tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

なぜ?! 十津川村で「標準語アクセント」/奈良新聞「明風清音」第51回

2021年01月31日 | 明風清音(奈良新聞)
1978年(昭和53年)4月に南都銀行に入行したとき、先輩行員のなかに標準語アクセントを話す人が何人かいた。あとで聞くと十津川村のご出身者だった。「十津川村は、標準語のアクセントなのだ」と知ったが、その理由までは分からなかった。
※トップ写真は果無集落からの眺望、ちょうど雲海が出ていた(2020.11.26撮影)

1991年(平成3年)にABCテレビの「探偵!ナイトスクープ」が「日本全国アホ・バカ分布図」を公表し、話題になった。のちに『全国アホ・バカ分布考 はるかなる言葉の旅路』(太田出版)として出版され、これを読んで初めて柳田国男の「方言周圏論」を知り、「これや!」と思った。

昨年(2020.11.25~26)バスツアーで十津川村を訪ね、久しぶりにこの話を思いだした。奈良県立図書情報館でいろんな書物にも当たったが、もうこれは間違いない。ということで、奈良新聞「明風清音」欄に紹介した。以下に全文を貼っておく。


玉置山から紀伊山地の山々を望む(同日)

十津川式アクセント考
昨年11月、奈良まほろばソムリエの会は今年4月に迎える「設立10周年」を記念したプレイベントとして、十津川村への1泊2日のバスツアーを開催した。参加したメンバーは17人だ。同村出身の郷土史家・杉井辰彦氏のご案内で、初日は歴史民俗資料館など、2日目は果無(はてなし)集落と玉置神社を訪ねた。2日間とも好天に恵まれ、果無集落では雲海まで眺めることができた。村民の皆さんともお話しする機会があり、聞こえてきたのは懐かしい十津川式のアクセントだった。

十津川村では関西弁ではなく、標準語のアクセントで話す。金田一春彦監修・校閲の『全国方言資料』(第8巻へき地・離島編Ⅱ)によると「十津川地域は、方言の村として早くから中央の学界に有名であった。ここの方言のアクセントは、周囲の地方のアクセントと隔絶して、近畿地方のただ中にありながら東京のアクセントとよく似ているのであるから、注意をひくのは当然であった」。

「近畿南部地域にあってアクセントが東京式の方言をかりに“十津川式方言”と呼ぶならば、十津川式方言なるものは、奈良県吉野郡の十津川村・大塔村・天川村・野迫川村・上北山村・下北山村から和歌山県北山村・玉置口村、三重県熊野市の西北部にわたる山岳重畳の地に行われている」。これは不思議な話である。なぜ奥吉野の広い地域で標準語アクセントなのか。調べていくと2つほどの仮説が見つかった。

1つは「関東武士が持ち込んだ」説。南北朝から室町時代、都で多くの争乱があった。足利尊氏と戦った新田義貞軍など関東武士も多く、南へ南へと逃れた落ち武者が十津川村にたどり着き、関東の言葉を広めたというのだ。傍証として、今でも同村には千葉、則本、深瀬など関東系の姓があるという。しかし十津川村だけでなく、奥吉野一帯から和歌山県・三重県の一部まで、村民のアクセントを変えさせるほど広まったということは、相当数の落ち武者が必要になり、どうもこの説はムリだ。

もう1つの仮説は、方言周圏論における「言語島(げんごとう)」説。方言周圏論は、柳田国男が『蝸牛考(かぎゅうこう)』で提唱した説だ。かつて「探偵!ナイトスクープ」(ABCテレビ)が取り上げた「アホ・バカ分布図」を覚えている人もいらっしゃるだろう。のちに『全国アホバカ分布考~はるかなる言葉の旅路~』(新潮文庫)として出版され、今も広く読まれている。

番組の企画で、アホとバカの境界線を調べていくと、京阪奈を中心に同心円状にアホを使う地域が広がっていることが分かった。概ね西は近畿地方と四国東部まで、東は関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)まで。標準語は、貴族などによる新語である関西弁より歴史が古い。奈良時代から平安時代に成立した関西弁が、奈良・京都を中心に、長い時間をかけて同心円状に広がり、それが前述の地域まで広がったところで定着した。

しかし、うまく同心円状に広がらないケースがある。離島だったり険しい山に阻まれて人的交流がなく、たどり着けない地域があり、これを「言語島」(単一の方言の海のなかで、異なった方言の地域が島のように存在しているもの)という。

十津川村およびその周辺は典型的な言語島として、今も標準語アクセントを使い続けているということになり、これは十分納得できる説だ。十津川弁アクセントは言語島におけるアクセントとして、これからも末永く伝えられていくことだろう。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


コメント (3)
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奈良まほろばソムリエと行く!オーダーメイドのウォーキング

2021年01月30日 | お知らせ
一昨日(2021.1.28)「奈良まほろばソムリエと巡る 2021年3~4月 ウォーキング」という記事を当ブログとFacebookに書いたところ、飲食店を営んでおられるOさんという女性から「そうですよね 実施は、やはり土日になりますよね 残念です」というコメントをいただいた。土日はお仕事があるので、なかなか参加できないということのようだ。

しかし、奈良まほろばソムリエの会では上記レディメイドのツアー(土日中心)以外に、「オーダーメイドのツアー」がリクエストできる仕組みがある。好きな日時に気のあった仲間と(またはお1人で)、ランチ場所もお好きなところを選んでいただいて参加できるのである。こちらのHPに詳しい情報が出ている。同会ガイドグループのFacebookによると、

あなたの奈良旅を“オーダーメイド”してみませんか!?行きたい日に、行きたい場所へ。奈良が大好き!!そんな私たちソムリエガイドが、楽しくご案内いたします。行ってみたい場所をリクエストしてください!

