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tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

春うらら、深田池(橿原神宮境内)には亀と鳥

2025年04月10日 | 奈良にこだわる
「吉野山 梢(こずえ)の花を見し日より 心は身にも そはずなりにき」は、西行法師の歌だが、桜の時期になると、誰しも「心は身にも そはずなりにき」という気分になるのではないだろうか。





一昨日(2025.4.8)、橿原神宮にお参りした。帰りに南神門を出ると、南手水舎の裏手に「深田池」という大きな池がある。池のほとりに桜の木があるので、見物しようと近づくと、何組か先客があって、お弁当を食べていた。





眺めていると、目ざとい鳩が弁当からこぼれたご飯を狙って降り立つと、たくさんの水鳥も一斉に寄ってきて、これは驚いた、スゴい迫力だった。



思えば今年の桜(ソメイヨシノ)は、奇妙な咲き方をした。奈良市の開花宣言は3月28日(金)だった。しかしこのあと気温の低い日が続き、なかなか満開にはならない。翌週末(4月4日)あたりから、ようやく見頃になってきた(この時点で、吉野山のシロヤマザクラはほとんど咲いていなかった。下千本が満開になったのは、4月8日)。



桜にあまり関心のない人は、桜(特にソメイヨシノ)は、毎年同じ頃に咲いて同じ頃に散ると思っていてるようだが、特に近年、咲き方にバラツキが見られるようになった。極端に早く咲く年もあれば、遅咲きの年もある。今年(2025年)のように開花から満開まで、10日以上かかる年もある(通常は約1週間)。おそらく地球温暖化が災いしているのだろう。





しかし花の時期が長いと、良いこともある。菜の花やチューリップと開花が重なり、「花の競演」が楽しめるのである。今年は藤原宮跡や馬見丘陵公園で、このような競演が楽しめた。


参道で、ストリートファイターのケンを見つけた!

あと何年、自分の足で歩いて花見スポットを巡れるのかは分からないが、毎年カメラを携えて、いろんな桜を訪ねてみたいと思う。
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神武天皇社と嗛間(ほほま)神社(御所市柏原)/御所市観光振興課「ごせのね」

2025年04月06日 | 奈良にこだわる
神武天皇社と摂社・嗛間神社のことが、御所市観光振興課のサイト「ごせのね」(訪れてほしい場所→スポット)に出ていると、会社の先輩だった藤井謙昌(よしまさ)さんに教えていただいた。藤井さんはこれら神社の管理者で、取材もお受けになったという。コンパクトにまとまった良い記事なので以下、全文を紹介する。
※写真は全て、「ごせのね」から拝借。トップ写真は、神武天皇社拝殿

神武天皇社
神武天皇社は柏原(かしはら)地区に鎮座する神社で、祭神は神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)、すなわち初代天皇とされる神武天皇が祀られています。

ここは大和を平定した神倭伊波礼毘古命が神武天皇として即位した場所だといわれ、享保21年(1736年)の大和誌には「橿原宮。柏原村に在り」と記されるほか、かの本居宣長も明和9年(1772年)に記した『菅笠日記』で、「畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いた」という記録を残しています。


神武天皇社本殿。拝殿の奥にある(通常は非公開)

明治22年(1889年)に、神武天皇橿原宮は橿原市に比定されましたが 、 古来より御所市柏原(江戸時代の地名は葛上郡柏原村・明治から昭和33年まで南葛城郡掖上村大字柏原)を神武天皇橿原宮跡として宮座の人々を中心に祭事が続けられ、大切に守り継がれています。

また、この場所から南に少し下ったところに、摂社である嗛間(ほほま)神社があります。祀られているのは、神倭伊波礼毘古命が神武天皇として即位する以前、九州の日向国で妃とした吾平津媛(あひらつひめ)です。


嗛間神社(通常は非公開)

この地域では、昔から「婚礼の行列の際には嗛間神社の前を通ってはならない」とされ、どうしても通る必要がある場合には、社に白幕を張っていました。これは、神武天皇が伊須気余理比売(いすけよりひめ)を妃として迎えたことで、侘び住まいを送ることになった吾平津媛の不遇を思い、行われるようになった風習だと考えられています。
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箸墓含む 8ヵ所の「陵墓」で倒木被害!/毎日新聞が、宮内庁の内部資料を入手

