tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

浅草寺は、毎日が Festival!

2012年10月08日 | 小さな旅
9/29(土)は、芝の増上寺に続き、浅草観音・浅草寺(せんそうじ・東京都台東区浅草)を訪ねた。この寺は、東京都内では最古の寺である。「ネットで百科」の浅草寺の項には《東京都台東区浅草 2 丁目にある寺で,俗に浅草 (あさくさ) 観音と称される。 山号金竜山。 天台宗に属していたが,1950 年聖観音宗を立て支院 25 ヵ寺, 末社 18 舎をひきいる総本山となった》。




この龍神像(沙竭羅龍王像)は、高村光雲作のブロンズ像



《縁起によれば 628 年 (推古 36) 宮戸川 (隅田川) で漁をしていた檜前 (ひのくま) 浜成・竹成兄弟の網に観音像がかかり, 郷司土師 (はじ) 中知と 3 人でこれをまつったのが最初という。 これが 1 寸 8 分 (約 5.45cm) で金無垢と伝える本尊であるが, 645 年 (大化 1) 勝海上人が東国に巡歴して本堂を開山し, 観音像を夢告により秘仏とした。 857 年 (天安 1) 慈覚大師円仁が堂舎を増築し, 秘仏を模刻して中興開山となった。 また朱雀天皇の代 (930‐946) には安房守平公雅が上京のおり参詣して武蔵守たらんことを祈り, 心願成就して堂塔伽藍を寄進したという》。


1958年(昭和33年)に再建された鉄筋コンクリート製・本瓦葺・入母屋造の本堂(ご本尊は秘仏)


1970年(昭和45年)に再建された五重塔


境内から、東京スカイツリーが見渡せる(徒歩20分)

《鎌倉時代以後は源頼朝以下将軍家の帰依を受けるなど武将や文人たちの尊崇を集め, 東日本随一の観音霊場とされて坂東三十三所の 13 番目の札所となった。 徳川家康は 1590 年 (天正 18) 3 ヵ条の禁制を下し, 天海僧正の進言で幕府祈願所に定めるとともに, 隣接する駒形,花川戸,千束の地 500 石を寺領として寄進した。 しかし 1685 年 (貞享 2),時の別当が生類憐みの令を批判したことから, 上野寛永寺の支配下に入れられ,強い規制を受けた。 当時一山は寺中 34 ヵ寺によって運営され, 末寺 17,門徒 8,末寺の門徒 2 を従える大寺であった》。






2003年に始まったライトアップ(日没から午後23時まで)。Wikipediaから拝借

《寺内町の仲見世は江戸きっての盛り場であり, 網野宥俊『浅草寺史談抄』などによれば境内の奥山には芝居・見世物小屋が並んで, 松井源水の曲ごま,深井志道軒の講釈, 軽業,居合抜,からくり,女相撲,歌祭文など庶民的芸能が技を競いあった。 また三社権現 (現,浅草神社。 檜前兄弟と土師をまつる) の祭礼三社祭は江戸三大祭の一つとされ, 四万六千日 (ほおずき市),歳の市 (羽子板市) などとともに今日も続く代表的祭礼となっている》。





《堂塔は関東大震災にも無事で人々の観音信仰を集めたが, 太平洋戦争による空襲で焼亡し,本堂は 1958 年, 五重塔は 73 年再建された。 寺宝に伝小野道風筆法華経 (国宝),元版一切経 (重要文化財), 尊円法親王筆愛染法などがあり,伝法院には遠州流の回遊式庭園がある。 江戸期を記録する『浅草寺日記』がある》。



仲見世には「芝居・見世物小屋が並んで, 松井源水の曲ごま,深井志道軒の講釈, 軽業,居合抜,からくり,女相撲,歌祭文など庶民的芸能が技を競いあった」とあるとおり、今も仲見世はすごい賑わいで、毎日が Festival状態である。


表参道入口にある浅草寺のシンボル・風雷神門(通称:雷門)。松下幸之助の寄進による




大提灯の表に「雷門」、裏は「風雷神門」。ここにも和歌山県の誇り・松下幸之助の名前が

東京タワーは増上寺の旧境内地にあったが、東京スカイツリー(高さ 634m)は浅草寺から徒歩20分圏内にある。なおWikipedia「東京スタイツリー」によると《当初は東京タワーの2倍の666mの計画だったが設計者から少し低い高さにすべきと言われ、浅草寺が創建された628年(推古天皇36年)に因み628mの案も有ったと根津嘉澄東武鉄道社長は2012年5月14日の開業記念式典後の記者会見で秘話を語った》とある。




