十人にのぼるという。最近は中国当局が隠すので、数すら把握出来なくなっているようだ。

そういう状況への危惧は、10年前にすでに予見される私の旅行記だったと思う。今、スーパーサンガと称して、有志の僧侶たちとともに「宗派を超えてチベットの平和を祈念し行動する僧侶・在家の会」という活動に加わっているが、それもこのときのチベット行きがきっかけとなっている。

今のチベットの惨状を考えると、いささか、のんきな面もある旅行記になっているので、顰蹙をかうところもあるかもしれないが、あえて加筆訂正などせず、そのまま載せようと思う。よろしければ読んでください。全9回である。

***************

「主なきポタラ宮」
今年6月、宗教学者正木晃氏らに同行して秘境の国チベットの仏教寺院を巡った。以下はそのチベット仏教見聞録である。チベットといってまず最初に思い浮かぶのは世界遺産「ポタラ宮殿」(中国チベット自治区ラサ市)であろう。私の憧れの地でもある。私たちはラサ市に入り、真っ先にこの地を訪れた。

ラサ市の西の端に位置するポタラ宮は歴代ダライ・ラマ法王の元居城である。この国の古建築を代表する宮殿式建築群は、どこまでも高く、青く澄んだ空を背にして、思い描いたとおり、ラサの市内を睥睨してそびえ立っていた。

「ポタラ」とは、「観音菩薩が住まう地」の意味で、観音菩薩とは、その化身たるダライ・ラマのこと。チベット仏教独特の転生活仏の信仰である。13階建ての巨大な宮殿は政治施設の白宮と宗教施設の紅宮に分かれ、紅宮が白宮に支えられるように、中央部分の8階以上の高層を占めている。

1959年、主であるべきダライ・ラマ14世は、中国の、チベット併合ともいえる侵攻政策による弾圧を避けインドに亡命し、以後、インド北部のダラムサラに亡命政府を樹立して、国の外からチベットの独立運動を展開されているのはつとに知られるところ。

ただ、漢人たちのチベット流入を含め、中国政府が行っているこの国への介入を思うとき、ダライ・ラマ法王が法王として、二度とこの地にお戻りになることはないだろうなあと…漫然と思ったのであった。   
※「仏教タイムス」2006年9月掲載「チベット旅行記」より。写真はポタラ宮である。
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追悼!山の達人・辻谷達雄さん(川上村柏木)

2024年08月30日 | 明風清音(奈良新聞)
今月初旬、辻谷達雄さんがお亡くなりになった。山仕事の達人であり、吉野式林業の後継者、森の語り部でもあった。1つの時代の終わりを感じさせられた。ご著書を再読し、奈良新聞「明風清音」欄に寄稿した(2024.8.29)。以下に全文を紹介しておく。辻谷さんのご冥福をお祈りいたします。
※トップ写真は辻谷さん。写真は川上村の「水源地のブログ」から拝借した

今月、「山の達人」と呼ばれ親しまれた辻谷達雄さんが、お亡くなりになった。91歳だった。辻谷さんのご著書『山が学校だった』(洋泉社刊)には、

〈1933(昭和8)年、日本三大美林のひとつ、吉野杉の中心地、奈良県吉野郡川上村柏木に生まれる。地元の小・中学校を卒業後、15歳で山仕事に従事する。71年に独立し、林業請負業・ヤマツ産業有限会社を設立、テレビCMを活用したりユニークな経営方針で知られる〉。

訃報に接し、本書を久しぶりに読み返した。印象に残ったところを以下に紹介する。

▼山は自分を鍛える学校だ
川上村と聞くと、役場やホテルのある迫(さこ)の辺りを想像するかも知れないが、辻谷さんのご自宅は、もっと南の「柏木」。修験者の宿として知られる「朝日館」から、さらに山道を奥に登ったところにある。

ここで生まれた辻谷さんは、小六で終戦を迎える。食糧難で、山菜や木の実はもちろん、わなを仕掛けてウサギやヤマドリを獲ったり、ゴムパチンコでハトを撃ったり。川魚も釣ったり、ヤスで突いたり。たくましく生きた辻谷少年は、健康優良児として表彰されたそうだ。

