産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、回目の今日(8/31付)は、在原業平がテーマだ。筆者は、NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の西川誠さんである。在原神社(天理市)、業平橋(斑鳩町)に業平道(天理市~八尾市)と、業平ゆかりの地のオンパレードだ。以下、全文を引用する。
平安時代に書かれた「伊勢物語」全125段の多くは「昔、男ありけり」の書き出しで始まる。主人公「男」のモデルとされるのが、在原業平(ありわらのなりひら 825~880年)である。
業平は平城(へいぜい)天皇の孫で、父は阿保(あぼ)親王。歌を詠めば六歌仙に数えられ、容姿は端麗、光源氏のモデルといわれる。こんな男がモテないわけはない。百人一首の「ちはやふる神代もきかず竜田川 からくれなゐに水くくるとは」の歌でも知られる。
伊勢物語の23段には、妻とのなれそめや、愛人・河内姫とのやりとりなどが書かれていて、姫の住む河内高安(現大阪府八尾市)に通った道が「業平道」として現代にも伝わる。
業平の住まい跡とされる在原神社=天理市櫟本町
業平の住まいは、現在の天理市櫟本(いちのもと)町の在原神社がその跡とされていて、幼なじみの妻と遊んだ思い出の井戸も境内に残る。そこから業平道をたどると大和高安(現斑鳩町高安)に着く。この集落はその昔、富の小川村と言ったが、業平が河内高安に通った際に立ち寄っていたので「高安」と呼ばれるようになったそうだ。色男の業平に連れ去られないように村の娘たちは鍋の炭を顔に塗り、醜く装ったという伝承もある。
集落はずれの天満宮には業平を祀る在原神社がある。そこから西へ進むとすぐ富雄川があり、ここに「業平橋」が架かる。幅2メートルほどの狭い橋で、少し南に自動車も通る「新業平橋」が架けられ、橋上には業平道の案内板が掲げられている。
橋を渡ると上宮(じょうぐう)遺跡公園や成福寺(じょうふくじ)があり、周辺は聖徳太子が膳大郎女(かしわでおおいらつめ)と暮らした「葦垣飽波宮(あしがきあくなみのみや)」想定地とされる。
だから、ここは太子道のルートでもある。時代は200年ほど隔たるが、道に名を残す2人の縁が交差する場所だ。
富雄川に架かる「業平橋」=斑鳩町(トップ写真とも)
業平道の想定ルートはこのあたりで2つの説に分かれる。平群からの十三峠越えと、勢野からの竜田越えだが、どちらにしても、目的地は1つだ。当時なら決して近くない距離だが、八百夜も通ったという説もある。
そんな激しい恋も突然終わりを告げる。伊勢物語には「手ずから飯匙(いいがい)をとりて 笥子(けこ)のうつわものに盛り付けるをみて」、つまり通い始めた頃は淑(しと)やかで、ご飯を侍従によそってもらっていたが、このごろは自分でよそい、大きな器で食べている。そんな姿を見て恋もさめてしまい通わなくなったということだ。
ただし説話は様々に伝え、こんな話もある。ある夜姫の家に着き呼んだが出てこないので、中を覗くと姫がしゃもじで直かにご飯を食べているのを見てしまい、嫌になって逃げ帰る。気づいた姫は必死で追いかける。怖くなった業平は井戸の横にある木に登って身を隠した。追いついた姫は井戸水に映った業平に抱き着こうとして転落し、溺れ死んでしまったということだ。
その井戸が「業平姿見の井戸」として、斑鳩町役場向かい側の五百井戸など数か所に伝えられている。
業平の伝説をしのび、この道をたどるのも面白いだろう。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 西川誠)
伊勢物語の23段の話は「筒井筒」(丸い井戸の竹垣のこと)と呼ばれる。この話を世阿弥は能「井筒」に仕立てた。業平ゆかりの寺は、奈良市にある。『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』(山と渓谷社刊)の「不退寺(奈良市法蓮町)」によると、
正式には不退転法輪寺。平城天皇が仮住まいした「萱の御所」が阿保親王と子の在原業平に伝えられ、業平が仁明天皇の勅命により自作の観世音像を祀ったことに始まるという。鎌倉時代の正和六年(一三一七)に南門と多宝塔が建てられたが、寛正五年(一四六四)にいずれかの堂宇が焼失した。
本堂・南門・多宝塔、再建された本堂はいずれも重要文化財、本堂前に鎌倉時代の梵字四面角塔婆が立つ。裏山の墓地にある鎌倉時代の五輪塔は、在原業平の供養塔であるとの伝承もある。
今、NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」では、万葉集ゆかりの地を訪ねるバスツアーを行っている。9月14日(土)と23日(月・祝)には「宇陀コース」を実施する。六歌仙の1人で奈良にゆかりのある在原業平の歌などのゆかり地めぐりも、面白いかも知れない。私も暑さが和らげば、業平道を歩いてみたいと思っている。
西川さん、興味深いお話を有難うございました!