交番のお巡りさんも、大忙し(雷門脇の交番)

東京のお寺は奈良のお寺と違い、きらびやかで賑やかである。東京スカイツリー⇔浅草寺というコースを巡る観光客も多いことだろう。外国人観光客の姿も目につく。浅草駅から徒歩5分という便利さなので、東京で少し時間の空いたとき、短時間で参拝するのにとても便利である。上京のおりには、ぜひお参りしていただきたい。
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増上寺は、塔のある寺

2012年10月07日 | 小さな旅
9/29(土)、東京・三越前の奈良まほろば館で「検定で知る!奈良の魅力」(第1回奈良まほろばソムリエ講座)という講話をさせていただいた。午後2時の開始だったので、当日の朝から向かうつもりだったが、台風が近づいていたので大事をとって前泊した。翌朝は幸い台風もまだ来ていなくてとても良いお天気だったので、お寺参りをすることにした。

まず訪ねたのが、芝の増上寺(ぞうじょうじ 東京都港区芝公園)である。なお、かつて芝(芝白金台)には芝村藩(奈良県桜井市芝)の江戸藩邸があり、そのゆかりで地名が「芝」(東京都港区)になったそうだ。奈良の地名が東京に飛び火したとは面白いが、考えてみれば有楽町という地名も、そこに信長の弟・織田有楽斎(おだ・うらくさい=芝村藩の初代藩主だった織田長政の父)の邸宅があったことから名づけられたのである。

増上寺は浄土宗の七大本山の一つで、徳川将軍家の菩提寺として知られている。定番の初詣スポットで、大晦日のカウントダウンでは鐘の音とともに約3000個の環境風船が夜空に放たれる。


大門(増上寺の表門)


三解脱門(増上寺の中門)

増上寺へは、地下鉄「大門駅」で降りる。大門は、増上寺の表門である。中門は三解脱門(三門)といい、都内有数の古建築であり東日本最大級を誇る。国の重要文化財にも指定されている。この日は薪能が行われるとかで、三解脱門は閉まっていたので、黒門(通用門)から入った。すると、突然目の前に巨大な塔が…。五重塔ではなく、それは東京タワーだった。


大殿(本堂)


安国殿

東大寺の創建時には高さ70~100mといわれる東西2つの七重塔があったそうだが、こちらは333mの電波塔だ。あまりにも近いので驚いたが、東京タワーの建設時、増上寺は墓地の一部を用地として提供している。「高い建物のない時代には、ちょうどこんな感覚で七重塔を見上げていたのだろうな」としみじみとした気持ちでタワーを見上げ、何枚もシャッターを切った。




鐘楼堂。大梵鐘は寛永寺、浅草寺とともに江戸三名鐘の1つ

大殿(本堂)にはご本尊阿弥陀如来(室町時代)や宗祖である法然上人像がお祀りされていた。「ネットで百科」の「増上寺」の項を見ると《東京都港区芝公園にある浄土宗の寺。 浄土宗六大本山の一つ。 三縁山広度院増上寺,略して縁山という。 1393 年 (明徳 4) 浄土宗第 8 祖聖聡が,武蔵国豊島郡貝塚台局沢 (現, 千代田区平河町付近) にあった真言宗の光明寺を改宗して増上寺と改名, 念仏弘通の中心道場としたことにはじまると伝える。 第 12 世存応(ぞんのう)のとき,徳川家康の帰依をうけて徳川家の菩提所 (ぼだいしよ) となり, 1598 年 (慶長 3) 現在地に移された。大伽藍の成った 1608 年勅願所となり, その後関東十八檀林の筆頭,ついで総録所として一宗を統轄する機関となった》。


本堂(大殿)のご本尊


本堂の法然上人像

《16 年 (元和 2) 家康の没後安国殿が造営された。 2 代将軍秀忠の没後から 7 代将軍家継に至る御霊屋 (おたまや) が造営されるに伴って御霊屋の別当寺院が生まれ, 年とともに寺領,堂宇を増し,たび重なる火災にも徳川家の外護 (げご) のもとに再建された。 52 年 (承応 1) ごろには,20 万坪の境内に 20 余りの堂宇が建ち並び, 当時 3000 人にのぼる学僧がいて念仏の声は一山に鳴り響いたという。明治期に入って 1869 年 (明治 2) に勅願所となり, 72 年教部省の命によって大殿は神仏合併大教院となり, 皇祖大神がまつられたことがあった》。



