tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

魚佐旅館の閉館・廃業に思う 観光地奈良の勝ち残り戦略(67)

2012年12月31日 | 観光地奈良の勝ち残り戦略
昨日(12/30)の当ブログに「魚佐旅館が閉館、150年の歴史に幕」という記事を書き、Facebookにも転載したところ、大きな反響をいただいた。FacebookにはYさん(元編集者)から《修学旅行生の賑やかな声が飛び交っていた歴史ある旅館が閉まるのは残念です》、Tさん(フリーライター)からは《 えー!私の修学旅行思い出の地です。びっくりしました…。残念ですね》、Tさん(旅館経営者)は《金田さんは全旅連青年部時代の友人、非常に残念であり、ご本人も無念の事と察します。形は変わっても何かの形で、「魚佐旅館」がこれからも続くよう、お祈り申し上げます》。

当ブログには、あをによし南都さんから《歴史のある老舗旅館だけに惜しいことです。猪鍋は絶品でしたし、名宝の数々は老舗ならではでした》、クッキーさんからは《私にとって「魚佐旅館」は、いつも当然にそこに存在するものでした。率川にかかる橋から川の中の石の船をのぞけば、右に魚佐旅館、左に猿沢の池。もの心ついたときからという意味では、興福寺の五重塔と同じような存在でした。金田さんとは一度も直接お話をさていただいたことはありませんが、苦しい経営の後の苦渋の決断であったこと、本当に心が痛みます》。

今朝(12/31)の産経新聞社会面(大阪本社版=トップおよびラストの画像)でも報じられ、私のコメントも紹介された。見出しは《奈良の老舗旅館 廃業へ 小泉八雲ゆかり 老朽・経営難で》。

奈良市の猿沢池のそばに建つ老舗旅館「魚佐旅館」が来月3日、約150年の歴史に幕を下ろす。市内最大規模の旅館だったが、価格競争の激化や東日本大震災の影響などで宿泊客が減少し、資金繰りが悪化していた。

魚佐旅館の正確な創業時期は不明だが、「うをや佐平」の屋号で江戸末期の文久2(1862)年の宿帳が残るほか、小泉八雲が宿泊したという資料も。修学旅行生客を中心に経営してきたが、平成7年の阪神大震災前後から客足が減少。22年に奈良市で開かれた「平城遷都1300年祭」で持ち直したもののが、翌年の東日本大震災で再び大きく減少した。

建物老朽化による設備更新の課題も浮上。採算回復の見通しがたたなかったため、今月中旬に閉館を決めた。同旅館の金田充史専務(49)は「先祖代々の旅館を閉めるのは断腸の思いだが、財産があるうちの廃業を決めた」と話している。

奈良観光に詳しい「奈良まほろばソムリエ友の会」の鉄田憲男事務局長(59)は、「奈良を象徴する老舗旅館だった。最近はインターネットで新たな顧客を開拓し、成果が見えていただけに残念」と惜しんだ。



これら2枚の写真は、楽天トラベルより

金田充史さんは、なら燈花会となら瑠璃絵の立ち上げメンバーで、今も熱心に活動されており、メンバーからは「金(かね)やん」と呼ばれ親しまれている。奈良の旅館としてはいち早く「楽天トラベル」と提携し、インターネットによる予約の受付を開始したり、「なら燈花会」では奈良の旅館業者と組み、楽天トラベルのトップ画面に燈花会の画像を貼り、そこからの誘客を図っていた。

猿沢池の真正面にあり、奈良市内では最大規模を誇る。建物は奈良県庁を模したデザインで、奈良のシンボルともいえる旅館だったのに、廃業は残念だ。私もこんな場面でコメントするとは、夢にも思わなかった。その金田さんご自身が昨日、当ブログにコメントを入れて下さった。タイトルは「涙を呑んで…」である。一部を抜粋すると、

張本人です。年の暮れに、お見苦しいザマを見せてしまいました。閉館は、残念至極でした。

阪神・淡路大震災以後、家族で旅館に泊まって楽しもう…というレジャー形態がアウトドアになり、これが終わると格安施設になり、で、形態が全く変わっていきました。で、この後、当館もリストラを進めていきましたが、前年比がそれよりもダウンを続けて、四苦八苦の状態でしたが、2005年程度から、目処が付いて、ナンとか2008年位から黒字を出せる体制になり、目鼻がついた…と思った矢先に3.11で、また沈没状態になりました。

発端は、冬場の運転資金の融資要請からスタートしているのですが、昨年の決算と今年の試算表が、どうしても赤字決算になり、多分・・多分ですが、これで融資が出せない、との見解が出てしまいました。八方、手を尽くしたのですが、新規ではハードルも高く、どうしても段取りはできませんでした。このままでは、冬場の資金ショートは確実なので、税理士とも相談して、決断に至りました。

