9/29(土)は、芝の増上寺に続き、浅草観音・浅草寺(せんそうじ・東京都台東区浅草)を訪ねた。この寺は、東京都内では最古の寺である。「ネットで百科」の浅草寺の項には《東京都台東区浅草 2 丁目にある寺で,俗に浅草 (あさくさ) 観音と称される。 山号金竜山。 天台宗に属していたが,1950 年聖観音宗を立て支院 25 ヵ寺, 末社 18 舎をひきいる総本山となった》。
この龍神像(沙竭羅龍王像)は、高村光雲作のブロンズ像
《縁起によれば 628 年 (推古 36) 宮戸川 (隅田川) で漁をしていた檜前 (ひのくま) 浜成・竹成兄弟の網に観音像がかかり, 郷司土師 (はじ) 中知と 3 人でこれをまつったのが最初という。 これが 1 寸 8 分 (約 5.45cm) で金無垢と伝える本尊であるが, 645 年 (大化 1) 勝海上人が東国に巡歴して本堂を開山し, 観音像を夢告により秘仏とした。 857 年 (天安 1) 慈覚大師円仁が堂舎を増築し, 秘仏を模刻して中興開山となった。 また朱雀天皇の代 (930‐946) には安房守平公雅が上京のおり参詣して武蔵守たらんことを祈り, 心願成就して堂塔伽藍を寄進したという》。
1958年(昭和33年)に再建された鉄筋コンクリート製・本瓦葺・入母屋造の本堂(ご本尊は秘仏)
1970年(昭和45年)に再建された五重塔
境内から、東京スカイツリーが見渡せる(徒歩20分)
《鎌倉時代以後は源頼朝以下将軍家の帰依を受けるなど武将や文人たちの尊崇を集め, 東日本随一の観音霊場とされて坂東三十三所の 13 番目の札所となった。 徳川家康は 1590 年 (天正 18) 3 ヵ条の禁制を下し, 天海僧正の進言で幕府祈願所に定めるとともに, 隣接する駒形,花川戸,千束の地 500 石を寺領として寄進した。 しかし 1685 年 (貞享 2),時の別当が生類憐みの令を批判したことから, 上野寛永寺の支配下に入れられ,強い規制を受けた。 当時一山は寺中 34 ヵ寺によって運営され, 末寺 17,門徒 8,末寺の門徒 2 を従える大寺であった》。
2003年に始まったライトアップ(日没から午後23時まで)。Wikipediaから拝借
《寺内町の仲見世は江戸きっての盛り場であり, 網野宥俊『浅草寺史談抄』などによれば境内の奥山には芝居・見世物小屋が並んで, 松井源水の曲ごま,深井志道軒の講釈, 軽業,居合抜,からくり,女相撲,歌祭文など庶民的芸能が技を競いあった。 また三社権現 (現,浅草神社。 檜前兄弟と土師をまつる) の祭礼三社祭は江戸三大祭の一つとされ, 四万六千日 (ほおずき市),歳の市 (羽子板市) などとともに今日も続く代表的祭礼となっている》。
《堂塔は関東大震災にも無事で人々の観音信仰を集めたが, 太平洋戦争による空襲で焼亡し,本堂は 1958 年, 五重塔は 73 年再建された。 寺宝に伝小野道風筆法華経 (国宝),元版一切経 (重要文化財), 尊円法親王筆愛染法などがあり,伝法院には遠州流の回遊式庭園がある。 江戸期を記録する『浅草寺日記』がある》。
仲見世には「芝居・見世物小屋が並んで, 松井源水の曲ごま,深井志道軒の講釈, 軽業,居合抜,からくり,女相撲,歌祭文など庶民的芸能が技を競いあった」とあるとおり、今も仲見世はすごい賑わいで、毎日が Festival状態である。
表参道入口にある浅草寺のシンボル・風雷神門(通称:雷門)。松下幸之助の寄進による
大提灯の表に「雷門」、裏は「風雷神門」。ここにも和歌山県の誇り・松下幸之助の名前が
東京タワーは増上寺の旧境内地にあったが、東京スカイツリー(高さ 634m)は浅草寺から徒歩20分圏内にある。なおWikipedia「東京スタイツリー」によると《当初は東京タワーの2倍の666mの計画だったが設計者から少し低い高さにすべきと言われ、浅草寺が創建された628年(推古天皇36年)に因み628mの案も有ったと根津嘉澄東武鉄道社長は2012年5月14日の開業記念式典後の記者会見で秘話を語った》とある。
交番のお巡りさんも、大忙し(雷門脇の交番)