《数度の火災で文化財の多くは失われ, 戦火をまぬがれた建造物は三門 (三解脱門), 大経蔵,御成門 (おなりもん) にすぎない。 しかし,宋・元・高麗の三大蔵経,浄土五祖図などの絵画, 家康の守本尊であった黒本尊などの彫像, 多くの日鑑・古文書などが保存されている。 境内の大梵鐘は重さ 150kgで東京一といわれ, 寛永寺,浅草寺とならぶ江戸三鐘の一つ。(中略) 現在,境内地は 2 万 7000 余坪と最盛時の 7 分の 1 に縮小されたが, いまなお本山として念仏門徒の霊域となっている》。

「20万坪の境内に 20余りの堂宇」とはすごい。してみると、やはり東京タワーは増上寺の旧境内地に建っているのである。名刹と電波塔とは、珍しい取り合わせであるが、タワー⇔増上寺コースは、いかにも外国人観光客に受けそうな観光ルートである。皆さん、東京に行かれた際は、ぜひ「333mの塔のある寺」をお訪ねください。
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二荒山神社と大猷院 世界遺産 日光の社寺巡り(3)

2012年07月23日 | 小さな旅
世界遺産「日光の社寺」は、二社一寺(にしゃいちじ)といわれ、日光東照宮、日光二荒山(ふたらさん)神社、日光山輪王寺(りんのうじ)および輪王寺大猷院(たいゆういん)で構成される。このように書くと、お寺と神社が整然と建ち並んでいる印象だが、実際には「日光山」という広いエリアに神社とお寺が入り組んで建っているのである。その事情をWikipedia「輪王寺」から拾うと、

日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺に分かれ、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社である。一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。現在、輪王寺に属する建物が1箇所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在しているのは、このような事情による。

さて、今回は最終回として、北西側の(駅から最も遠い)日光二荒山神社と輪王寺大猷院を紹介する。まずは二荒山神社である。Wikipedia「日光二荒山神社」によると



日光二荒山神社は栃木県日光市にある神社。式内社(名神大社)、下野国一宮。社格は国幣中社。正式名称は二荒山神社であるが、宇都宮市の二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)との区別のために鎮座地を冠して日光二荒山神社と呼ばれる。

日光の3つの山の神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命)を総称して二荒山大神と称し、主祭神としている。3つの山とは、男体山(二荒山)、女峯山、太郎山の三山である。この山々は神体山、いわゆる神奈備であり、神が鎮まる霊峰として古くから信仰されてきた。この日光の神々は「日光三山」「日光三所大権現」などと呼ばれ、山の名前からもわかる通り、これらの神々は親子と考えられてきた。


つまり、父・大己貴命(おおなむちのみこと=男体山)、母・田心姫命(たごりひめのみこと=女峯山)とその子・味耜高彦根命 (あじすきたかひこねのみこと=太郎山)の3柱の神さまが祀られているのである。下野国(しもつけのくに=栃木県)の一宮(いちのみや=地域の中で最も社格の高い神社)とは、すごい。今も神域は、日光国立公園のほぼ全域にわたる。



二荒山(ふたらさん)の名は、諸説あるが観音菩薩が住むとされる補陀洛山(ふだらくさん)が訛ったものといわれ、後に弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたといわれる。空海はその訪れた際に女峯山の神を祀る滝尾神社を建てたという。また、円仁も日光を訪れたとされ、その際に現在輪王寺の本堂となっている三仏堂を建てたといい、この時に日光は天台宗となったという。

江戸時代までは、神領約70郷という広大な社地を有していた。今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400ヘクタールという、伊勢神宮に次ぐ面積となっている。



二荒山神社は縁結びの神さまとして、お守り(縁結び笹)が売られ、境内には神前結婚式のパンフレットがたくさん置かれていた。ご由緒によると《縁結び笹 この笹に願いを込めると、男女の良縁はもとより、仕事の縁・人の縁等々あらゆる良い縁に恵まれるといわれます。ここには「結び札」があり、それぞれの思いを書いて、結び所に結んで祈ります。「縁結び笹」に因んだ御守は、全国で唯一のあらゆる良い縁を結ぶ御守です》。また同神社のHPによると《二荒山神社の主祭神は、大己貴命です。別の名は、大国主命・だいこく様とも呼ばれ、福の神・縁結びの神様です。あらゆる縁を結んでくださる神様です》。