これ以外にも、設備の修理や改修で建物の維持管理費が、年々増大している事、また、対処療法的な処置しか出来ていないので、同様のトラブルが多々発生し、解決していない事、ウチの子供が、女二人の為に、継がせるには、男子に来て貰わないといけないのですが、今の状態のままでは、どうしても自信を持って継がせられないと感じた事、また、社員も高齢化して、客室係…つまり女中さんを十分確保する事が難しくなった事、等々、いろいろな要因が、背中を押しました。

無論、先祖からの商売でしたので、決断には相当の勇気が必要でした。しかし、先祖は、旅館という業態が儲かる商売で面白く、また地域性も有る、との判断で、子孫にこれを残してやれば安泰であろう、との判断で残してくれたモノと思っていますが、今、これを子孫に残すと、大変なモノ以外のナニものでもありません。

また、法令も年々きつくなり、見えない経費と云うのが、バカにならないのです。例えば、空気環境、水、消防、等々だけでも、年間150万円程度のカネがかかり、こんなのは、宿泊料への転嫁の出来にくいモノです。こんなのは、先祖が考えた時では想定外で、こんなのが、どんどん増えていきます。

先祖から貰った土地を守るには、どうしたら???を考えた結果だと考えてください。若し、続けたかったら、商工ローンや民間融資会社などへ行けば、即日で融資して貰えるでしょうが、こんな事をしても解決にはならないどころか、それこそ破産確実です。無論、債務も残っていますので、これを精算する術が、今後必要になってきます。その事業スキームも考えないといけませんので、今これをじっくり探している所です。

親友の旅館経営者から電話がありました。今までの旅館は…ウチも含めての事ですが、「のれん」があまりにも重すぎて、その重さに耐えられなかった為に、結果として何も残せなかった。しかし、金田は、その「のれん」をいとも簡単に???…簡単じゃ無いぞ!!!下ろしてしまった。で、結果として、土地・建物は残せた。今の奈良の旅館は、同様の事を、皆感じている。皆のれんを守りたいのだけれど、これで苦しんでいる、と申していました。

旅館は、今や、大変な岐路に来ています。これは、自分は、奈良県が、観光都市として成立するか、若しくは住宅地としての機能でしか無いのか、の決断も同時にしないといけない時期にも来ている、とも思っています。私は、まだまだ居ますし、これからは、どこかで働かないといけませんので、今までのノウハウを生かした仕事ができれば、と考えていますので、今後共、よろしくお願いいたします。




産経に「財産があるうちの廃業を決めた」とコメントされていたのは、この「結果として、土地・建物は残せた」ということであろう。金田さんがお書きのポイントを整理すると、

①レジャーの多様化による旅館離れ
②バブル崩壊と東日本大震災のダブルパンチ
③売上げ減による資金繰りの悪化
④建物老朽化に伴うメンテナンス費用の増加
⑤法規制の強化による「見えない経費」の増加
⑥後継者難、社員の高齢化


ということになろう。金田さんのご親友の《「のれん」があまりにも重すぎて、その重さに耐えられなかった為に、結果として何も残せなかった》というのは、「廃業してはならない」とムリして頑張っているうちに累積赤字がどんどん膨らみ、結局、土地も建物も手放さざるを得なかった、という話だろう。旅館業を「家業」として経営しているところが多いから、「先祖代々の生業(なりわい)を自分の代で絶やしてはならない」と、ムリしてしまうのである。

現在、旅館業界は様々な経営問題を抱えている。「旅館業界・日本旅館の現況」(あかつき鑑定法人株式会社のHP)によると

○量の面(市場規模と経営動向)
旅行形態の変化、市場規模の縮小等の影響を受けて、旅館業界は厳しい経営を迫られているところが多い。特にバブル崩壊後、企業関係の旅行関係支出の圧縮、旅行費用の低価格化等の影響を受け価格競争により体力を疲弊した中小旅館が多い。バブル崩壊後、旅館数並びに客室数ともに減少傾向にある。

軒数、客室数ともに減少傾向にある反面、1軒当たりの平均客室数は増加している。これは、中小旅館が減少し、体力に余力がある規模が大きい旅館が生き残っていることを示しているものと思料される。

○旅館経営状況(国土交通省、観光白書より)
旅館にとって、客室利用率も重要であるが定員稼働率はより重視される数値である。旅館の客室は、シングルユースを想定しておらず、団体旅行向けに5人宿泊を前提としている旅館が多い。この客室を2人で使用するのと5人で使用するのとでは、売上高、利益率が圧倒的に違う。定員稼働率が、ここ数年40%弱で推移しているのは、5人部屋を2人程度で宿泊する客が多い(5人×40%=2人)ものと思料される。