もちろん、モデルコースを選んでいただいても、モデルコースのアレンジでもOKです。ツアーでは味わえない、プライベートな奈良旅に出掛けましょう!お一人様から、どうぞお気軽にご相談ください。お申込み・お問い合わせは、こちらのホームページよりお願いいたします。




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奈良まほろばソムリエと巡る 2021年3~4月 ウォーキング、2月1日(月)募集開始!(2021 Topic)

2021年01月28日 | お知らせ

このたび「奈良まほろばソムリエと巡る 2021年 春」のコースが同会のHPで公表された。タイトルは「万葉万華の大和路」。3月と4月の実施分は、2月1日(月)午前8時からこちらの「申し込みフォーム」でお申し込みいただける。同会からの情報(PDF)によると、

奈良まほろばソムリエと巡る 2021 春
万葉万華の大和路


お待たせしました! 今年も始まります 毎年大好評の『大和路』ガイドシリーズ
この春は9コースをご用意しました 纒向遺跡、奈良公園、郡山城跡、明神山、安倍氏本拠地、下ツ道、田原の里、聖徳太子御遠忌、ならまち といった多彩なコースを まほろばソムリエと巡ります ひと味ちがう奈良の一日を奈良ソムリエとともにご堪能ください!

2月1日(月)午前8時より
3~4月実施の3コース(J1~J3)の申込受付が始まります
(残りのコースは 3 月 15 日から受付開始予定です)
詳しい内容は、チラシをご覧ください
申込は『まほろばソムリエと巡る大和路』ツアーのバナーをクリックして下さい


コロナ禍でツアーの中止が相次いでいるなか、十分な対策を取って実施されるツアーである。歩行距離も4~9kmと、楽な行程である。すべて土日の実施なので、ぜひご家族揃ってご参加ください!





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難を逃れた供養塔が残る徳融寺/毎日新聞「やまと百寺参り」第85回

2021年01月27日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。先週(2021.1.21)掲載されたのは「松永久秀の心 石塔に/徳融寺(奈良市)」、執筆されたのは奈良佐保短期大学講師で同会会員の小倉つき子さんだった。小倉さんには『廃寺のみ仏たちは、今』(京阪奈新書)というご著書もある。ならまちの徳融寺は、中将姫ゆかりの寺として知られている。では、記事全文を紹介する。  
※トップ写真は並んで立つ豊成公供養塔(中央)と中将姫供養塔(左)。
危うく多聞城の石垣になるところだった=奈良市鳴川町の徳融寺で

通称「ならまち」に建つ徳融寺(とくゆうじ)や高林寺(こうりんじ)の地は、奈良時代の右大臣・藤原豊成の別宅跡と伝わります。父豊成の後妻から継子(ままこ)いじめを受けた中将姫(ちゅうじょうひめ)が当麻寺で修行し、曼荼羅(まんだら)を織り上げるという「中将姫説話」発祥の地でもあります。徳融寺の観音堂裏に立つ豊成公と中将姫の石塔(鎌倉時代作)は、1677(延宝5)年に高林寺から移されてきたものです。

「戦国の梟雄(きょうゆう)」と称される松永久秀が多聞城(たもんじょう)(奈良市法蓮町)築城の際、墓石などを集めて石垣を造ったと伝えられます。当時高林寺にあった父娘の石塔も持ち去られました。その時、連歌師だった同寺の心前上人(しんぜんしょうにん)が「曳(ひ)き残す花や秋咲く石の竹」と詠み、久秀に石塔の由緒を送りました。

石の竹とは、石塔と石竹(せきちく)をかけた言葉で、石竹はナデシコのこと。冬は雑草同然のナデシコが、秋には花を咲かせるように、荒れ果てた石塔もいずれ供養されるだろうとの意を込めていたのです。久秀は連歌をたしなむ文化人。詩を理解し、石塔を返してきました。おかげで徳融寺で今、父と娘は丁重に供養されているのです。(奈良まほろばソムリエの会会員 小倉つき子)

(宗 派)融通念仏宗
(住 所)奈良市鳴川町25
(電 話)0742・22・3881
(交 通)近鉄奈良駅から徒歩約15分、JR奈良駅から徒歩約25分、またはバス「北京終町」下車すぐ
(拝 観)9時~17時 境内は自由。堂内は要事前予約
(駐車場)有(無料)


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ロウバイ、蝋梅、winter sweet( in 大和文華館)

2021年01月25日 | 奈良にこだわる
昨日(2021.1.24)の小雨の中、大和文華館を訪ねると、庭のロウバイ(蝋梅)がいい感じで咲いていた。香りが良いので、私の最も好きな花の1つである。『世界大百科事典』の「ロウバイ(蝋梅)」によると、



ウメの咲くころ,蜜蠟に似た黄色のかわいい花をつけるロウバイ科の花木。落葉低木で,高さ2~4m。葉は全縁で対生する。早春,葉の展開前に他の花に先立って咲く。





花被片は多数で,萼片から花弁へと連続して区別できない。内花被片は暗紫色,中片は黄色で外片は鱗片状。ソシンロウバイ(素心蠟梅)といって,内片も黄色い品種も栽植されている。



中国原産で,日本には江戸時代初期に入り,18世紀の半ばころに日本あるいは中国からイギリスへ輸出され,winter sweetと呼ばれるようになったという。





「winter sweet」とは、いいネーミングである。去年と違って今年は寒いので、白梅や紅梅はまだ咲き始めだった。もう少し暖かくなったら、また訪ねてみたい。
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