tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

平成7年に結成された「談山雅楽会」、談山神社に雅楽を奉納/毎日新聞「ディスカバー!奈良」最終回

2019年04月02日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。この連載は2017年(平成29年)1月12日にスタートしたが、第108回の2019年(平成31年)3月28日付をもって終了することとなった。4月4日(木)からは新連載「やまと百寺参り」がスタートする予定だ。
※トップ写真は「奈良・桜井の歴史と社会」から拝借

さて最終回となった今回は「神事支える雅楽会/桜井市の談山(たんざん)神社」、筆者は同会副理事長で談山神社総代の雑賀耕三郎さんである。今回の「談山雅楽会」の話は、雑賀さんのブログ「奈良・桜井の歴史と社会」に詳しく紹介されている。


以下の2枚は今回の記事から拝借した

1995年(平成7年)、談山神社からの呼びかけで始まり、今年で24年目になる。同神社での雅楽奉仕は年6回。ほかにも年4回程度の出張奉仕がある。雅楽会は入会を常時受け付けている。参加条件はなく、会費は無料。練習は原則第2・第4土曜日の午後、談山神社境内で行っているそうだ。では、記事全文を紹介する。


神廟拝所壁画「太鼓を打つ天女」

談山神社(桜井市)の神廟拝所(しんびょうはいしょ)の上部欄干の壁画には天女が笙(しょう)、鼓(つづみ)・太鼓などで雅楽を演奏し、軽やかに舞う姿が描かれています。その神事を雅楽で支えているのは談山雅楽会です。20年以上前、音楽の同好者が集まって雅楽会を結成し、その後も練習を重ねて雅楽の奉仕を務めています。

雅楽会の松本永二郎さんは「神事では奏者が初めに入場し、その姿を見て参列者が姿勢を正して、緊張感が共有されます、音楽が好きな神様に喜んでいただきながら、神事を支えるのが雅楽です」と語ります。談山神社に限らず、各社の四季折々の神事には雅楽の伴奏がつきものです。雅楽の調べにも耳を傾け、心をこめた参列をされてはいかがでしょうか。

■メモ JR・近鉄桜井駅南口からバス25分(奈良まほろばソムリエの会副理事長 雑賀耕三郎)。


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藤ノ木古墳出土品のレプリカがずらり!斑鳩文化財センター/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第107回

2019年03月28日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。先週(3/21)掲載された「藤ノ木古墳出土の複製品/斑鳩文化財センター」を紹介する。筆者は私である。なおこの連載は今月末で終了し、4月からは県下の寺院を紹介する「やまと百寺参り」がスタートする。

斑鳩文化財センター(正式名称:斑鳩町文化財活用センター)は、国史跡「藤ノ木古墳」のガイダンス施設として、また町内の文化財の調査、研究、情報発信の拠点として、2010年にオープンしました。建物前には、朱色に塗られた藤ノ木古墳石棺の実物大レプリカがあります。展示室では、古墳から出土した代表的な副葬品のレプリカの常設展示が行われているほか、映像ホールでは、古墳や町の歴史や文化について分かりやすく学ぶことができます。

とりわけ世界でも類例のないほど優美な金銅製鞍(くら)金具は、精緻な文様まで間近に見られるよう、工夫がなされています。質問には、ガイドさんや職員さんが親切に答えてくださいます。藤ノ木古墳をはじめとする町内散策とあわせて、お訪ねください。

■メモ■ JR王寺駅または近鉄筒井駅から奈良交通バス「斑鳩町役場」下車、北へ徒歩約3分。またはJR法隆寺駅から奈良交通バス「法隆寺参道」下車、西へ徒歩約6分(奈良まほろばソムリエの会専務理事 鉄田憲男)。


私は昨年、斑鳩文化財センターを初めて知った。藤ノ木古墳出土品のレプリカがずらりと並び、映像も見ることができる。しかも入館無料(定休日=水曜日)。藤ノ木古墳から歩いてすぐの場所なので、ぜひあわせてお訪ねください!