《神前結婚式 今のように神社の神前で行われるようになるまでには、『古事記』『日本書紀』の神話に登場する神々の結婚をはじめ、日本の風土の中で培ってきた神祭りの永い歴史があります。それは大自然の中で生き、自然に在す神々に常に感謝や祈りを捧げてきた人々の営みから生まれたものです。夫婦の和合を乞い願い、夫婦の契りを固める結婚が、神々のお計らいであり、お恵みであるという考え方は、遠い祖先から受け継がれてきた神々への素朴な信仰でもありました。このことはまた、親から子、子から孫へと連綿と続いてゆくいのちを大切にしてきたあらわれでもあります。神前結婚式が今日のように多くの日本人に受け入れられ、行われてきた背景には、このような信仰がありました。ここには、結婚を神々と祖先に感謝し、子孫の繁栄を願う日本人のひたむきな生き方を見いだすことができます》。


ここから、輪王寺大猷院の境内に入る


縁結びの二荒山神社から回ってきたのだろうか、若い女の子が
2人、ムリして写真を撮っていたので、シャッターを押してあげた

さて二荒山神社の奥(西)に、輪王寺大猷院(りんのうじ・たいゆういん)がある。つまり東から、輪王寺三仏堂(本堂)→東照宮→二荒山神社→輪王寺大猷院と並んでいるのである。あ~ややこしい。輪王寺の公式HPによると、


手水舎も、こんなにゴージャス

「大猷院」は、徳川三代将軍「家光公」の廟所(びょうしょ=墓所)です。境内には、世界遺産に登録された22件の国宝・重要文化財が、杉木立の中にひっそりとたたずんでいます。境内に林立する315基の灯籠も印象的です。





先祖である家康公の廟所(東照宮)をしのいではならないという家光公の遺命によって、彩色や彫刻は、控え目に造られましたが、かえってそれが重厚で落ち着いた雰囲気を醸し出しています。





入り口の「仁王門」にはじまり、家光公墓所の入り口に当たる「皇嘉門」(こうかもん)まで、意匠の異なる大小6つの門で、境内が立体的に仕切られており、門をくぐるたびに景色が転換して、あたかも天上界に昇っていくような印象を受けます。





「彩色や彫刻は、控え目に造られました」とあるが、私には「ホンマカイナ」という印象である。皆さんはいかがだろう。それにしても「縁結びの神」は、どこでも強いと思い知った。「日光山」が「二荒山」(そのモトは補陀洛山)ということも、今回初めて知った。

これで「世界遺産 日光の社寺巡り」は、おしまいである。実はこのあと少し時間があったので、鬼怒川温泉まで足を伸ばし、そこで遅めのランチを済ませ、東武線の特急で東京に戻った。鬼怒川温泉では、バブル期まで、団体客を相手に栄華を誇った温泉地の現況をまのあたりにすることになる。それはまた別の日に。
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日光東照宮 世界遺産 日光の社寺巡り(2)

2012年07月10日 | 小さな旅
7/1(日)に訪ねた世界遺産・日光の社寺、日光山輪王寺に続く第2弾は、日光東照宮である。サブタイトルをつけるなら、「ギンギラギンにさりげなく」としたいところである。Wikipedia「日光東照宮」によると、

日光東照宮は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが多い。



東国の精神的中心としての歴史は徳川氏の東照宮よりも遥かに早く、遅くとも源義朝による日光山造営までさかのぼり得る。さらに、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた。徳川氏の東照宮造営はこの歴史を巧みに利用したと考えられる。


陽明門(国宝)。宮中(現 京都御所)正門の名前をいただいたそうだ。トップ写真は本殿側から撮影

沿革
元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡)で死去した。遺命によって遺骸はただちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)、下野国日光に改葬された。同年4月(4月)に社殿が完成し、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、4月17日(5月21日)に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となったが、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。