平安時代に書かれた「伊勢物語」全125段の多くは「昔、男ありけり」の書き出しで始まる。主人公「男」のモデルとされるのが、在原業平(ありわらのなりひら 825~880年)である。
業平は平城(へいぜい)天皇の孫で、父は阿保(あぼ)親王。歌を詠めば六歌仙に数えられ、容姿は端麗、光源氏のモデルといわれる。こんな男がモテないわけはない。百人一首の「ちはやふる神代もきかず竜田川 からくれなゐに水くくるとは」の歌でも知られる。
伊勢物語の23段には、妻とのなれそめや、愛人・河内姫とのやりとりなどが書かれていて、姫の住む河内高安(現大阪府八尾市)に通った道が「業平道」として現代にも伝わる。
業平の住まい跡とされる在原神社=天理市櫟本町
業平の住まいは、現在の天理市櫟本(いちのもと)町の在原神社がその跡とされていて、幼なじみの妻と遊んだ思い出の井戸も境内に残る。そこから業平道をたどると大和高安(現斑鳩町高安)に着く。この集落はその昔、富の小川村と言ったが、業平が河内高安に通った際に立ち寄っていたので「高安」と呼ばれるようになったそうだ。色男の業平に連れ去られないように村の娘たちは鍋の炭を顔に塗り、醜く装ったという伝承もある。
集落はずれの天満宮には業平を祀る在原神社がある。そこから西へ進むとすぐ富雄川があり、ここに「業平橋」が架かる。幅2メートルほどの狭い橋で、少し南に自動車も通る「新業平橋」が架けられ、橋上には業平道の案内板が掲げられている。
橋を渡ると上宮(じょうぐう)遺跡公園や成福寺(じょうふくじ)があり、周辺は聖徳太子が膳大郎女(かしわでおおいらつめ)と暮らした「葦垣飽波宮(あしがきあくなみのみや)」想定地とされる。
だから、ここは太子道のルートでもある。時代は200年ほど隔たるが、道に名を残す2人の縁が交差する場所だ。
富雄川に架かる「業平橋」=斑鳩町(トップ写真とも)
業平道の想定ルートはこのあたりで2つの説に分かれる。平群からの十三峠越えと、勢野からの竜田越えだが、どちらにしても、目的地は1つだ。当時なら決して近くない距離だが、八百夜も通ったという説もある。
そんな激しい恋も突然終わりを告げる。伊勢物語には「手ずから飯匙(いいがい)をとりて 笥子(けこ)のうつわものに盛り付けるをみて」、つまり通い始めた頃は淑(しと)やかで、ご飯を侍従によそってもらっていたが、このごろは自分でよそい、大きな器で食べている。そんな姿を見て恋もさめてしまい通わなくなったということだ。
ただし説話は様々に伝え、こんな話もある。ある夜姫の家に着き呼んだが出てこないので、中を覗くと姫がしゃもじで直かにご飯を食べているのを見てしまい、嫌になって逃げ帰る。気づいた姫は必死で追いかける。怖くなった業平は井戸の横にある木に登って身を隠した。追いついた姫は井戸水に映った業平に抱き着こうとして転落し、溺れ死んでしまったということだ。
その井戸が「業平姿見の井戸」として、斑鳩町役場向かい側の五百井戸など数か所に伝えられている。
業平の伝説をしのび、この道をたどるのも面白いだろう。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 西川誠)
伊勢物語の23段の話は「筒井筒」(丸い井戸の竹垣のこと)と呼ばれる。この話を世阿弥は能「井筒」に仕立てた。業平ゆかりの寺は、奈良市にある。『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』(山と渓谷社刊)の「不退寺(奈良市法蓮町)」によると、
正式には不退転法輪寺。平城天皇が仮住まいした「萱の御所」が阿保親王と子の在原業平に伝えられ、業平が仁明天皇の勅命により自作の観世音像を祀ったことに始まるという。鎌倉時代の正和六年(一三一七)に南門と多宝塔が建てられたが、寛正五年(一四六四)にいずれかの堂宇が焼失した。
本堂・南門・多宝塔、再建された本堂はいずれも重要文化財、本堂前に鎌倉時代の梵字四面角塔婆が立つ。裏山の墓地にある鎌倉時代の五輪塔は、在原業平の供養塔であるとの伝承もある。
今、NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」では、万葉集ゆかりの地を訪ねるバスツアーを行っている。9月14日(土)と23日(月・祝)には「宇陀コース」を実施する。六歌仙の1人で奈良にゆかりのある在原業平の歌などのゆかり地めぐりも、面白いかも知れない。私も暑さが和らげば、業平道を歩いてみたいと思っている。
西川さん、興味深いお話を有難うございました!