○赤字旅館の割合
平成14年 47.3%、平成15年 34.0%、平成16年 39.6%、平成17年 39.9%
景気回復が謳われていた年度にもかかわらず、赤字旅館の割合は、約40%弱という高水準にある。

○質の面
今日、旅館業の代表的な課題を示す4つのキーワードがある。
1.事業再生
高度成長期からバブル期まで、旅館業は旅行代理店との蜜月関係にあったといっても過言ではなかった。旅行代理店の営業力により獲得した企業の団体旅行の受け入れ先として旅館があり、遊行場所としての旅館の大型化が進行した時代であった。この時代、団体旅行の増加による甘い将来予測に基づいて大型の設備投資が盛んに行われた。

バブル崩壊後、企業の団体旅行はなくなり、個人旅行さえも控えられた時代が続いた。バブル期の過重な設備投資が経営に重く圧し掛かってきている。 今日、消費者の旅行需要が団体から個人・小規模グループ化し、売上が思ったように伸びず、過重な債務が経営に暗い影を落として、経営が立ち行かなくなった多数の旅館が問題となっている。

2.旅館商品の差別化
高度成長期後期からバブル期にかけて温泉街・旅館商品を表すキーワードは、遊行の場、和風、数寄屋、おもてなし、温泉、精進料理等であった。日本全国どこに行っても同じ金太郎飴という印象を消費者に植えつけてしまっている。

3.マーケティング
旅館業は、高度成長期から今日まで旅行代理店の送客に営業を依存している。インターネットが発達して、インターネットによる旅行客需要の開拓が叫ばれているが、やっとホームページの開設が緒についた状況にある。自ら温泉街の魅力の情報を発信し、顧客獲得の必要性が叫ばれているが、中々進展していない。旅行代理店への送客手数料が、受注金額の15%程度にもなってしまう状況下では、利益がとれず財務内容の改善も覚束ない。

4.訪日外国人客の受入れ
観光立国の実現に向けたビジットジャパンキャンペーン等の取り組みにより、今後さらに見込まれる訪日外国人旅行者の受け入れのための体制整備が重要な課題である。

「旅行代理店への送客手数料が、受注金額の15%程度にもなってしまう」とあるが、確か金田さんから「20%になることもある」と聞いたことがある。だから金田さんはネットエージェントと組んだのであるが、ある程度の成果は上がったものの、その収益で赤字を埋めるまでには至らなかったのだろう。

特徴のある宿泊プランの提案や、インターネットの利用による手数料負担の軽減は、焦眉の急である。しかし景気の閉塞感が続くなか、日本人の宿泊旅行(回数・日数)は増えないし、結局はパイの取り合いになる(過当競争→価格破壊)。そこで最後の砦として期待のかかるのがインバウンド(訪日外国人客の受入れ)ということになるが、そのためには国を挙げての誘致が必要だし、宿泊施設側の受け入れ体制も整備しなければならない(スタッフへの教育、外国語表示の充実など)。

旅館をとりまく環境は八方ふさがりの状況に見えるが、客室数を減らし高級感を出して成功している例や、逆にB&B(1泊朝食付き)に特化して、多くの外国人観光客を引きつけている事例もある。

奈良県の宿泊者数は全国最下位である(客室稼働率も定員稼働率も、全国最下位)。魚佐旅館の閉館・廃業で、また宿泊者数が減ってしまう。この状況を打開するイノベーター(革新者)よ、来たれ!

※1/21追記
もちいどのセンター街の鹿鳴人さんは、ご自身のブログに、次のように書かれている。《春秋の季節の良いとき、奈良に宿泊しようとすれば、すでに予約でいっぱいということ多いのが現状です。基本的に絶対数は足りていません。一方、奈良市内でも思いつくだけでも修学旅行の中心の旅館ホテルは、ここ十年二十年三十年、住吉旅館など三条通の旅館、ならや、あぶらや旅館、好生館、猿沢ホテル、大文字旅館、都ホテル、魚佐旅館など、閉館しています。有名な日吉館、大和山荘、聖都、ドリームランドホテル、三笠温泉群、や高円山のうえの宿泊施設なども閉館していっています。共済会館やまと、など公営の宿泊施設も減っています》。

《「奈良らしい」宿泊施設が多く提供されるのはとても良いと思います。ただしそれには、それぞれが採算ベースにのるようなビジネスモデルが必要ではではないかと思います。そのビジネスモデルを行政および商工会議所、民間はリードして検討すべきだと思います》。