陽明門には、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻が施されている

寛永11年(1634年)には、9月(9月か10月)に3代将軍・徳川家光が日光社参し、今日見られる荘厳な社殿への大規模改築、すなわち寛永の大造替が、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて着手される。総奉行(日光造営奉行)は秋元泰朝、作事奉行は藤堂高虎、そして普請は、江戸はもとより京・大阪からも集められた宮大工たちが、作事方大棟梁・甲良宗広一門の指揮の下で務めた。この年には江戸に来訪した朝鮮通信使が対馬藩主・宗氏の要請で日光参詣を行っており、将軍家の政治的威光にも利用されている。正保2年(1645年)に朝廷から宮号が授与されて東照社から東照宮に改称した。国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、奉幣使(日光例幣使)が派遣された。


国宝の唐門(からもん)。全体が胡粉(ごふん)で白く塗られ、細かい彫刻が施されている

家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。家康は遺言中に「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」と述べている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、「日本全土の平和の守り神」である。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。


唐門をとりまく透かし塀

明治元年(1869年)の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立した。現在でも、一部の施設について東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中のものがある。1873年(明治6年)に別格官幣社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となっていたが、1985年(昭和60年)に神社本庁を離れて単立神社となった。


重文・神輿舎(しんよしゃ)の正面

社殿に見える動物
日光東照宮を訪ねると様々な建物に多様な動物の木彫像を見ることができる。これらの動物のほとんどは平和を象徴している。眠り猫は踏ん張っていることから、実は家康を護るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしているともいわれているが、もう一つの教えとして、裏で雀が舞っていても「猫も寝るほどの平和」を表しているのである。



ここも、修学旅行生のメッカなのだ

日光東照宮と陰陽道
日光東照宮は、陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北辰(北極星)が来るように造られているという。また、その線を真南に行けば江戸に着くとされ、さらに、主要な建物を線で結ぶと北斗(北斗七星)の配置と寸分違わぬよう設計されているという。


キンキラ・ギラギラをずっと見続けていると、正直シンドくなってくるが、境内で唯一、素木(しらき)造りの建物があった。それが重文の「神厩舎(しんきゅうしゃ)」で、神馬をつなぐ厩(うまや)と、馬を扱う役人の詰め所が一体となっている。「なんだ馬小屋か」と軽んじてはいけない。ここに有名な「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻があった。昔から猿が馬を守るとされていたそうだ。


神厩舎(重要文化財)

東照宮では「平成の大修理」として、あちこちで工事が行われていた。日光東照宮の公式HPによると《日光東照宮の建築に籠められた思想は、神威の昂揚とその記念性・永遠性を以って多くの参詣を受け入れる点にあり、建築意匠の全体を貫く統一的な表現方法において、漆塗・彩色・錺金具などの外装に多くの技術を投入する特徴があります。この建築表現の特性により、精彩を常に維持するために数十年足らずの短い周期での、絶え間ない修理が必要となる建築といえます》。

《平成19年度からは新規事業としていよいよ本殿・石の間・拝殿を始め東西透塀、正面唐門など重要な主社殿の工事が予定されており、平成27年(2015)の御祭神徳川家康公400年式年祭記念事業として平成36年(2024)まで、向こう18年間を『平成の大修理』として長期計画の下での修理事業が予定されています》。なるほど。神威昂揚のためのキンキラ・ギラギラは、維持するのが大変なのだ。

日光は徳川氏が開いたのではなく、早くから東国の宗教的権威の中心地だった。それを徳川氏が利用してその権力を誇示した、というのが真相なのだ。権力は、常に権威を必要とするのである。

さて、世界遺産・日光の社寺(二社一寺)巡り、次回はいよいよ最終回「日光二荒山(ふたらさん)神社」である。お楽しみに!
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日光山輪王寺 世界遺産 日光の社寺めぐり(1)

2012年07月05日 | 小さな旅
7/1(日)、世界遺産「日光の社寺」を訪ねた。前日は下野薬師寺(栃木県下野市)を訪ねたあと、宇都宮泊。宇都宮といえば、餃子である。朝から宇都宮駅東口駅前広場「健太餃子の宇都宮餃子館」の朝食餃子セット(500円)で腹ごしらえ。外はカリッ、具は野菜たっぷりでとてもジューシーだった、これはイケる。さて、めざすは日光である。宇都宮駅から日光へは、JR日光線で45分である。
※トップ写真は、勝道上人(しょうどうしょうにん)像の前の水盤