2025年03月22日 | 奈良にこだわる
奈良県内には、たくさんの陵墓(天皇や皇族の墓)・古墳が点在する。よく質問を受けるのが、「陵墓の上の樹木は、宮内庁が植えたのですか?」。私は「いえ、野鳥が種を運び、自然にこんな森になりました。おそらく明治時代から、樹木が育っていると思います」と回答すると、皆さん、とても驚かれる。
※トップ写真は箸墓古墳。毎日新聞の記事サイトから拝借した

その樹木の成育(倒木)状況は、知ることができなかった、それは宮内庁が「立入禁止」にしているからである。ところがこのたび毎日新聞は、「情報公開請求」で、宮内庁の内部資料を入手した。写真には、生々しい「倒木被害」の様子が写し出されていた。

「うーん、これはひどい。フタを開けたらカビが大発生していた、という高松塚古墳壁画を思い出すなぁ。宮内庁は、なぜ放置しておいたのだろう」という素朴な疑問が思い浮かぶ。とても大きな記事なので、以下に記事(2025.3.21付)の内容を貼っておく。毎日新聞さん、貴重な情報をありがとうございました!

陵墓8ヵ所 倒木被害/18年以降 台風・大雨で
天皇や皇族の墓などとして宮内庁が管理する8カ所の陵墓で2018年以降、台風や大雨による倒木で墳丘に穴が開いたり、地中から埴輪(はにわ)が露出したりする被害が相次いでいることが判明した。

世界遺産の百舌鳥・古市古墳群(大阪府)の大山古墳(仁徳天皇陵)や、卑弥呼の墓との説がある奈良県の箸墓(はしはか)古墳(大市墓)なども含まれる。


これら2枚は、2023年6月の大雨によって箸墓古墳で起きた倒木の様子
(宮内庁書陵部作成の資料から)毎日新聞の記事サイトから拝借


全国159ヵ所の9割で対策必要
一級の文化財としての側面を持つ陵墓で樹木管理が大きな課題になっている実態が浮かんだ。毎日新聞は陵墓の管理状況を確認するため、宮内庁が陵墓の保存整備工事に関して専門家の意見を聞く「陵墓管理委員会議」で使用した13~24年分の資料や会議録を情報公開請求し、開示を受けた。

さらに宮内庁へ取材し、陵墓の調査報告書を確認したところ、台風や大雨による倒木被害が相次いでいることが明らかになった。



こうした事態を受けて宮内庁は23~24年、主に西日本に所在する古墳などの陵墓で樹木の状況を調査。地形的に台風の影響を受けやすい場所に樹木が生えていた陵墓は、調査対象の大半を占めた。宮内庁は立地や大きさから陵墓を優先度で4分類し、昨年7月の陵墓管理委員会議で報告した。

会議録によると、委員の一人は「危険木を伐採するということはぜひしないといけない」と述べる一方、自然環境に配慮して植物の種類などを「十分に検討して説明できるようにしないと、自然環境を守るというところからクレームが出てくるだろう」と懸念を示した。



 宮内庁陵墓課は毎日新聞の取材に「いくつかの陵墓で自然環境を確認する調査をしており、今年夏ごろの会議で説明する予定だ。陵墓の景観や自然環境などを損なわないように留意しながら、リスクのある場所の樹木の伐採を進めていきたい」と説明した。【高島博之】

文化的価値 失われ/陵墓で倒木「今が一番悪い状態」
墳丘に開いた大きな穴。散乱する葺石(ふきいし)――。天皇陵や皇族の墓として宮内庁が管理している陵墓が、頻発する大雨や台風によって危機的状況にさらされていることが判明した。

毎日新聞が情報公開請求で入手した宮内庁の内部資料には、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(大市墓、奈良県桜井市)で起きた倒木被害の様子を捉えた5枚の写真もあり、その実態を生々しく伝えている。

大雨の直後に撮影
5枚の写真は2023年6月に発生した大雨の直後に撮影された。立ち入りが厳しく制限された陵墓内の様子が写真で明らかになることは少なく、箸墓古墳での倒木被害はいまだ公表されていない。

写真には箸墓古墳の後円部にあった大木が根元から倒れている様子とともに、墳丘に開いた大きな穴の周囲に散らばる葺石が写っていた。宮内庁は取材に、高さ15メートルの常緑樹のナナミノキが根元から倒れ、2メートル四方の範囲で深さ1メートルの穴が開いたことを明らかにした。また、他に5本の木が巻き込まれて倒れたという。