※1/22追記
金田専務は当ブログの「魚佐旅館は、名門・国学院栃木ラグビー部の定宿だった!」という記事に、以下のとおりコメントされた。《土地・建物は、金田の所有ですが、当館から見える景色は、特定の人々の独占になるのではなく、もっと広く見ていただく必要が有ると思っています。だから、マンションなどは論外。外国人の人々にも見て頂きたいし、無論、日本人が見ても素晴らしい景観だと思っています》。

《で、今後は、この景色をもっと楽しんで頂ける様な業界に来て頂ける様な業種を、行政や関係する会社と共に考えていきたいと思っていますので、また、相談に乗っていただけますよう、よろしくお願いいたします》。

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魚佐旅館が閉館、150年の歴史に幕!(2013Topic)

2012年12月30日 | お知らせ
年末ギリギリになって、悲しい知らせが届いた。奈良の老舗「魚佐旅館」が2013年1月3日に閉館するというのだ。奈良新聞(12/30付)《「魚佐旅館」廃業へ 観光支えた150年に幕》から一部を抜粋すると、
※トップとすぐ下の写真は、魚佐旅館・金田専務のFacebokより

3日に閉館 小泉八雲も宿泊 客足鈍化で決断
猿沢池のほとりで約150年の業歴を誇る老舗旅館「魚佐旅館」(奈良市下御門町、客室数59室)が来年1月3日に閉館することが、29日までに分かった。奈良市内最大規模の旅館として修学旅行生を中心に客を受け入れてきたが、近年の価格競争の激化や東日本大震災の影響などで客足が鈍化。「回復の兆しが見えず、体力のあるうちの廃業を決断した」(同館)。観光業者からは閉館を惜しむ声が上がっている。

東海地方の小学校の修学旅行客や全国高校ラグビー大会の出場校などを誘致し、堅実な経営を続けてきた。だが、バブル経済崩壊後は客足が徐々に鈍った。平城遷都1300年祭時に一時回復したが東日本大震災で再び減少。インターネットの普及に伴う価格競争の激化もあり直近の売上高はピーク時の3分の1に落ちていた。



建物は約2900平方メートルの敷地に鉄筋コンクリート造り(4階建て)と木造(2階建て)の2棟(延べ約3890平方メート)が併設。修学旅行客を最大350人まで収容できる。だが、木造棟は戦後すぐの、鉄筋棟は昭和32年から54年までの建築で老朽化も進んでいた。

4半世紀、同館の経営を支えた金田充史専務(49)は「設備更新も考えたが、建物の高さ規制や採算性などを検証し断念した。先祖代々の業をたたむのは断腸の思い」と話す。営業は1月3日に終了し、15日までに館内の物品整理などを終える。跡地利用は「収益や地域性を考慮し、何らかの事業化を検討している」(金田専務)。

県内184の旅館・ホテル事業者が加盟する県旅館・ホテル生活衛生同業組合によると、魚佐旅館は「市内旅館の客室数で最大規模」としている。吉川義博専務理事は「奈良の観光を支えた老舗旅館の灯が消えるのは寂しい。日本文化の魅力を伝える旅館業者を何とか元気づけたい」と力を込める。



これら2枚は、2007年12月29日、魚佐旅館で撮影。このお鍋は豆板醤でいただいた

魚佐の金田専務とは長いお付き合いなので、いろいろと興味深いお話をお聞きした。「本業は旅館、やってます。しかし、いろんな街中の催事イベントで、スタッフシャツで走り回ってます。大声が聞こえれば、たいてい私です」(FaceBookの「自己紹介」)という元気な人である。

なかでも、かつてご先祖が「暗峠(くらがりとうげ 東大阪市~生駒市)まで大八車を引いて、大阪方面から奈良に来られる旅行客の荷物を預かりに行った」という話が印象に残る。お客は手ぶらで奈良まで歩けるし、旅館は荷物を質に取ることで確実に泊まってもらえるのだ。「大仏商法」などと揶揄されることがあるが、こんな経営努力もされていたのである。金田さんご自身も、楽天トラベルを使って、大手旅行エージェントに頼らない集客の工夫をされていた。


金田家所蔵の二重はそう(はそうは瓦へんに泉)。須恵器の1種で、振るとカラカラと鳴る

最近は旅行の形態が大きく変化している。団体旅行から個人・グループ旅行へという大きな流れがあり、さらに奈良では修学旅行の減少(旅行先の多様化・少子化)が追い打ちをかける。「旅館・日本旅館が直面する課題」(あかつき鑑定法人株式会社のHP)には《現在の旅館は、時代のニーズに対応できず陳腐化した建物・設備により集客力が落ち、価格競争に飲み込まれている。団体客不在で小口化した客と価格下落によるダブルパンチにより利益が出なくなった旅館事業、バブル期に借り入れた借入金の利息さえも支払えないことにより、設備の更新費用のための資金の手配もままならない状況にあるのが今日の旅館業の姿かもしれない》とある。全国各地、旅館経営は大変なのである。