▼進学を諦め山仕事に
辻谷さんは成績が良かったので、師範学校(現在の奈良教育大学)への進学を希望したが、経済的理由で断念。隣の集落(上多古)にある親類の材木商に就職する。1949(昭和24)年のことである。仕事内容は下草刈り、木材の運搬、皮むきなど。酒樽(だる)の材料となる樽丸作りの手伝いもした。

終戦直後は動力があまり入らず、ほとんどの仕事が人力だった。斜面に4㍍の材を縦に敷き詰めて樋(とい)のようにした「修羅」や、橇(そり)のような「木馬(きんま)」を使い、出材した。山から下ろした材を運び出すのには、筏(いかだ)を使った。長さ4㍍の丸太で小さな筏を作り、それを10ほどつなぐ。これで川上村大迫から、吉野町上市まで運んだ。筏は、トラックが普及する1951(昭和26)年頃まで使われていたという。

▼再造林のため苗木を作る
1952(昭和27)年頃から、戦時中に強制伐採された山で再造林が始まり、苗木作りが盛んになった。辻谷さんも、畑にスギやヒノキの苗木を植えて育てた。それを山守(山の管理者)に買ってもらう。その苗は、辻谷さんが雇われ、整地して植えた。成長するにつれて下草刈り、枝打ちするのも辻谷さん。〈他人の山の木を全部自分が育てたことになります〉。

▼テレビCMに大きな反響
営林署から法人化の要請を受け、辻谷さんはヤマツ産業を設立した。当初の仕事は、国有林の請負がほとんどだったが、国有林の赤字が問題となり、経費削減で仕事が減った。しかし作業員は多いときで30人以上を抱えていた。そこでテレビCMを打つことを思いついた。

試しに奈良テレビ放送に問い合わせてみると、30秒のスライド式の静止画にコメントを流すだけだと、週に1日(2回)放送で、月5万円だった。

効果は絶大で、奈良県全域や京都府南部から仕事が舞い込んだ。民有林や森林組合のほか、神社からも「参道の大木を切り倒してほしい」という依頼が来た。テレビのおかげで仕事が増えて対応できなくなり、CMは2年で打ち切った。仕事量はCM前の5倍に増えたという。

▼達っちゃんクラブで20年
辻谷さんは65歳でヤマツ産業をご子息に任せ、翌年の1999(平成11)年、都市住民との交流により村と林業を活性化させたいという思いから、「達っちゃんクラブ」を立ち上げた。年6回程度、山の観察、山菜採り、郷土料理作りなどを行い、2018(平成30)年に活動を終えるまで、20年間で延べ約8300人が参加されたそうだ。

山仕事で村の経済を回すとともに後継者を育て、リタイヤ後は村と林業への貢献に努める。素晴らしい人生でした、合掌。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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田中利典師の「島原 水まつりで法話」

2024年08月29日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈「水まつり法話会 水に感謝」備忘録〉(師のブログ 2016.8.11付)である。利典師はこの年の8月4日、長崎県島原市の「水まつり」前夜祭で、法話をされた。
※トップ写真は、利典師の法話の様子(2016.8.4)。

「水まつり」とは、島原の豊かな水の恵み(湧水)への感謝、自然への畏敬、神仏への祈りなどを込めて行われるお祭りで、1987年(昭和62年)に始まり毎年開催、今年で37回目を迎えた(今年の水まつりの概要は、こちら)。

今年も、番傘のオブジェや夜市、「ダンボールイカダレース」など、賑やかに開催されたようである。利典師はこのお祭りの前夜に、島原の歴史を重ね合わせた法話をされたのだった。では、全文を以下に紹介する。


見事な番傘のオブジェ。今年(2024年)の水まつりのサイトから拝借

「水まつり法話会 水に感謝」備忘録
長崎県島原市の水まつり前夜祭の法話会に呼ばれて、8月4~5日と島原に行った。はじめての訪問である。いろんなご縁での法話会だったが、「松島弁才天さま」に呼ばれていったような感じがしてならなかった。…せっかくの機会だったので、備忘録を書いておく。

まず、法話会をするにあたり、島原の歴史などを勉強してたくさんのことを学んだ。第一はキリシタン弾圧と島原の乱のこと。忌まわしくも悲しいこの地の過去である。それから「眉山(まゆやま)大崩れー島原大変肥後迷惑」のこと。2万名もの犠牲者が出た大災害である。