「今が陵墓管理の一番悪い状態。文化財の本質的価値が失われつつある。陵墓の本質的な価値は何なのか。何を守ろうとされているのか。宮内庁の中で議論をして手を打たないと、大変なことになる」 翌7月に宮内庁庁舎で開かれた「第47回陵墓管理委員会議」で、写真を見た委員は宮内庁の陵墓管理に強い不満を示した。

8年前から指摘
会議に出席した委員は考古学者4人、歴史学者と国土交通省の土砂災害の専門家の計6人で、樹木の管理状況への厳しい意見が相次いだ。

会議録には委員の意見が箇条書きにされており「(幕末から明治の)陵墓治定(指定)後には木が伸びたままだ。大きい木は切っていく必要がある」との指摘や、相次ぐ倒木被害を踏まえて「最近は木や植生の管理をどうしたらよいかという問題に論点が移ってきている」との記述が見られた。

また、委員から「今後、樹木の管理をどのようにするのか、宮内庁としての方針を来年の委員会で提示してほしい」との要求があり、宮内庁が倒木による被害の恐れがある陵墓の実地調査をすることになった。

陵墓の樹木どう管理?
貴重な文化財でもある陵墓の樹木はどのように管理されてきたのか。江戸時代ごろまでは、地元の人が立ち入って、薪などにするため木を持ち帰ることもあり、明治初めは現在のように木は茂っていなかったという。それが幕末から明治にかけて管理が厳格化され、一般の立ち入りが規制された。

宮内庁が1968年に制定した「陵墓の営繕方針及実施要領」では、樹木の状態を「尊厳性をそこなわないように、こんもりと自然に安定した森林の相をもつ状態とする」と規定しており、現在の箸墓古墳もうっそうとした森のような姿となっている。それが近年多発するようになった台風や大雨で、各地の陵墓で倒木被害が相次ぐようになった。

こうした状況について、陵墓管理委員会議の資料からは少なくとも8年前の時点で、問題視されていたことがうかがえる。17年6月30日の第41回会議では、委員の一人が「前々から墳丘問題は樹木だ」と指摘。委員に森林に関する専門家がいないことを挙げ「専門家を呼んで、被害のありそうな陵墓をいくつか調べた方がいい」と提言していた。

宮内庁の対応は?
委員は年に1度、陵墓の現地視察もしており、19年11月は世界遺産の百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群を構成する仲津山古墳(仲姫命(なかつひめのみこと)陵、大阪府藤井寺市)で、18年9月の台風21号による倒木被害の状況を確認した。

視察中の委員から「陵墓の木をこれからどうするかということは最大の課題」との発言や「台風はどんどん来る」との指摘があった。宮内庁の担当者は「毎年こんなに台風が来たら、とてもじゃないが予算的にもたないです」とこぼすだけで、対策は進まなかった。

宮内庁は陵墓で倒木などの被害があっても速やかに公表せず、毎年度末に発行している「書陵部紀要」で発掘調査の成果とともに報告している。

18年9月の台風21号による倒木被害は仲津山古墳を含め大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)、太田茶臼山古墳(継体天皇陵)など大阪府内の七つの陵墓で発生していたが、紀要での報告は72号(21年3月発行)と74号(23年3月発行)だった。また、書陵部紀要は専門用語があふれており、一般向けの内容ではない。

宮内庁は毎日新聞の取材に、被害状況を速やかに公表しない理由を「倒木などの被害が出た場合、埴輪(はにわ)や葺石などが容易に目に付く状態で露出する場合が多く、学術的な調査を行う前に事実関係を公表することは、興味本位の陵墓への立ち入り、盗掘や事故を誘発する危険がある」とし、「調査結果が十分整理されてから、その内容を(紀要で)公表している」と説明した。【高島博之】

(解説)宮内庁 危機感欠き
地中にあった埴輪(はにわ)などが露出し、風雨にさらされる状況は以前から起きていたが、宮内庁の危機意識は乏しく対応は十分とは言えない。

古墳の管理者は陵墓かどうかで異なる。陵墓は宮内庁が所管しているのに対し、それ以外の古墳は所在する自治体などが担当している。どちらも樹木管理が懸案となっているが、取り組みは両者で大きく異なる。

堺市には東西・南北とも約4キロの範囲に広がる百舌鳥(もず)古墳群があり、陵墓とそれ以外の古墳が混在する。陵墓以外の主要な古墳は国史跡に指定されており、堺市が管理する。

堺市は文化財保護法に基づく「史跡百舌鳥古墳群保存活用計画」を策定し、植生管理を「指定地における維持管理の主要かつ重要な行為」と位置付け、国史跡の古墳ごとに植生を含む管理の基本方針と方法を定めている。

