田中利典師の処女作にして最高傑作という『吉野薫風抄 修験道に想う』(白馬社刊)を、師ご自身の抜粋により紹介するというぜいたくなシリーズ、第13回は「正しい霊能者」である。
※トップ写真は、一言主神社参道(御所市)のヒガンバナ。2022.9.25撮影
修験者は厳しい修行の結果、霊能力を身につけている。しかしお釈迦さまは、霊能力の使用を禁じており、さらに霊能力を得ることを目的とした修行は、「外道」であると断じている。霊能力は人々を教化するための「方便」に過ぎず、それにこだわりすぎると自らを惑わすことになるのだ。では以下、師のFacebook(5/25付)から全文を紹介する。
シリーズ吉野薫風抄⑬/「正しい霊能者」
霊感や霊能者というと何かとてつもない魅力に充ち満ちている。逆にうさんくさいイメージもある。近頃世間を騒がせた霊感商法などはその代表であろう。そこで今、正しい霊能者について、拙稿をしたためたい。
わが修験道の行者にとって、霊能力を以って人々を教化するのは最も得意とする所であり、誇りとすべき武器ともいえる。しかし、この霊能力には大きな落し穴が、まさに、〈影が形に従うがごとく)に潜んでいることを自覚しなければならない。
お釈迦さまはその生涯において、自らは幾度か霊能力(神道力)をお使いになりながら、ほとんどの場合、その使用は禁じておられる。また仏典には、修行が進み悟りに至るならば、六神通という素晴らしい霊力が得られるとしているが、神通力を得るための修行は外道(げどう)であると断じている。これは霊能力者に対する厳しい警告である。
霊能力や霊感というのは最終目的ではないと仏法は説くのである。人々を教化する方便にはなっても、あくまで方便でしかないのである。人間完成という、第一義の目的を見失ってはならない、いや、霊能力という方便にこだわりすぎると外道におちいりかねないと警告するのである。
霊感や霊能力は優れた力であるだけに、人々を魅了しやすく、その分、人々を惑わし、自らをも惑わしてしまうという、大きな落し穴がある。霊感者、霊能力者は、もしかすると、ある意味では選ばれた人々であるかもしれない。
普通人より、いわば特殊の優れた能力を持った人々なのかもしれないが、しかしながら、その能力を統制できるだけの自己(心)の完成がなければ、その自らの能力がついには自らをも蝕んでしまうのである。お釈迦さまが神通力の使用を禁じられた意図はまさにそこのかと思われる。
霊感者や霊能者は、力が大きければ大きいほどに、より以上に敬虔(けいけん)にならねばならない。正しい求道者であらねばならない。そして普通人以上に、人々に奉仕する心を保ち、自己の完成を目指さなければならない。
それを怠るならば、霊能者は即座に低能者になり、わけのわからぬ魑魅魍魎(ちみもうりょう)や低級霊の檎(とりこ)になり果ててしまうであろう。正しき霊能者をめざすものはこのことを夢々、忘れてはならない。
**************
若書きの一文(なにせ36年前…)。顔から火が出るようだ。でも、なんだか、落ちぶれて薄汚れたいまの私よりは遙かに純粋で清らかな感じもする(笑)。
40歳半ばで、鈴木大拙の「日本的霊性」という名著に出会った。この世は霊的な世界が元であって、その上に物質的な世界が広がっている…というような内容だったが、それ以降、霊能の世界をそういう目で見つめ直すようになった。もちろん、60歳を過ぎてなお、その答えは見つかっていないのだが…。
◇◇
私の処女作『吉野薫風抄』は平成4年に金峯山時報社から上梓され(26歳から35歳まで書いたコラムを編集)、平成15年に白馬社から改定新装版が再版、また令和元年には電子版「修験道あるがままに シリーズ」(特定非営利活動法人ハーモニーライフ出版部)として電子書籍化されています。「祈りのシリーズ」の第3弾は、本著の中から紹介しています。Amazonにて修験道あるがままに シリーズ〈電子版〉を検索いただければ、Kindle版が無料で読めます。