「湯快リゾート」では、大人1人が7,800円(1泊2食付)で泊まれるし、しかも365日同一料金である。こんな価格競争に巻き込まれては、とても採算が取れないだろう。

金田さんは12月3日以降、Facebookに何も投稿されなくなり「体調でも壊されたのだろうか」と心配していたが、その原因が今回の閉館だったのである。このような厳しい環境のなかでの長年にわたる旅館経営は、本当に大変だったことだろう。

金田さん、勇気ある決断でしたね。残務整理がひと区切りつきましたら、また元気な大声を聞かせてください!
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孝女伊麻のふるさと葛城(産経新聞「なら再発見」第11回)

2012年12月30日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版と三重版に好評連載中の「なら再発見」、11回目が昨日(12/29)掲載された。執筆されたのは、奈良検定の最上級資格「奈良まほろばソムリエ」を持つ有志によって構成される「奈良まほろばソムリエ友の会」の田原敏明さんである。お題は「孝女伊麻(いま)」である。

 難波と大和を結ぶ古道の竹内街道と長尾街道は、二上山南東の近鉄南大阪線磐城(いわき)駅(葛城市)近くにある長尾神社前で交差する。
 その昔、三輪山(桜井市)を三重に取り巻き、その尾が当地まで延びる大きなヘビがいたという。三輪明神が頭で、長尾神社はその尾にあたるとの伝説だ。
 長尾街道を南へ数百メートル歩いた葛城市南今市に「孝女伊麻(こうじょいま)旧跡」がある。
 ここが、地元の農夫の娘、孝女伊麻の誕生の地と伝えられ、「孝子(こうし)碑」と彫られた古い石碑が残る。伊麻の事績が忘れられないよう、天保11(1840)年の建立とある。

      *   *   *
 石碑を見つめていると通行途中の女性が、近くの葛城市立磐城小学校に孝女伊麻像が建っていると教えてくれた。警備の人に声をかけ、校舎玄関横の孝女伊麻像を見つけた。昭和42年建立とある。


子供たちにも親しまれている孝女伊麻像=葛城市立磐城小

 伊麻は寛永元(1624)年に農夫の子として生まれた。4歳年下の弟がいた。幼くして母を失い、2人の子連れの継母を迎えた。
 13歳で伊麻は農家、弟は商家の丁稚奉公に。姉弟は一生懸命働き、両親に尽くしたが、継母は家を出てしまう。成人して弟は桶屋を開き結婚したが、伊麻は生涯独身で糸を紡(つむ)いで働き続けた。
 大和で流行した疫痢で父が病にかかり、医者にも見放された。伊麻は父の回復を神仏に祈り続けた。ウナギの肝が病気に効くと聞き、姉弟は川を探したが見つからない。それでも伊麻は看病を続け、ウナギを探した。
 ある夜、台所の水瓶から水が飛び出る音で目を覚ました。瓶の中を見ると大きなウナギが入っていた。父に食べさせると、たちまち全快。残りのウナギを村人に分けて多くの命を救ったとされる。「伊麻の父を思う心が神仏に通じた」と誰もが伊麻に感謝した。

      *   *   *
 この話を聞いた松尾芭蕉も、伊麻のもとを訪ねた。「今回の旅は伊麻に会ったことで充分だ」。芭蕉は友人に手紙を書いたという。伊麻は父が死ぬまで孝行を続け、晩年は仏門に入り名を妙徳(みょうとく)と改め、81歳で亡くなった。
 孝女伊麻は地元では「お伊麻さん」と親しまれている。2月27日の伊麻の命日には、徳をしのぶ法要が旧宅跡で行われる。
 磐城小の児童も参列して拝礼する。明治22年創立以来の行事という。しかも磐城小の校章は、ウナギがいたという水瓶を図案化したものだ。校歌にも「不滅の孝女信じて行かん」の一節がある。
 これからもお伊麻さんは、母親のような慈しみの心で、児童を見守り続けることだろう。(奈良まほろばソムリエ友の会 田原敏明)


文中にあるとおり「孝女伊麻顕彰法要」は、彼女の命日の2月27日に毎年「孝女伊麻旧跡」で行われる。この法要には、磐城小学校と磐城第一・第二保育園の子ども全員が孝女伊麻旧跡にお参りするそうだ。お伊麻さんの親孝行ぶりが、今もこうして受け継がれているというのは素晴らしいことである。田原さん、良いお話を有難うございました!
(来週はお正月のため「なら再発見」は休載となり、次回の掲載は1/12です。)


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奈良酒で乾杯条例 & 奈良酒で乾杯推進会議 を提案します!