一方、古墳群にある大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)、百舌鳥陵山(みささぎやま)古墳(履中天皇陵)、田出井山古墳(反正(はんぜい)天皇陵)の三つの天皇陵を含めた陵墓23基は、宮内庁が管理しているため国史跡には指定されておらず、管理権のない堺市の保存活用計画の対象外だ。

宮内庁には全般的な管理方法の「陵墓管理要領」(1975年制定、2010年改正)と、整備工事の手法などを示した「陵墓の営繕方針及実施要領」(68年制定)があるだけで、陵墓ごとの管理方針は策定していない。

23年7月の第47回陵墓管理委員会議では、委員から「樹木をどうすべきか自治体も同じ問題を抱えていることから、情報交換を本格的にすべきではないか」との指摘が出ていたが、宮内庁と自治体や文化庁との協議は開かれていない。

これまで宮内庁による陵墓の保存整備は、濠(ほり)の水によって浸食された墳丘や堤を保護する対策工事が中心で、大山古墳での工事も課題となっている。それらに加えて倒木被害への対応も喫緊の課題となった。陵墓の保護を進めるためにも、宮内庁はまず陵墓の現状を積極的に説明し、国民の理解を得ていく必要がある。【高島博之】




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こだわりの「おいしいお米」を提供する「刀祢米穀店」(奈良市・小西町)

2025年02月28日 | 奈良にこだわる
一昨日(2025.2.26付)、毎日新聞を読んでいて、奈良版のところで目が点になった。もと同僚の刀祢善光(とね・よしみつ)さんが出ていたのだ!刀祢さんは、南都銀行本店から目と鼻の先の「刀祢米穀店」のご子息で、入行されるとき、「刀祢米穀店の息子さんが入ってくるぞ!」と話題になった。
※トップ写真は刀祢米穀店、お店のHPから拝借した


刀祢善光さん。以下、4枚の写真は、毎日新聞の記事サイトから拝借した
(いずれも刀祢米穀店で、山口起儀さん撮影)

私も本店勤務の時は、いつもお店の前を通り、「刀豆(なたまめ)・刀豆茶」の看板や、干した刀豆の現物を横目に見て歩いていた。いかにも老舗らしい風格があったが、今回の記事で幕末の安政年間(1855~1860年)の創業と知った。53歳で早期退職し、8代目としてお店を継いでいたことも、初めて知った。では、以下に記事全文を紹介する。


不良粒をはじく色彩選別

脱サラし味追求 客足に手応え
「良心的価格で安定供給を」刀祢米穀店(奈良市)

昨夏の「令和の米騒動」以降、米への関心が高まっている。スーパーなどでは価格が1年前と比べて1・7倍に高騰。価格の高止まり対策として政府は備蓄米の放出を発表し、話題は尽きない。一方、事業承継問題などで米穀店は減少傾向にあるが、近鉄奈良駅(奈良市)近くの刀祢(とね)米穀店は元気だ。価格高騰の中でも緩やかに客足が伸びている。理由は米穀店だからこそ可能な「おいしい米」にある。【山口起儀】



小西さくら通り商店街にある店は江戸時代の安政期に創業したとされる。7代目店主の刀祢善次さん(85)の後を継ぐため長男の善光さん(55)が約2年前、脱サラして加わった。今は店のかじ取りを任されている。仕事は、玄米の仕入れ▽ぬかを落として白米にする(精米)▽計量して袋詰め――が主な流れ。米がおいしいのは「店内で精米して販売しているから」という。「精米から2週間ぐらいまでが特においしい」と善光さん。


色彩選別機ではじかれた玄米の不良粒

おいしい米の販売に欠かせない作業が「石抜き」と「不良な粒を取り除く色彩選別」だ。いずれも精米の前に専用の機械で行い、不良混入率を下げるために徹底している。色彩選別機は黒みがかったり、カメムシに食べられて欠けたりした不良粒をセンサーが識別する。機械の作動中、プチプチと音が聞こえるのは見つけた不良米をエアで一粒ずつはじき出している音。1キロを約1分で選別し、数十粒をはじき出した。

精米は注文が入ってからする。石抜きなどを終えた玄米を精米機に入れ、数分程度できれいな白米に仕上がる。計量して袋詰めすれば商品になる。計量で用いているのが重りをつるして重さを測る年代物の計量器。手入れしながら使用するなかなかの美品だ。