※トップ写真は、一言主神社参道(御所市)のヒガンバナ。2022.9.25撮影
修験者は厳しい修行の結果、霊能力を身につけている。しかしお釈迦さまは、霊能力の使用を禁じており、さらに霊能力を得ることを目的とした修行は、「外道」であると断じている。霊能力は人々を教化するための「方便」に過ぎず、それにこだわりすぎると自らを惑わすことになるのだ。では以下、師のFacebook(5/25付)から全文を紹介する。
シリーズ吉野薫風抄⑬/「正しい霊能者」
霊感や霊能者というと何かとてつもない魅力に充ち満ちている。逆にうさんくさいイメージもある。近頃世間を騒がせた霊感商法などはその代表であろう。そこで今、正しい霊能者について、拙稿をしたためたい。
わが修験道の行者にとって、霊能力を以って人々を教化するのは最も得意とする所であり、誇りとすべき武器ともいえる。しかし、この霊能力には大きな落し穴が、まさに、〈影が形に従うがごとく)に潜んでいることを自覚しなければならない。
お釈迦さまはその生涯において、自らは幾度か霊能力(神道力)をお使いになりながら、ほとんどの場合、その使用は禁じておられる。また仏典には、修行が進み悟りに至るならば、六神通という素晴らしい霊力が得られるとしているが、神通力を得るための修行は外道(げどう)であると断じている。これは霊能力者に対する厳しい警告である。
霊能力や霊感というのは最終目的ではないと仏法は説くのである。人々を教化する方便にはなっても、あくまで方便でしかないのである。人間完成という、第一義の目的を見失ってはならない、いや、霊能力という方便にこだわりすぎると外道におちいりかねないと警告するのである。
霊感や霊能力は優れた力であるだけに、人々を魅了しやすく、その分、人々を惑わし、自らをも惑わしてしまうという、大きな落し穴がある。霊感者、霊能力者は、もしかすると、ある意味では選ばれた人々であるかもしれない。
普通人より、いわば特殊の優れた能力を持った人々なのかもしれないが、しかしながら、その能力を統制できるだけの自己(心)の完成がなければ、その自らの能力がついには自らをも蝕んでしまうのである。お釈迦さまが神通力の使用を禁じられた意図はまさにそこのかと思われる。
霊感者や霊能者は、力が大きければ大きいほどに、より以上に敬虔(けいけん)にならねばならない。正しい求道者であらねばならない。そして普通人以上に、人々に奉仕する心を保ち、自己の完成を目指さなければならない。
それを怠るならば、霊能者は即座に低能者になり、わけのわからぬ魑魅魍魎(ちみもうりょう)や低級霊の檎(とりこ)になり果ててしまうであろう。正しき霊能者をめざすものはこのことを夢々、忘れてはならない。
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若書きの一文(なにせ36年前…)。顔から火が出るようだ。でも、なんだか、落ちぶれて薄汚れたいまの私よりは遙かに純粋で清らかな感じもする(笑)。
40歳半ばで、鈴木大拙の「日本的霊性」という名著に出会った。この世は霊的な世界が元であって、その上に物質的な世界が広がっている…というような内容だったが、それ以降、霊能の世界をそういう目で見つめ直すようになった。もちろん、60歳を過ぎてなお、その答えは見つかっていないのだが…。
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私の処女作『吉野薫風抄』は平成4年に金峯山時報社から上梓され(26歳から35歳まで書いたコラムを編集)、平成15年に白馬社から改定新装版が再版、また令和元年には電子版「修験道あるがままに シリーズ」(特定非営利活動法人ハーモニーライフ出版部)として電子書籍化されています。「祈りのシリーズ」の第3弾は、本著の中から紹介しています。Amazonにて修験道あるがままに シリーズ〈電子版〉を検索いただければ、Kindle版が無料で読めます。