2012年12月29日 | 奈良にこだわる
 奈良の銘酒
 山田二良
 京阪奈情報教育出版

12/26(水)、京都市議会は伏見の蔵元を応援するため、「日本酒で乾杯」条例を可決、1月から施行するそうだ。msn産経ニュース(12/26)「市議会が清酒で乾杯呼びかけ 京都、全国初の日本酒普及促進条例可決」によると、

京都市議会は26日、日本酒での乾杯を働きかけるなど、清酒の普及促進に関する条例案を全会一致で可決した。市議会事務局によると、日本酒の利用促進を条例で定めたのは、全国初という。条例は自民党市議団が提出した案の文言の一部を修正した。同市伏見区には20を超える酒蔵があり、全国有数の酒どころとして知られていることから、日本酒による乾杯の習慣を広め、日本酒の普及を通した日本文化の理解促進を目指す。

条例に義務規定はないが、市民らにも取り組みへの協力を求めており、市は、年明けの賀詞交換会などでも、清酒での乾杯を働き掛ける。条例の可決を受け、伏見酒造組合の増田徳兵衛理事長は「全国初の条例案が通り、うれしい。日本、京都の文化である日本酒を世界に発信する一助になれば」と話した。


しまった!これは先を越された。本来は清酒発祥の地であり、今も数々の美味しい日本酒を輩出する奈良の県議会が率先して作るべき条例だったのに…。04年には「日本酒で乾杯推進会議~日本文化のルネッサンスをめざす~」が日本酒造組合中央会の肝いりで発足し、平城遷都1300年の2010年には「奈良大会」が県新公会堂で開催されている。同会議の「趣意書」がふるっている。一部を抜粋すると

 日本酒の教科書
 木村克己
 新星出版社

“最近のニッポン人には日本が足りない”と多くの心ある日本人は、今日の日本、明日の日本に危惧の念を抱いているのではないでしょうか。日本が誇りとすべき伝統的な食文化や伝統芸能、伝承していくべき作法や風習もグローバルスタンダードとか高度情報化社会というものの表面的な形にとらわれて次第に失われていこうとしています。

日常の食生活においてはファストフードなどの新洋食化が進み、長年培われてきた優れた日本人の味覚は後退し、日本の食文化や生活文化はその存立の基礎を失いつつあります。

しかし、一方で、和食や日本酒の海外普及は目を見張るようになりました。欧米では和食や日本酒の評価は年々高まりつつありますが、これも裏を返せば日本の自然と先人の知恵の結晶である日本酒や和食を通して日本文化のよいところが認められているからであり、私どもは日本の素晴らしい文化をしっかりと守り育てていかなければなりません。

私たち日本人は集まって食事をするとき乾杯します。「みなさまのご発展とご健勝を祈念して…」何に向かって祈るのでしょうか。神様、仏様とかを対象とする特別の宗教心ではありません。我々の人知や人間の力を超えたものすべてに対して謙虚に祈るのではないでしょうか。

「日本酒で乾杯!」という言葉を象徴にし、日本の文化のよいところを広く啓蒙していく活動を進めていくことが今程必要な時はありません。この運動は、ひとり日本酒業界による日本酒復権運動を目指すものではありません。象徴的なおこないとしての「日本酒で乾杯!」を通じて、日本文化のルネッサンスを広く国民運動として広げていこうとするものです。


菊司 菩提もと純米酒 2012年醸造 720ml
生駒市小瀬町555
菊司醸造株式会社

同会議の「100人委員会」には、代表の石毛直道氏(国立民族学博物館名誉教授)をはじめ、市川團十郎(歌舞伎俳優)、奥村彪生(伝承料理研究家)、小渕優子(日本酒を愛する女性議員の会幹事長)、小泉武夫(東京農業大学名誉教授)、堺屋太一(作家)、田辺聖子(作家)、野田聖子(日本酒を愛する女性議員の会会長)、橋本聖子(日本酒を愛する女性議員の会副会長)、黛まどか(俳人)などの各界の錚錚(そうそう)たるメンバーが勢揃いしている。

純米酒 貴仙寿 純金箔入 1800ml
奈良市今市町405
奈良豊澤酒造株式会社

私は奈良県議会で「奈良酒で乾杯」条例を制定することと、民間レベルで「奈良酒で乾杯推進会議」を発足させることを提案したい。私は常々「最近の奈良県人には、奈良が足りない」と感じている。「奈良酒で乾杯!」を通じて、奈良の伝統文化・食文化を見直し、これを普及啓蒙していくことが必要と考える。記紀にも万葉にも、日本酒がたくさん登場することだし…。

【シリーズ最高峰の純米吟醸酒は、香り高く非常にスウィートな味わい!】奈良県 梅乃宿酒造 梅乃宿【うめのやど】 純米吟醸 吟(ぎん) 1800ml 純米三酒シリーズ
葛城市東室27
梅乃宿酒造