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近鉄新ノ口駅前「冥途の飛脚」石碑&善福寺「供養碑」/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第106回

2019年03月19日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。先週(3/14)掲載されたのは《梅川と忠兵衛の恋物語/橿原市の「冥途の飛脚」石碑」》、筆者は同会理事で北葛城郡広陵町出身・在住の大山恵功(よしのり)さん。
※トップ写真は「冥途の飛脚」石碑(写真はいずれも橿原市で)

近松門左衛門の名作「冥途の飛脚(めいどのひきゃく)」はよくご存じと思うが、『日本大百科全書』からあらすじを拾っておく。

当時実在した飛脚屋の為替金拐帯(かいたい=持ち逃げ)事件に基づく「梅川忠兵衛」の情話を脚色したもの。大坂・淡路町の飛脚問屋亀屋の養子忠兵衛は、新町槌屋(つちや)の遊女梅川となじみを重ね金に窮し、友人の丹波屋八右衛門に借金50両を融通してもらう。

八右衛門は忠兵衛の将来を案じ、新町の揚屋で遊女たちに一件を披露し、廓から彼を遠ざけようとする。しかし、偶然廓に来て立ち聞きした忠兵衛は、かっとなり侍屋敷に届けるべき為替金の封印を切って、50両を八右衛門にたたきつけ、残りの金で梅川を身請けする。

忠兵衛は梅川とともに故郷新口村(にのくちむら)へ落ち延び、実父孫右衛門によそながら対面し、裏道から逃げようとしたが途中で捕らえられる。激情型の忠兵衛と可憐な遊女梅川との情愛を細やかに描いた名作。


では以下に記事全文を紹介する。


善福寺の「忠兵衛供養碑」

橿原市新口(にのくち)町にある近鉄橿原線新ノ口駅の西側に「新口村雪の別れ」と書かれた石碑があります。新口村は江戸時代の文豪「近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)」の人形浄瑠璃(文楽)の代表作「冥途の飛脚(めいどのひきゃく)」の主人公・忠兵衛の生まれ故郷です。大坂・淡路町の飛脚問屋亀屋へ養子に行った忠兵衛と、遊女梅川との実話に基づく悲恋物語です。

忠兵衛は遊郭で、その場の勢いから武家屋敷に届ける300両(現在の約3000万円)で梅川の身請けをしてしまいます。梅川と奈良の旅籠(はたご)屋や三輪の茶屋などを転々と逃亡し、新口村にたどり着きます。やがて捕まった忠兵衛は処刑され、梅川は生涯、忠兵衛を弔ったそうです。善福寺にある忠兵衛供養碑は、1883(明治16)年に忠兵衛屋敷跡から移したものといわれています。

■メモ 「冥途の飛脚」石碑は近鉄新ノ口駅西出口すぐ。善福寺へは新ノ口駅西出口から北へ徒歩約5分(奈良まほろばソムリエの会理事 大山恵功)。


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奈良市埋蔵文化財調査センター、市民が参加できる講座も/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第105回

2019年03月16日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。3月7日付で掲載されたのは「市民参加の考古学/奈良市埋蔵文化財調査センター」、筆者は同会理事の石田一雄さんだ。
※トップ写真は奈良市埋蔵文化財調査センターの展示室

奈良市埋蔵文化財調査センターのHPには《[業務]〇埋蔵文化財発掘調査〇発掘調査で出土した遺物の整理作業・保管〇市民向けの普及啓発活動》とあり、「市民向けの普及啓発活動」が入っているところがユニークだ。では記事全文を紹介する。


奈良市埋蔵文化財調査センター外観

奈良市には、平城宮跡をはじめ、積み重なった歴史と文化を物語る貴重な埋蔵文化財が数多く残されています。市における埋蔵文化財の発掘および調査、研究、出土品の整理、保存や活用を図る拠点施設として、1983(昭和58)年に設置されたのが、奈良市埋蔵文化財調査センターです。

センター内の展示室では、発掘品の常設展示や特別展が行われています(土日祝日は原則休み)。質問があれば、隣にある事務所の職員の皆さんが気さくに答えてくれます。ユニークなのは、積極的に市民参加の事業を行っていることです。

