昨日(11/2)に引き続き、奈良新聞「明風清音」に寄稿した記事を紹介する。10/30(木)、〈中曽司の「喫茶文化」〉という文章を寄稿した。NPO法人「奈良の食文化研究会」が主催した「中曽司の挽き茶体験会」の紹介である。
※写真はすべて、挽き茶体験会(9/29)で撮影した
江戸時代初期から続くという中曽司の挽き茶は、全国的にも珍しい風習(喫茶法)だ。挨拶に立った橿原市長の亀田忠彦さんは、「市長応接室でも、挽き茶を提供したいと考えている」と語った。では、全文を紹介する。
中曽司の「喫茶文化」
得がたい経験をした。9月29日(日)、橿原市中曽司(なかぞし)町の本町会館で、「中曽司の挽(ひ)き茶体験会」が開催された。主催はNPO法人「奈良の食文化研究会」(木村隆志理事長)。昨年に引き続いての開催だが、私は初体験だった。
会館は、神武天皇を祀(まつ)る磐余(いわれ)神社の境内にある。中和幹線を走っていると、北の道路際に鬱蒼(うっそう)とした森が見えてくるが、これが同神社の鎮守の森だ。1816(文化13)年の『大和国高取領風俗問状答』には、〈磐余神社は式外なれども大社にて(中略)村内に茶園あり、茶を摘製し、家毎に茶を点ず〉とある。
もとは一乗院門跡領(興福寺の荘園)で、環濠(かんごう)集落だった。中曽司町には「中曽司遺跡」という弥生時代から古墳時代前期の遺跡があり、土器、石器、鍬(くわ)・杵(きね)などの木製品が大量に出土している。古くから栄えた村落だったようだ。
「挽き茶」とは、石臼で挽いた粉末茶のこと。茶道の抹茶は被覆栽培した碾茶(てんちゃ)を挽いたものだが、ここでは自家製の煎茶やほうじ茶を挽く。挽いた茶は、手製のささら型の茶筅(ちゃせん)で泡立て、塩を少し加える。そこにきりこ(あられ)を載せ、茶の子(おかず、お茶請け)を添えていただく。
この日の茶の子は、自治会婦人部の皆さんが作ってくださった「里芋とこんにゃく」「ひじきと油揚げ」「ささげ豆」のそれぞれの煮物の三品だった。いずれも素朴で飽きの来ない家庭料理で、おいしくいただいた。挽き茶の会は、主に女性たちが井戸端会議のように、おしゃべりしながら楽しんだようである。まさに、「日常茶飯」のリフレッシュだったのである。
このような喫茶法のことを「振り茶」という。奈良県内では唯一、中曽司町で継承されているが、他県でもバタバタ茶(富山県)、ボテボテ茶(島根県)、ボテ茶(香川県)、ブクブク茶(沖縄県)などが残る。
中曽司では、古くから住民の庭や畑で茶が栽培されていた。5月になると新芽を摘み、蒸篭(せいろ)で蒸す。それを筵(むしろ)の上に広げ、両手で押しつけるように揉(も)む。あとは天日で数日間干し、茶壺で保存する。
飲むときに石臼で挽くが、そのまま挽くと緑色の煎茶、挽く前に焙烙(ほうらく)で焙じると、茶色のほうじ茶となる。私はどちらもいただいた。煎茶は、ほぼ茶道の抹茶の味で、ほうじ茶はコーヒーのようにほろ苦く香ばしい。どちらも挽きたてをいただいたので、香りが立って、とてもおいしかった。
かつては冠婚葬祭や法事のときなどに頻繁に茶会を開いたそうだが、春と秋の年2回は、「大茶(おおちゃ)」といって各家庭で長時間の茶話会を催し、住民を招き合ってお茶を楽しんだという。
このような喫茶文化が、茶どころとして知られる大和高原や吉野郡大淀町ではなく、中曽司町に残っていることが不思議だったが、自給自足的にお茶を自家栽培し、これを収穫して楽しむという庶民文化は、商業的農業の現場では、かえって生まれにくいのかも知れない。
しかも中曽司は環濠集落だったので、もともと住民同士の人間関係が濃密だ。お茶を介して、意思疎通を一層深めたのだろう。実際、中曽司には長寿のお年寄りが多いそうだが、これもコミュニケーションの賜物なのだろう。コロナの渦中、人間関係が疎遠になり、メンタルヘルスが不調になる人が増えたというニュースがあったが、ここではそんな心配もなさそうだ。
