tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

中曽司(なかぞし)町(橿原市)に伝わる喫茶文化「挽(ひ)き茶」

2024年11月03日 | 明風清音(奈良新聞)
昨日(11/2)に引き続き、奈良新聞「明風清音」に寄稿した記事を紹介する。10/30(木)、〈中曽司の「喫茶文化」〉という文章を寄稿した。NPO法人「奈良の食文化研究会」が主催した「中曽司の挽き茶体験会」の紹介である。
※写真はすべて、挽き茶体験会(9/29)で撮影した

江戸時代初期から続くという中曽司の挽き茶は、全国的にも珍しい風習(喫茶法)だ。挨拶に立った橿原市長の亀田忠彦さんは、「市長応接室でも、挽き茶を提供したいと考えている」と語った。では、全文を紹介する。



中曽司の「喫茶文化」
得がたい経験をした。9月29日(日)、橿原市中曽司(なかぞし)町の本町会館で、「中曽司の挽(ひ)き茶体験会」が開催された。主催はNPO法人「奈良の食文化研究会」(木村隆志理事長)。昨年に引き続いての開催だが、私は初体験だった。

会館は、神武天皇を祀(まつ)る磐余(いわれ)神社の境内にある。中和幹線を走っていると、北の道路際に鬱蒼(うっそう)とした森が見えてくるが、これが同神社の鎮守の森だ。1816(文化13)年の『大和国高取領風俗問状答』には、〈磐余神社は式外なれども大社にて(中略)村内に茶園あり、茶を摘製し、家毎に茶を点ず〉とある。

もとは一乗院門跡領(興福寺の荘園)で、環濠(かんごう)集落だった。中曽司町には「中曽司遺跡」という弥生時代から古墳時代前期の遺跡があり、土器、石器、鍬(くわ)・杵(きね)などの木製品が大量に出土している。古くから栄えた村落だったようだ。

「挽き茶」とは、石臼で挽いた粉末茶のこと。茶道の抹茶は被覆栽培した碾茶(てんちゃ)を挽いたものだが、ここでは自家製の煎茶やほうじ茶を挽く。挽いた茶は、手製のささら型の茶筅(ちゃせん)で泡立て、塩を少し加える。そこにきりこ(あられ)を載せ、茶の子(おかず、お茶請け)を添えていただく。

この日の茶の子は、自治会婦人部の皆さんが作ってくださった「里芋とこんにゃく」「ひじきと油揚げ」「ささげ豆」のそれぞれの煮物の三品だった。いずれも素朴で飽きの来ない家庭料理で、おいしくいただいた。挽き茶の会は、主に女性たちが井戸端会議のように、おしゃべりしながら楽しんだようである。まさに、「日常茶飯」のリフレッシュだったのである。

このような喫茶法のことを「振り茶」という。奈良県内では唯一、中曽司町で継承されているが、他県でもバタバタ茶(富山県)、ボテボテ茶(島根県)、ボテ茶(香川県)、ブクブク茶(沖縄県)などが残る。

中曽司では、古くから住民の庭や畑で茶が栽培されていた。5月になると新芽を摘み、蒸篭(せいろ)で蒸す。それを筵(むしろ)の上に広げ、両手で押しつけるように揉(も)む。あとは天日で数日間干し、茶壺で保存する。

飲むときに石臼で挽くが、そのまま挽くと緑色の煎茶、挽く前に焙烙(ほうらく)で焙じると、茶色のほうじ茶となる。私はどちらもいただいた。煎茶は、ほぼ茶道の抹茶の味で、ほうじ茶はコーヒーのようにほろ苦く香ばしい。どちらも挽きたてをいただいたので、香りが立って、とてもおいしかった。

かつては冠婚葬祭や法事のときなどに頻繁に茶会を開いたそうだが、春と秋の年2回は、「大茶(おおちゃ)」といって各家庭で長時間の茶話会を催し、住民を招き合ってお茶を楽しんだという。

このような喫茶文化が、茶どころとして知られる大和高原や吉野郡大淀町ではなく、中曽司町に残っていることが不思議だったが、自給自足的にお茶を自家栽培し、これを収穫して楽しむという庶民文化は、商業的農業の現場では、かえって生まれにくいのかも知れない。