東京のお寺は奈良のお寺と違い、きらびやかで賑やかである。東京スカイツリー⇔浅草寺というコースを巡る観光客も多いことだろう。外国人観光客の姿も目につく。浅草駅から徒歩5分という便利さなので、東京で少し時間の空いたとき、短時間で参拝するのにとても便利である。上京のおりには、ぜひお参りしていただきたい。
この龍神像(沙竭羅龍王像)は、高村光雲作のブロンズ像
《縁起によれば 628 年 (推古 36) 宮戸川 (隅田川) で漁をしていた檜前 (ひのくま) 浜成・竹成兄弟の網に観音像がかかり, 郷司土師 (はじ) 中知と 3 人でこれをまつったのが最初という。 これが 1 寸 8 分 (約 5.45cm) で金無垢と伝える本尊であるが, 645 年 (大化 1) 勝海上人が東国に巡歴して本堂を開山し, 観音像を夢告により秘仏とした。 857 年 (天安 1) 慈覚大師円仁が堂舎を増築し, 秘仏を模刻して中興開山となった。 また朱雀天皇の代 (930‐946) には安房守平公雅が上京のおり参詣して武蔵守たらんことを祈り, 心願成就して堂塔伽藍を寄進したという》。
1958年(昭和33年)に再建された鉄筋コンクリート製・本瓦葺・入母屋造の本堂(ご本尊は秘仏)
1970年(昭和45年)に再建された五重塔
境内から、東京スカイツリーが見渡せる(徒歩20分)
《鎌倉時代以後は源頼朝以下将軍家の帰依を受けるなど武将や文人たちの尊崇を集め, 東日本随一の観音霊場とされて坂東三十三所の 13 番目の札所となった。 徳川家康は 1590 年 (天正 18) 3 ヵ条の禁制を下し, 天海僧正の進言で幕府祈願所に定めるとともに, 隣接する駒形,花川戸,千束の地 500 石を寺領として寄進した。 しかし 1685 年 (貞享 2),時の別当が生類憐みの令を批判したことから, 上野寛永寺の支配下に入れられ,強い規制を受けた。 当時一山は寺中 34 ヵ寺によって運営され, 末寺 17,門徒 8,末寺の門徒 2 を従える大寺であった》。
2003年に始まったライトアップ(日没から午後23時まで)。Wikipediaから拝借
《寺内町の仲見世は江戸きっての盛り場であり, 網野宥俊『浅草寺史談抄』などによれば境内の奥山には芝居・見世物小屋が並んで, 松井源水の曲ごま,深井志道軒の講釈, 軽業,居合抜,からくり,女相撲,歌祭文など庶民的芸能が技を競いあった。 また三社権現 (現,浅草神社。 檜前兄弟と土師をまつる) の祭礼三社祭は江戸三大祭の一つとされ, 四万六千日 (ほおずき市),歳の市 (羽子板市) などとともに今日も続く代表的祭礼となっている》。
《堂塔は関東大震災にも無事で人々の観音信仰を集めたが, 太平洋戦争による空襲で焼亡し,本堂は 1958 年, 五重塔は 73 年再建された。 寺宝に伝小野道風筆法華経 (国宝),元版一切経 (重要文化財), 尊円法親王筆愛染法などがあり,伝法院には遠州流の回遊式庭園がある。 江戸期を記録する『浅草寺日記』がある》。
仲見世には「芝居・見世物小屋が並んで, 松井源水の曲ごま,深井志道軒の講釈, 軽業,居合抜,からくり,女相撲,歌祭文など庶民的芸能が技を競いあった」とあるとおり、今も仲見世はすごい賑わいで、毎日が Festival状態である。
表参道入口にある浅草寺のシンボル・風雷神門(通称:雷門)。松下幸之助の寄進による
大提灯の表に「雷門」、裏は「風雷神門」。ここにも和歌山県の誇り・松下幸之助の名前が
東京タワーは増上寺の旧境内地にあったが、東京スカイツリー(高さ 634m)は浅草寺から徒歩20分圏内にある。なおWikipedia「東京スタイツリー」によると《当初は東京タワーの2倍の666mの計画だったが設計者から少し低い高さにすべきと言われ、浅草寺が創建された628年(推古天皇36年)に因み628mの案も有ったと根津嘉澄東武鉄道社長は2012年5月14日の開業記念式典後の記者会見で秘話を語った》とある。
交番のお巡りさんも、大忙し(雷門脇の交番)
東京のお寺は奈良のお寺と違い、きらびやかで賑やかである。東京スカイツリー⇔浅草寺というコースを巡る観光客も多いことだろう。外国人観光客の姿も目につく。浅草駅から徒歩5分という便利さなので、東京で少し時間の空いたとき、短時間で参拝するのにとても便利である。上京のおりには、ぜひお参りしていただきたい。