最近では、史跡大安寺旧境内や富雄丸山古墳など実際の遺跡で市民発掘体験が行われました。市民考古学講座も10年以上継続して開催され、修了生がボランティアの市民サポーターとして、発掘体験のサポートや出土遺物の洗浄などを行っています。皆さんも参加されてみてはいかがでしょうか。

■メモ 近鉄奈良駅・新大宮駅からバス 28系統「恋の窪町」行き「大安寺西2丁目」下車すぐ(奈良まほろばソムリエの会理事 石田一雄)。


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東大寺を再興した重源上人の墓、三笠霊園に隣接した高台に/毎日新聞奈良版「ディスカバー!奈良」第104回

2019年03月14日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、「ディスカバー!奈良」を連載している。2月28日(木)に掲載されたのは「高台から町を一望/奈良市の重源上人の墓」、執筆者は同会理事の松森重博さん。このお墓、私もお参りしたことがあるが、やや場所が分かりにくい。苦労して探し当てたことが松森さんのブログに載っているので、参考にしていただきたい。それにしても重源上人とはスゴイ人である。『日本大百科全書』によると、

重源 ちょうげん[1121―1206]
鎌倉初期の浄土宗の僧。俊乗房と号する。紀季重(きのすえしげ)の子で、重定(しげさだ)と称した。1133年(長承2)醍醐寺で出家し、密教を学ぶ。また高野山に登り、法然(源空)に就いて浄土教を研究するとともに、大峯、熊野、御嶽(おんたけ)、葛城など深山幽谷を跋渉(ばっしょう)して修行した。1167年(仁安2)入宋(にっそう)、栄西とともに天台山に登り、浄土五祖像を請来する。

1181年(養和1)造東大寺大勧進職となり、南無阿弥陀仏と号し、広く諸国を勧化(かんげ)して、建永(けんえい)元年6月5日に86歳で没するまで、平氏焼討ち後の東大寺復興の造営にあたった。その間、再三にわたり入宋するとともに、1191年(建久2)には法然を東大寺に招き、南都諸宗の学匠に浄土三部経の講義を開いたという。

また周防(山口県)阿弥陀寺、播磨(兵庫県)浄土寺、伊賀(三重県)新大仏寺をはじめ、各地に堂宇を建立するとともに、備前(岡山県)の船坂山を開き、播磨の魚住泊(うおずみのとまり)の修築、摂津(大阪府)渡辺橋・長柄(ながら)橋などの架橋、河内(かわち)(大阪府)狭山(さやま)池の改修、湯屋(ゆや)の勧進を行うなど、西大寺の叡尊(えいぞん)、極楽寺の忍性(にんしょう)に劣らず社会救済事業に尽くした。


1181年に造東大寺大勧進職になったということは、すでに60歳。この時代の60歳は相当の高齢者だ。それなのに何度も中国(宋)に渡ったり、お寺の造営やインフラ整備に尽力したというのだから、まさにスーパーマンである。ではそろそろ松森さんの記事全文を紹介する。

東大寺は創建以来、何度も火災に遭い、特に1180年の平重衡の南都焼討では大仏殿を含む多くの伽藍が炎上しました。それを目の当たりにした重源上人は諸国を回って再建の勧進をし、幾多の困難を克服して鎌倉時代に大仏殿を再建されました。運慶作とされる写実彫刻の傑作、国宝の重源上人像は東大寺鐘楼の近くの俊乗堂に安置されていて、展覧会などにもよくお出ましになられます。

ところで、重源上人のお墓はどこにあるのでしょうか。自らが開祖である北御門町の五劫院のすぐ東の道を北へ行き、右手にある三笠霊苑の急坂を登り、やや平坦になった辺りに東大寺の僧侶のお墓が並んでいます。その五輪塔のひとつが重源上人のお墓です。奈良の町を眼下に見るとても見晴らしの良いところです。

■メモ JR・近鉄奈良駅より奈良交通バス 青山住宅方面行き「今在家」下車、徒歩3分で五劫院、墓はさらに徒歩15分ほど(奈良まほろばソムリエの会理事 松森重博)。


お墓への登り坂はキツいが、ゆっくり歩けば大丈夫。ぜひお参りしてください!

コメント (2)
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