しかも中曽司は環濠集落だったので、もともと住民同士の人間関係が濃密だ。お茶を介して、意思疎通を一層深めたのだろう。実際、中曽司には長寿のお年寄りが多いそうだが、これもコミュニケーションの賜物なのだろう。コロナの渦中、人間関係が疎遠になり、メンタルヘルスが不調になる人が増えたというニュースがあったが、ここではそんな心配もなさそうだ。

いにしえから伝わる貴重な喫茶文化、子々孫々にまで継承していただきたいと願う。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これで良いのか?「観光立国」「観光振興」

2024年11月02日 | 明風清音(奈良新聞)
奈良新聞「明風清音」欄に、月1~2回、寄稿している。10/17付で掲載されたのは、〈「観光立国」の虚実〉、佐滝剛弘著『観光消滅 観光立国の実像と虚像』(中公新書ラクレ)の紹介である。

今の若い人はご存じないだろうが、終戦後には〈日本は資源がないから、戦争に負けた。これからの日本は観光と軽工業でやっていくしかない〉と言われた。ここでは「観光」も「軽工業」も、ややマイナスのイメージで語られている。

私は紹介しなかったが、本書にも〈もしかしたら、「観光立国」という言葉は、先進国という呼称に疑問符がつき始めた日本の姿を覆い隠す魔法のヴェールにすぎないのではないだろうか?〉と記されている。私はそんなことを考えながら、本書を読んだ。以下、記事全文を紹介する。

「観光立国」の虚実
佐滝剛弘著『観光消滅 観光立国の実像と虚像』(中公新書ラクレ)という刺激的なタイトルの本を読んだ。本書カバー袖の「内容紹介」には〈インバウンド需要を見込んで観光立国を目指した日本は今、観光地の大混雑、ホテル代の高騰、超高額メニューの登場など、「オーバーツーリズム」の弊害が各地で顕在化している。

これに加えて人口減による人手不足や公共交通の減便が輪をかけ、もはや日本の観光を取り巻く環境は、公害を超えて崩壊から消滅の道をひた走るのか。観光学の第一人者が豊富な事例をもとに、改めて「観光」の意義と、ありうべき「観光立国」の姿を問い直す〉。

本書著者はもとNHKディレクターで、現在は千葉県にある城西国際大学の観光学部教授である。豊富な事例に基づき、「観光立国」のさまざまな問題点を浮き彫りにしている。印象に残ったところを紹介する。

▼ウニをのせたステーキ串
築地場外市場は市場の移転後も、商売の街として賑わう。 〈2024年3月の平日の昼ごろ、築地場外市場を訪ねてみたら、完全に外国人の街であった。1串6000円するステーキ串、さらにそれにウニをのせた串もある。

(中略)そもそもステーキにウニをのせて食べる伝統的な食文化は日本にはない。日本人の足が遠のくのも無理はない。京都の錦市場や大阪の黒門市場もコロナ禍で一時日本人向けの店構えに戻っていたけれど、今は再び外国人御用達のマーケットになっている〉(本書から引用、以下同じ)。

▼京都人が京都に住めない
テレビなどで、オーバーツーリズムで京都では路線バスに乗れないとよく報道されているが、もっと深刻な問題がある。〈それは、「京都人が京都に住めなくなる」という弊害である。コロナ禍前から、京都では空き地ができるとそのほとんどがホテル用地として買収され、オフィスや住宅用に確保できなかった。

その結果、価格が高騰したりそもそも物件がなかったりで、本当は京都に住みたい人たちがやむなく近隣の自治体、特に滋賀県の方まで目を向けないと家を確保できない事態が進行していたのである〉。

▼日本の桜が咲かなくなる
地球温暖化に伴う気候変動が観光に悪影響を与えている。ここ3年、筆者(鉄田)は毎春、吉野山へ花見に行っている。基本的に下千本が見頃の時期をネットで確認してから行っているのだが、その時期が毎年、大きくずれるのだ。今年は4月5日、昨年は3月28日、一昨年は4月7日だった。

本書には〈気候変動にともなって桜の開花時期の予想が難しくなり、自治体などが設定した桜祭りの時期とずれてしまい、花見客の集客に大きく影響するようになった。(中略)さらに、桜の開花には、「休眠打破」という桜が寒さから目覚める作用が必要だが、冬の間にそのための気温まで下がらなくなっているという話まで聞かれるようになった。