そして、眉山大崩れで土地が埋まって繋がった松島と、そこに弁財天が祀られている大師堂と天如塔のこと。そこには廣田言証(ごんしょう)師と「からゆきさん」の深い関わりもあった。「からゆきさん」は山崎朋子の「サンダカン八番娼館」で有名になったが、全世界に身売りされた女性たちの哀史である。

※廣田言証 弁天山開山
岡山県真庭(まにわ)郡久世町(現・真庭市)に生まれ、40歳のとき商売に失敗。難病で治療の手立てが無いことを医者に告げられのを機に跣(はだし)の誓願を立て、素足で四国八十八カ所の霊場を巡拝(修験道)。弘法大師の霊験によって、病が癒え、明治20年、四国八十八カ所第五十二番札所太山寺で出家し、僧名「言証」を授かる。

以来、素足で全国仏蹟地を巡り、明治28年雲仙普賢岳にて修行。島原に下山し、お大師様の霊験を錫杖(しゃくじょう)に受け、幾多の病人を平癒し、多くの信徒の帰依を得て、太山寺(たいさんじ)教会所として大師堂を建立。また、島原半島を一円に鎮西八十八ヶ所の霊場を建立した。

明治39年、2年半単身インドの仏跡巡礼し、帰路ラングーンの寺で大理石の如来像を贈られ、帰国後寄進された浄財で塔を建立。最上階に安置し、天竺(てんじく=インド)の如来像であることから「天如塔」と命名した。浄財の多くは、師が東南アジアで出会った、からゆきさんからであった。

そして1991年(平成3年)6月3日の雲仙普賢岳噴火。43名の命が奪われた大災害だった。そういう話の全部が、法話会の会場となった弁天山大師堂には詰まっていたのだった。深い思いをもっての法話会だった。そこでお話をしたのは以下のようなこと…。

①水まつりの本質。
祭りの本質とは…イベントと祭りの違い。祭りの中心には神仏がいる…祭りとは神祭りのこと。神祭りなきまつりは単なるイベント。前夜祭で弁天山大師堂で祈願祭と法話会があるのは素晴らしい!そのために私は弁天様に呼ばれたのだとわかった。

水まつりHP開催趣旨から
何気なく、毎日不自由なく使っている島原の宝…「湧水」。この「湧水」がなくなってしまった時のことを考えることがありますか…?何気なく、毎日不自由なく使っていた「水」。人は、この「水」に襲われ、生きるために不可欠な「水」を絶たれた。何気ないものから、生きるためのものへと「水」の必要性をあらためて感じさせられた。

水に恵まれた島原。水の大切さを改めて感じた今だからこそ、水について考え、水の大切さを知る。そんな日があってもいいと思う。「水」を飲み、「水」と戯れ、改めて「水」に感謝する。そんなひとときをこの「水まつり」で感じてみませんか?

上記、開催の趣旨に、神まつりが欠落しているのが残念。水への感謝の奥にある自然への畏敬とそれを体現する神仏への祈りが大事。だから今年から前夜祭として、ここ松島の弁天様の前で開催されることが大変意義がある。弁天様にそのことを伝えなさいと言われて、ここに来た気がしている。

といって、イベントがダメというのではない。人の営みは素晴らしい。明日本番の催し竹灯篭点灯・番傘点灯など楽しみだし、それは人間しかやらない。犬や猫ではない人間しかやらないものの中に人間の本質がある。他者の命を奪い、子孫を作るのは人間同様に犬も猫もする。イベントのように集団で催し物をするのは人間だけ…素晴らしい。そして犬や猫ではない最高の行為が神への祈り、他者への感謝である。そのまつり、祈り、感謝の象徴が「水」、弁天さまへの感謝である

②祭りはハレの行為である。
ハレとケを行き来して生きて来た日本人。

③自然に善悪はない。
自然の恩恵、そして驚異を忘れてはいけない。島原大変肥後迷惑にみる自然の驚異。そして水の都・島原が生まれた。

④風土と歴史を大切に。 
島原の特異性の中に、日本の大切なものが語られる…特異でないと語れない。島原の歴史とは、キリシタンを受け入れてきた日本の多様性。貧困による女性の不幸ーからゆきさんを生んだ背景。島原大変肥後迷惑にみる自然との共生。
 