世界遺産「日光の社寺」は、日光山内(さんない)とか二社一寺(にしゃいちじ)といわれ、日光東照宮、日光二荒山(ふたらさん)神社、日光山輪王寺(にっこうざん りんのうじ)および輪王寺大猷院(たいゆういん)で構成される。これらを回るのに、日光ではバス乗り降り自由の「フリーパス手形」(500円)と「二社一寺共通拝観券」(1,000円)というスグレモノが販売されている。JR日光駅のみどりの窓口で、フリーパス手形を買い、世界遺産めぐり循環バスに乗り込んだ。最初に訪ねたのは日光山輪王寺である。




JR日光駅

日光山輪王寺は、JR日光駅からバスで8分、東武日光駅からはバス7分。「勝道上人像」バス停で降りる。勝道上人(しょうどうしようにん)は、輪王寺を開いた人であり日光山繁栄の基盤を築いた人であると伝える。Wikipedia「勝道」によると《日光山を開山した、奈良時代から平安時代初期にかけての僧。勝道上人と称されることが多い》《少年期から山林修行を行い、762年(天平宝字6年)下野薬師寺の如意僧都に師事して得度受戒した。765年(天平神護元年)には出流山満願寺(栃木市)を開創している。782年(延暦元年)日光山(ニコウ山=二荒山、ふたらさん、男体山)の開山を志し入山、四本龍寺(現輪王寺)を建てる。二荒山神社や輪王寺などにつながる日光山繁栄の源を作った》。


勝道上人像

さて輪王寺(天台宗)である。輪王寺とは日光山中にある寺院群の「総称」である(その点は、比叡山延暦寺と同じである)。だから堂塔は広範囲に散在し、国宝、重要文化財など多数の文化財を所有している。本堂である三仏堂や、徳川家光をまつった大猷院(たいゆういん)霊廟などの古建築も多い。お寺の公式HPによると《明治の頃から日光は輪王寺・東照宮・二荒山神社の三カ所が参詣所とされ、それぞれの境内は、いつも賑わっています。しかし、それ以前は「日光山」としてひとつに包括された関東の一大霊山だったのです》。


あいにく三仏堂は工事中。覆いに絵が描いてあった

《奈良時代の末、勝道上人によって日光山は開かれました。四本龍寺が建てられ、日光(二荒)権現もまつられます。鎌倉時代には将軍家の帰依著しく、鎌倉将軍の護持僧として仕える僧侶が輩出します。この頃には神仏習合が進展し、三山(男体山・女峰山・太郎山)三仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)山社(新宮・滝尾・本宮)を同一視する考えが整い、山岳修行修験道(山伏/やまぶし)が盛んになります。室町時代には、所領十八万石、500におよぶ僧坊が建ちならび、その隆盛を極めます》。



《江戸時代、天海大僧正(慈眼大師/じげんだいし)が住職となり、山王一実神道(天台宗)の教えで「家康公」を東照大権現として日光山に迎えまつります。「輪王寺(りんのうじ)」の称号が天皇家から勅許され、さらに慈眼大師(天海大僧正)・三代将軍「家光」公が新たにまつられ、「日光門主」と呼ばれる輪王寺宮法親王(皇族出身の僧侶)が住し、宗門を管領することになりました。法親王は14代を数え、幕末に及びました。明治になり、神仏分離の荒波を越えて現在の「輪王寺」があるのです》。




上記2枚の写真は、お寺のホームページより拝借

輪王寺の本堂が、三仏堂(さんぶつどう 重文)である。今は「平成の大修理」の最中だが、堂内には入れた。《輪王寺の本堂は日光山随一、東日本では最も大きな木造の建物で、平安時代に創建された、全国でも数少ない天台密教形式のお堂です。現在の建物は、正保2(1645)年、徳川三代将軍「家光」公によって建て替えられました。三仏堂の内陣には、日光三社権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)という三体の大仏さま(高さ8.5メートル)と、東照三社権現本地仏(薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)という掛仏の、2組の三尊仏がご本尊さまとしてお祀りされています》(お寺のHP)。

ご本尊は江戸時代初期の金ピカの仏像であった。三仏堂も、朱色の鮮やかな建物で、このキンキラ・ピカピカが「日光の社寺」の特徴である。素木(しらき)造りの社寺を見慣れた奈良県人の目にはまぶしくて、長くは拝んでいられない。しかしこれは序の口、、キンキラ・ピカピカは東照宮でピークに達する。次回「日光東照宮」編をお楽しみに。
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