近年、暖かいはずの鹿児島の桜の開花が東京などよりかなり遅れているが、これは鹿児島の冬の冷え込みが不十分なことが原因の一つと考えられている。もしこのまま温暖化が進むと、鹿児島だけでなく日本各地で桜が咲かなくなるともいわれており、「日本の春=桜」のイメージが崩れかねない〉。

▼世界遺産≠観光振興
〈世界遺産を求めて海外に行く日本人なら筆者も含め一定数はいるかもしれないが、海外から「そこが世界遺産に登録されているから」という理由で日本にやってくる外国人はそんなに多くはない。(中略)台湾には人口のほぼ半数にあたる1186万人(2019年)もの外国人が来訪しているが、台湾は世界遺産の登録を行うユネスコに非加盟のため世界遺産は一件もない〉。

▼真の「観光立国」に向けて
〈「ウニをのせたステーキ」を高額で販売するような行為は、本当の観光ではない。そもそも政府が進める観光振興策は、経済的な側面だけで効果を測ったり、富裕なインバウンドを受け入れることが最優先されるされるような風潮だったりすることが目立っている。本書では、その危うさをきちんと指摘したかった〉。

「観光立国」という言葉に惑わされず、日本観光の展開をシッカリと見守っていきたい。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖徳太子 虚構説、怨霊説を読み解く

2024年10月13日 | 明風清音(奈良新聞)
毎月1~2回、奈良新聞「明風清音」欄に寄稿している。先月(2024.9.19)掲載されたのは、〈「オカルト聖徳太子」考〉だった。聖徳太子については、虚構説や怨霊説など、さまざまに取り沙汰され、全体像が見えにくくなっている。そこで、オリオン・クラウタウ著『隠された聖徳太子――近現代日本の偽史とオカルト文化』(ちくま新書)をもとに、いろんな説をスッキリとまとめることにしたので、ご参考にしていただきたい。

「オカルト聖徳太子」考
私はよく、聖徳太子に関する講演の依頼をいただく。年に1度くらいは必ずリクエストがあり、2021(令和3)年の太子1400年遠忌の年には、各地で何度もお話しした。

聞きに来られるのはシニア世代なので、教科書に載るような話だけでは、納得してもらえない。虚構説や怨霊説にも触れながら、様々な太子像を紹介している。

なお虚構説とは、中部大学名誉教授・大山誠一氏の説で、太子のモデルとなった厩戸(うまやと)王という王族は実在したが、史実は「用明天皇と穴穂部間人皇女の間に生まれ、601年に斑鳩宮を造り、その近くに若草伽藍として遺構が残る寺を建立した」という程度で、『日本書紀』などに記された事績は、後世の創作であるとする説だ。

オリオン・クラウタウ著『隠された聖徳太子――近現代日本の偽史とオカルト文化』(ちくま新書)を読んだ。著者はブラジル生まれの東北大学准教授で、専門は日本宗教史学。

本書序文には、〈本書の主な目的は、聖徳太子にまつわる「異説」がどのような背景をもとに成立し、それらがいかなる時代的なニーズに応えるために構築されていったのかを明らかにすることである〉。本書の多彩な内容をすべて紹介することはできないが、特に印象に残ったところを記す。

▼中里介山『夢殿』
早くから、太子像の形成に景教(古代キリスト教ネストリウス派)の影響があった可能性や、太子と親しかった秦河勝(はたのかわかつ)が一神教の信者だったという説が唱えられていた。これらの題材を集め、「太子は景教徒の秦河勝に影響された」という話を作り上げたのは、1929(昭和4)年に刊行された中里介山の小説『夢殿』だった。

会話の中で、日本には八百万の神がいるが景教の神は一つであること、太子は厩の前で生まれたが、イエスも馬小屋で生まれたことなどを語らせている。

▼司馬遼太郎「兜率天の巡礼」
司馬遼太郎も新人時代の57(同32)年、「兜率(とそつ)天の巡礼」という短編小説で、主人公の妻の本家は兵庫県赤穂郡比奈大避(おおさけ=ダビデ)神社神官の波多(はた)家だったこと、波多家は渡来人の秦氏で、妻はユダヤの移民団の子孫で景教の信者だったと書く。そして秦氏は太子に、多額の政治資金を供給し続けたとする。

司馬は68(同43)年に発表された随筆「“好いても惚(ほ)れぬ”権力の貸座敷〈京都〉」でも、河勝が太子の別荘として広隆寺を建立・献上したこと、同寺の「小さな森」にある三柱鳥居(三位一体を表す)、大避神社やヤスライ(イスラエル)の井戸などにも言及している。