⑤最後にOMAの勧め…
O 水のおかげさま M 水がもったいない A 水がありがたい

**************

だいたい、どんな依頼も断らないというのが私の主義である。だから、今まで、JAXAや富士山の世界遺産登録国際シンポジウム、「森里川海プロジェクト大会」など、まあ、私の力をおよそ越えたような集まりにも出かけている。

いつも行ってから後悔したり、悪戦苦闘をすることになるが、今回の水まつり前夜祭法話会もかなり手こずったものとなった。でも弁天様の思し召しと思って、いろいろ勉強出来たし、楽しく過ごさせていただいた法話会だった。
※写真はFB「島原水まつり」さんから拝借しました。自分の写真は自分で撮れませんので(>_<)。


今年(2024年)の水まつりのチラシ
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王寺町で「奈良検定2級受験講座」10月6日(日)スタート!(2024 Topic)

2024年08月28日 | お知らせ
今年で3年目となる王寺町(りーべる王寺東館)での「奈良検定2級受験講座」は、10月6日(日)からスタートする。全8回で、受講料は5,000円(8回分の合計金額、テキスト・問題集の代金を含む)。合格のコツが詳細に伝授されるので、これはお薦めだ。定員の30名までには、まだ余裕があるそうだ。お申し込みフォームは、こちら。詳細は末尾のチラシに出ているが、概要を紹介すると、
※トップ写真は、受験講座の講義風景(2022.10.2 撮影)

奈良検定2級受験講座 今年も開講!
NPO法人 奈良まほろばソムリエの会 および 王寺町観光協会 連携事業
奈良まほろばソムリエ検定(=奈良検定)は、奈良県の歴史や文化、観光などの分野から「奈良通」 度を認定するご当地検定です。あなたも奈良の魅力の伝道師になりませんか?

募集人員/ 30名 (先着順) ※奈良県以外の方もご参加いただけます。
応募受付/ 令和6年8月19日(月)9時開始(定員に達し次第締め切ります)
講座概要/ 令和6年10月~令和7年1月の全8回
場 所: 王寺町地域交流センター (JR王寺駅北側・りーべる王寺東館5階)
講 師: NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」会員 
受講料: 5,000円(=全8回分。テキスト・問題集の代金を含む)

※初回受付時にまとめて集金します。講座開始後の返金はできません。
※初回のみ午前9時45分~12時、以降各回午前10時~12時の予定です。
※次回奈良検定試験は、令和7年3月に実施される予定です。

お申し込みは、こちらから
定員になり次第締切らせていただきます
<お問合せ>NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」 受付担当(ouji2@stomo.jp)
<協力>王寺町観光協会(0745-33-6668)


ぜひお早めにお申し込みください!

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田中利典師の「金峯山寺の体験修行」

2024年08月27日 | 田中利典師曰く
今日は田中利典師のお誕生日、69歳、おめでとうございます!さて、今日の「田中利典師曰く」は、〈山伏の山修行〉(師のブログ 2016.8.1 付)である。師は「科研・身心変容技法の比較宗教学:大荒行シンポジウム」(2014.11.20)に登壇され、こちらはその質疑応答での師の発言である。なおこのイベントは、哲学者・宗教学者の鎌田東二さんが主宰する研究プロジェクトの一環である。
※トップ写真は、吉野山の桜(2024.4.5付)

利典師は、正式な入峯修行の前に体験してもらう「体験修行」をお考えになった。それは〈今までなら連れていってはいけないような一般の人が申し込んできて、連れていくようになって、どんどん自分たちの勝手な気持ちで入って来る人が増えてくるわけです〉。勝手な気持ちで入ってくると、危険なことが起きる。それで前段階として、このようなシステムをお考えになったということである。では、全文を紹介する。

「山伏の山修行」 田中利典著述を振り返る280801
田中利典
 講演のときも申し上げましたけれども、山の修行は危険を伴うわけであります。ややもすると、いまの人たちというのは自分たちが持っている原理をそのまま山に持ち込もうとしますから、これは非常に危険なことが生まれます。