「“とりあえずビール”派なので、いきなり日本酒はちょっと…」という向きには「乾杯だけ奈良酒で済まし、あとはピールに移っていただいて結構。食事が進んできたところで、奈良酒に戻っていただければ」と申し上げるつもりである。

「初夢にはちと早い」とお叱りを受けそうだが、推進会議など、奈良県酒造組合あたりが動いてくれれば実現性は高い。どなたか、発起人になっていただけませんか?
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蛇にまつわるエトセトラ

2012年12月28日 | 奈良にこだわる
吉野裕子著『蛇 日本の蛇信仰』(講談社学術文庫)を読んで、今も日本人はたくさんの蛇象徴物に囲まれて暮らしていることが分かった。『古事記』を読んでいても、あちこちに蛇が登場する。その代表格といえる「三輪山伝説」をネットで百科(世界大百科事典)から拾ってみる。
※トップ画像は、M/Y/D/S 動物のイラスト集より

三輪山伝説(みわやまでんせつ)

《古事記》《日本書紀》崇神天皇の条にみえる伝説。 《古事記》によると,陶津耳 (すえつみみ) 命の娘活玉依毘売 (いくたまよりびめ)には夜な夜な通う男があってついに身ごもる。 父母が怪しんで男の正体をつきとめるために, 糸巻きに巻いた糸を針に通して男の衣の裾に刺すように娘に教えた。 翌朝見ると糸は戸のかぎ穴から抜け出ており, 糸巻きには 3 巻きだけ残っていた。 そこで糸をたよりに訪ねて行くと美和 (みわ) 山の神の社にたどりついた。 かくて男は美和山の神であり,生まれた子はその神の子であることがわかった。 そして残った三勾 (みわ) (3 巻き) の糸にちなんでその地を〈ミワ〉と名づけた。 この子が三輪氏の祖の意富多多泥古 (おおたたねこ) (大田田根子) であり, 三輪山の神大物主神を斎 (いつ) き祭ったという。

この説話は《日本書紀》では神墓 (はしはか) 伝説 (倭迹迹日百襲姫 (やまとととびももそひめ) 命) として記され, 男の正体は三輪山の蛇とされるが,夜な夜な通う男の正体や生まれた子の父が問題となる伝承は, 《常陸国風土記》の刑時臥 (くれふし) 山伝説や《山城国風土記》逸文に記す賀茂伝説など広く分布するものである。 多くの氏族は祖神との関係を系譜的に物語る伝承を多少なりとももっていたはずで, それには父なる神が処女のもとに寄り来て聖なる子が誕生するという型が一般的であった。 その処女の名がしばしば玉依姫(たまよりひめ) といわれるのも, それが神霊のよりつく巫女を意味したからである。


ネットで百科(世界大百科事典)の「蛇婿入り」には、こんな説が紹介されていた。

蛇婿入り(へびむこいり)

蛇が男になって人間の娘に求婚するという内容をもつ, 異類婚姻譚に属する昔話群の総称。 蛇婿入譚は内容から〈苧環 (おだまき) 型〉〈水乞 (みずこい) 型〉〈蛙報恩型〉に大別される。

〈苧環型〉は,夜中に娘のところに見知らぬ若い男が通ってくるのを怪しんだ親が, 男の着物に糸を通した針を刺させ,男が帰ったあとその糸をたどっていったところ蛇のすみかに至り, そこで蛇の親子の会話を立ち聞きして娘に宿った蛇の子を堕 (おろ) す方法を知る, というものである。 同じ内容の話が古代の神話や伝説にもみえて, 三輪山型神婚説話 (三輪山伝説) と呼ばれている。 古代説話では,蛇との婚姻によって生まれた子どもを神聖視することが強調され, たとえば,豊後の豪族緒方氏 (緒方惟義(おがたこれよし) )の伝承のように, しばしば一族の始祖伝説として語られ, そのような一族の子孫の身体の一部に, そのしるしとしてうろこなどがあると伝えるところもある。 これに対して,昔話の方では蛇との婚姻を忌避することが強調され, 堕胎(だたい) の習俗や端午 (たんご) の節供などと関連させて語られることが多い。

〈水乞型〉の昔話は,干上がった田に水を引いてもらうこととの引きかえに, 3 人の娘のうちの 1 人を蛇の嫁にするという約束をし, 約束どおり末娘を嫁にやるが,嫁入りの途中, 知恵の働く末娘が嫁入道具として持参したヒョウタンと針で蛇を殺す, という内容のものが一般的であるが, 蛇のところに嫁入りしたのち出産のために里帰りし, 蛇の姿で出産しているのをのぞかれて去るという, 豊玉姫(とよたまひめ) 説話との交流をうかがわせる内容をもつものもある。