重りを吊るして重さを測る年代物の計量器は今も現役

元々、善次さんの代で閉業する意向だったが、善光さんは「良い物を売って地域に喜ばれている店をなくすのはもったいない」と長年感じ、自身の子の就学費などのめどがついた2年前に後を継いだ。

以前は白米を仕入れてそのまま販売していたが、善光さんが入るタイミングで「店内で精米し、おいしいお米を食べてもらいたい」と変更。米穀店はスーパーよりも割高になるが、それでも緩やかに客足は伸びている。「米のおいしさを求める人が増えている」と手応えを感じている。周辺の同業者が少なくなったことも一因とみられる。

仕入れや在庫管理も重要な仕事だ。特に供給や価格が不安定な昨今だけに「得意客のために安定した数量を確保し、良心的な価格で販売することが米穀店の使命」と善光さん。「農家が作りたいだけ作れる環境を整えることが極めて重要。米とともに健康を維持するのが日本人の伝統だと思う」

◇刀祢米穀店
奈良市小西町16。年中無休。午前9時~午後7時。県内産を中心に北陸や関東甲信越のブランド米など約10品種のほか、大豆製品なども販売している。(0742・22・3602)。


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劇団「小町座」率いる小野小町(おの・こまち)さん(劇作家・歌人)

2025年02月18日 | 奈良にこだわる
朝からぼんやりと毎日新聞を読んでいて、奈良版のページで手が止まった。「おお、これは小野小町さんではないか!」。劇作家で歌人の小野小町さん、お名前はご結婚前の本名である。以前、奈良まほろばソムリエの会の「自主勉強会」で、小野さんの師匠だった前登志夫さんの話をうかがったこともある。
※トップ写真は小松座のFBから拝借、中央が小野小町さん

「ならどっとFM」にもよく出演されているが、あまりお名前が知られていないので、残念に思っていた。今回の記事掲載で、彼女の活動にもっとスポットライトが当れば、と願っている。では、記事全文を紹介する。


この写真は、毎日新聞の同記事サイトから拝借

新たな文化のかたち模索/やまと人模様
市民で作る劇団「小町座」を主宰し、現代劇を手がける劇作家。奈良市旧市街地の古民家を改装した文化施設「奈良町にぎわいの家」の総合プロデューサーも務め、奈良の伝統文化と現代的な芸術を組み合わせた新たな文化のかたちを模索している。

2024年2月、にぎわいの家で実験的な「全館移動劇」を上演した。舞台を設けず、奥に長く中二階や蔵もある大正期の町家の中を、役者が場面に合わせて移動しながら演じ、劇中でたてた抹茶を実際に観客に振る舞うなど型破りな演出も。「独特な構造から得た着想が、自分の実験的な作風とうまく融合した。私のキャリアの集大成のような作品だった」と振り返る。

今でこそこの場所を拠点としているが、「元々は奈良に全く関心がなかった」という。奈良教育大に進学したものの、遊ぶのは大阪。寺山修司が主宰した劇団「天井桟敷」の公演に衝撃を受け、関西の小劇場文化を支えた「オレンジルーム」に足しげく通った。

在学中に劇作家としてデビューし、卒業後も大阪を拠点に活動。お笑いコンビ・ダウンタウン主演のラジオドラマの脚本を手がけ、当時駆け出しだった俳優の國村隼さんや生瀬勝久さんとも交流するなど、1980年代に花開いた関西カルチャーの黄金期を駆け抜けた。

転機となったのは、子育てで活動を休止していた頃に始めた短歌だった。吉野の歌人、故前登志夫さんと出会い、それまで気付かなかった奈良の魅力にのめり込んだ。以降、拠点を奈良に移し、文化遺産や県南部の豊かな自然を題材にした劇や短歌を作り続けている。

にぎわいの家の総合プロデューサーに就任して今年で10年。演劇や現代美術の展覧会、コンサートなど、それまでは開いていなかった催しを企画してきた。「単なる観光施設で終わらせてはいけないという思いが強かった」という。

一方で、学生だった40年前と変わらず現代的な文化が乏しい奈良の現状に危機感も抱く。「奈良の文化レベルを底上げするには、市民が主体的に活動することが重要。これからも『市民参加型』の活動を続けていきたい」と力を込める。【田辺泰裕】

◆人物略歴 小野小町(おの・こまち)さん
1963年、京都府生まれ。2007年に市民劇団「小町座」を旗揚げし、全作で脚本と演出を手がける。歌人としては16年に歌集「ラビッツ・ムーン」を出版した。


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