ですから、山の修行をするときは、やっぱり山の原理に自分たちが合わせるということが、まず心構えとして欠かせないわけで、自分たちの勝手で行くのなら、山伏修行ではなく、よそで勝手に行ってもらったらいい。私どもが責任を持って山の修行をしてもらう以上は、山の原理に合わせるということを、まず前提としているわけであります。そのためには、自分たちが持っている原理でないものに、まず染まるということが大事であります。

金峯山寺の体験修行は実は私がつくったシステムです。このシステムをなぜつくったかというと、蓮華入峰とか、奥駈入峰とか、正式な入峰をしたときに、今までなら連れていってはいけないような一般の人が申し込んできて、連れていくようになって、どんどん自分たちの勝手な気持ちで入って来る人が増えてくるわけです。

そうすると、山伏の修行というものを、よく理解しておかないと、危険が伴うわけであり、いまの、まして自我が増大した現代人を連れて行くのは問題がある。本当に、言い方はわるいですが、ばかみたいなやつが、いっぱい来ますからね。ですから、ばかみたいなやつが少し、まともになるような、訓練としての体験修行が必要になってくる。「もう私は歩けませんから帰ります」という人は初めから来るなという話になるわけでね。

金峯山寺は極めて親切で、その分、よく怒られる修行だと思います。 蓮華入峰に東京の有名なお寺の偉い人がおいでになったのですが、彼曰く「坊さんになってから、こんなに怒られたことはないです、というぐらい怒られた」と。それぐらい怒るんです。何で怒るかというと、怒ることによって、まあ、彼の場合は心構えができていたんですが、かたちとして、それができなかったので、たぶん叱られた。

まず自分たちが持っている原理をいったん捨てて、山の修行に入るというのは最低限の参加のルールですから。自分たちが自分たちのルールのままで歩くのなら自分たちで勝手に歩けばいいわけでね、ただし、山伏として歩く以上は、われわれのルールに従っていただくことになります。

われわれが最低限、守ってほしいというのは、先達の言うことを聞くことと、地下足袋で歩くということ。登山靴ではなく、まあわらじという時代ではないので、せめて地下足袋で、足の裏から山の力、自然の力を感じていただく。そういうことを身に染ませるために、いろいろやかましく言うわけで、そういう決められた山の原理に従ったルールの中で歩く中で、縦軸というのは個人の問題だと思います。

修験の修行を私がすごく素晴らしいと思うのは、私は山が大嫌いなので、山伏でなかったら、山なんかへは行かないわけですけれども…

鎌田東二 ほんとですか。
田中利典 ほんとですよ。大嫌い。私は修行以外で山に行ったことがない。ハイキングとかでは山に行かない人なんですよ。

何がいいかというと、大きな気持ちで来た人にも、小さな気持ちで来た人にも、それぞれに応じて何か、その行を通じて感じられるものがある。何も期待を持ってこなかった人にさえ、その行を通じてなにかしら感じてもらえるものがある。

それが、人によっては縦軸として、神を見たとか、聖なる気持ちになったとか、そういうことがあるかもしれないし、そんなところまでいかなくても、とても清浄にしていただいた程度のことかもしれないけれども、そういう、それなりのものがあるというのが山の修行のすごさだなと思います。

ただ、一番危険なのは、「私は百日歩いて、千日歩いて、人の気配が分かるようになった」とか、「神の存在が分かるようになった」とか言い出すと、それはちょっと心配なことで、病気になったんじゃないかなと思いますね。

人間というものには誰だって、そういうことはあるわけであって、ただ、修行をすると、そういうものがないといけないような気持ちなるのも人間で、そこのところに魔が入りこむ間があるわけです。そこは気を付けないといけません。

もし、そういうものがあったとしても、経験したことを軽々しく人に言うべきものでもなく、自分の中にそっと置いておいたらいいことだと思うわけです。私は、あまり縦なるものを宣伝するのはどうなのかなと思っています。それは自分の宗教的体験の世界に置いておけばいいことです。人によって大きい小さいはあっても、それなりに得られるものがあるのが山の修行のすごさではないかと私は思います。以上です。

「2014.11.20 科研・身心変容技法の比較宗教学:大荒行シンポジウム」質疑応答から転用
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