いにしえから伝わる貴重な喫茶文化、子々孫々にまで継承していただきたいと願う。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
※写真はすべて、挽き茶体験会(9/29)で撮影した
江戸時代初期から続くという中曽司の挽き茶は、全国的にも珍しい風習(喫茶法)だ。挨拶に立った橿原市長の亀田忠彦さんは、「市長応接室でも、挽き茶を提供したいと考えている」と語った。では、全文を紹介する。
中曽司の「喫茶文化」
得がたい経験をした。9月29日(日)、橿原市中曽司(なかぞし)町の本町会館で、「中曽司の挽(ひ)き茶体験会」が開催された。主催はNPO法人「奈良の食文化研究会」(木村隆志理事長)。昨年に引き続いての開催だが、私は初体験だった。
会館は、神武天皇を祀(まつ)る磐余(いわれ)神社の境内にある。中和幹線を走っていると、北の道路際に鬱蒼(うっそう)とした森が見えてくるが、これが同神社の鎮守の森だ。1816(文化13)年の『大和国高取領風俗問状答』には、〈磐余神社は式外なれども大社にて(中略)村内に茶園あり、茶を摘製し、家毎に茶を点ず〉とある。
もとは一乗院門跡領(興福寺の荘園)で、環濠(かんごう)集落だった。中曽司町には「中曽司遺跡」という弥生時代から古墳時代前期の遺跡があり、土器、石器、鍬(くわ)・杵(きね)などの木製品が大量に出土している。古くから栄えた村落だったようだ。
「挽き茶」とは、石臼で挽いた粉末茶のこと。茶道の抹茶は被覆栽培した碾茶(てんちゃ)を挽いたものだが、ここでは自家製の煎茶やほうじ茶を挽く。挽いた茶は、手製のささら型の茶筅(ちゃせん)で泡立て、塩を少し加える。そこにきりこ(あられ)を載せ、茶の子(おかず、お茶請け)を添えていただく。
この日の茶の子は、自治会婦人部の皆さんが作ってくださった「里芋とこんにゃく」「ひじきと油揚げ」「ささげ豆」のそれぞれの煮物の三品だった。いずれも素朴で飽きの来ない家庭料理で、おいしくいただいた。挽き茶の会は、主に女性たちが井戸端会議のように、おしゃべりしながら楽しんだようである。まさに、「日常茶飯」のリフレッシュだったのである。
このような喫茶法のことを「振り茶」という。奈良県内では唯一、中曽司町で継承されているが、他県でもバタバタ茶(富山県)、ボテボテ茶(島根県)、ボテ茶(香川県)、ブクブク茶(沖縄県)などが残る。
中曽司では、古くから住民の庭や畑で茶が栽培されていた。5月になると新芽を摘み、蒸篭(せいろ)で蒸す。それを筵(むしろ)の上に広げ、両手で押しつけるように揉(も)む。あとは天日で数日間干し、茶壺で保存する。
飲むときに石臼で挽くが、そのまま挽くと緑色の煎茶、挽く前に焙烙(ほうらく)で焙じると、茶色のほうじ茶となる。私はどちらもいただいた。煎茶は、ほぼ茶道の抹茶の味で、ほうじ茶はコーヒーのようにほろ苦く香ばしい。どちらも挽きたてをいただいたので、香りが立って、とてもおいしかった。
かつては冠婚葬祭や法事のときなどに頻繁に茶会を開いたそうだが、春と秋の年2回は、「大茶(おおちゃ)」といって各家庭で長時間の茶話会を催し、住民を招き合ってお茶を楽しんだという。
このような喫茶文化が、茶どころとして知られる大和高原や吉野郡大淀町ではなく、中曽司町に残っていることが不思議だったが、自給自足的にお茶を自家栽培し、これを収穫して楽しむという庶民文化は、商業的農業の現場では、かえって生まれにくいのかも知れない。
しかも中曽司は環濠集落だったので、もともと住民同士の人間関係が濃密だ。お茶を介して、意思疎通を一層深めたのだろう。実際、中曽司には長寿のお年寄りが多いそうだが、これもコミュニケーションの賜物なのだろう。コロナの渦中、人間関係が疎遠になり、メンタルヘルスが不調になる人が増えたというニュースがあったが、ここではそんな心配もなさそうだ。
いにしえから伝わる貴重な喫茶文化、子々孫々にまで継承していただきたいと願う。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)