〈蛙報恩型〉の昔話は〈水乞型〉の変形ともいうべきもので, 通りがかった男が,蛇にのまれそうになった蛙を助けるため, 自分の娘を蛇の嫁にするが,嫁入りする途中娘はヒョウタンと針で蛇婿を殺すという展開になっている。

歴史学的視点に立つ研究者は, 〈苧環型〉では妻訪いが,〈水乞型〉では嫁入りが行われているので, 現実の社会生活における妻訪婚から嫁入婚への婚姻形式の変化が反映されているとみるだけでなく, それによって昔話の成立の時期とその変遷の過程を復元できると考えてきた。 また,蛇などの異類に対する信仰の衰退をみようとすることもなされている。しかし,こうした歴史的解釈だけでなく, 昔話の伝承者たちの異類に対する両義的態度, すなわち,異類との交流を歓迎する気持ちとそれを忌避しようとする気持ちの双方が同時に語られているとも考えることができる。


〈苧環(おだまき)型〉の説明のところに「昔話の方では蛇との婚姻を忌避することが強調され, 堕胎の習俗や端午の節供などと関連させて語られることが多い」とあった(なお「苧環」とは、つむいだ麻糸を巻いて中空の玉にしたもの)。日本国語大辞典の「菖蒲湯」によると《端午の節供に、菖蒲の葉を入れてわかす風呂。邪気を払い、疫病にかからないといわれる。「蛇聟入」などの昔話では、蛇の種を宿した女が菖蒲湯につかると、蛇の子をおろすことができるという》。さらにHP「珍獣の館 今昔かたりぐさ」の菖蒲湯のはじまりによると、

ある娘のところに、毎夜うつくしい男が通ってきました。身なりも言葉づかいも立派で、身分ありげな人でしたが、誰もその人の名前を知らず、どこから来るのかもわかりませんでした。やがて、娘に赤ん坊ができて、日ごとにお腹が大きくなっていきます。娘の母親は娘に糸を通した針を手渡して「これをあの方の着物に刺しておくんだよ」と教えました。

次の朝、男が立ち去ったあとには糸が垂れていました。糸をたぐりながら男のあとをつけてみると、そこは山奥で、男は大きな蛇の本性を出して独り言をいっています。「わしの命も長くない。しかし娘の腹にはわしの子がいる。あの娘が菖蒲湯に入らなければいいが…」

それを聞いた母親は、さっそく娘を菖蒲湯にいれました。すると、娘の腹から蛇の子がダラダラと落ちてきて死んでしまいました。それからというもの、一年に一度、端午の節句には魔よけの菖蒲湯に入るようになったということです。


なるほど、こちらは「蛇との婚姻を忌避することが強調され」たケースである。 野口神社(御所市蛇穴)の汁かけ祭り(藁で10mほどの蛇を作り、子供たちが引きまわし各家を回る)も、杵築神社(田原本町今里)と八坂神社(同町鍵)の蛇(じゃ)巻きも5月5日の端午の節供に行われるのは、蛇神との関係がありそうだ。

奈良県下にもこんな昔話がある。蛇を特集している「月刊大和路 ならら」(2013年1月号)「蛇の嫁取り」(野迫川村出身 野尻とよ子語り 吉川紗代再話)によると

昔、おばあさんが赤ちゃんに、おもてでおしっこさせよったら、蛇がチョロチョロと庭に来るさかいに、その蛇に、「そっち行き。うちの子がおしっこするさかいに。この子が大きぃなったらお嫁にやるから、そっち行きぃ」いうたらね、蛇はチョロチョロと向こうへ行ったんやて。

そしたらある日ぃ、その子が娘さんになった時分に、若いきれいな青年が来るんやて、よなよなと。「娘さんをください」って。「どっから来たんや」て聞いても、名前を聞いても、何もいわへん。毎晩、「娘さんをください」って来るんやて。そで、ある時、お母さんが青年の着物の裾へ、針を通して長い糸をつけておいたんやて。そで、次の朝、その糸をたぐっていったら、大きな岩山に入って行って、そで蛇やってんて。そやから、そんなこというたらいかんいうて、昔からいうねんと。


「どっから来たんや」とか「そで、次の朝」とか「いうたらいかんいうて、昔からいうねんと」という方言がいい味を出している。これは典型的な「苧環(おだまき)型」の昔話で、「蛇との婚姻を忌避することが強調され」たケースである。

蛇にまつわる民俗や伝承はこんなにあるのだ。1月6日(日)には奈良交通のバスツアー「開運!巳の神さま詣で」でガイドを担当するので、お正月休みには、もう少し調べてみることにしたい。
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