▼梅原猛『隠された十字架』
「オカルト太子」を語り話題となった最高傑作は、72(同47)年に刊行された梅原猛著『隠された十字架 法隆寺論』だろう。今ではその説を支持する人も少なくなったが、出版当時は大人気を博し、毎日出版文化賞を受賞した。

本書で梅原は、法隆寺は太子の怨霊を封じ込める寺で、中門の中央の柱は太子の怨霊を外に出さないためのもの。太子の長男・山背大兄王一族を殺害した黒幕は中臣鎌足で、息子の藤原不比等は太子の怨霊を恐れ、それを封じ込めるために法隆寺を建立(再建)したとする。この梅原説に触発されて、山岸凉子氏は少女漫画『日出処(ひいずるところ)の天子』を描き、これも大ヒット作となった。

▼五島勉『聖徳太子の秘予言』
73(同48)年、五島勉は『ノストラダムスの大予言』を刊行した。当時のオカルトブームの波に乗り、250万部の大ベストセラーとなった。91(平成3)年、五島は『聖徳太子「未来記」の秘予言』を刊行した。

〈太子は、堕落したユダヤ教・キリスト教中心の西洋に対して、新人類を生み出す仏教中心の東洋文明の決定的な役割を予言し、世界の終末期の日本人に伝わるように、その希望のメッセージを美しい法隆寺に隠した〉(『隠された聖徳太子』)。

五島はこのあとも太子をテーマに「ノンフィクション」2冊を刊行し、太子をノストラダムスに代わる予言者に仕立て上げたのである。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼!山の達人・辻谷達雄さん(川上村柏木)

2024年08月30日 | 明風清音(奈良新聞)
今月初旬、辻谷達雄さんがお亡くなりになった。山仕事の達人であり、吉野式林業の後継者、森の語り部でもあった。1つの時代の終わりを感じさせられた。ご著書を再読し、奈良新聞「明風清音」欄に寄稿した(2024.8.29)。以下に全文を紹介しておく。辻谷さんのご冥福をお祈りいたします。
※トップ写真は辻谷さん。写真は川上村の「水源地のブログ」から拝借した

今月、「山の達人」と呼ばれ親しまれた辻谷達雄さんが、お亡くなりになった。91歳だった。辻谷さんのご著書『山が学校だった』(洋泉社刊)には、

〈1933(昭和8)年、日本三大美林のひとつ、吉野杉の中心地、奈良県吉野郡川上村柏木に生まれる。地元の小・中学校を卒業後、15歳で山仕事に従事する。71年に独立し、林業請負業・ヤマツ産業有限会社を設立、テレビCMを活用したりユニークな経営方針で知られる〉。

訃報に接し、本書を久しぶりに読み返した。印象に残ったところを以下に紹介する。

▼山は自分を鍛える学校だ
川上村と聞くと、役場やホテルのある迫(さこ)の辺りを想像するかも知れないが、辻谷さんのご自宅は、もっと南の「柏木」。修験者の宿として知られる「朝日館」から、さらに山道を奥に登ったところにある。

ここで生まれた辻谷さんは、小六で終戦を迎える。食糧難で、山菜や木の実はもちろん、わなを仕掛けてウサギやヤマドリを獲ったり、ゴムパチンコでハトを撃ったり。川魚も釣ったり、ヤスで突いたり。たくましく生きた辻谷少年は、健康優良児として表彰されたそうだ。

▼進学を諦め山仕事に
辻谷さんは成績が良かったので、師範学校(現在の奈良教育大学)への進学を希望したが、経済的理由で断念。隣の集落(上多古)にある親類の材木商に就職する。1949(昭和24)年のことである。仕事内容は下草刈り、木材の運搬、皮むきなど。酒樽(だる)の材料となる樽丸作りの手伝いもした。

終戦直後は動力があまり入らず、ほとんどの仕事が人力だった。斜面に4㍍の材を縦に敷き詰めて樋(とい)のようにした「修羅」や、橇(そり)のような「木馬(きんま)」を使い、出材した。山から下ろした材を運び出すのには、筏(いかだ)を使った。長さ4㍍の丸太で小さな筏を作り、それを10ほどつなぐ。これで川上村大迫から、吉野町上市まで運んだ。筏は、トラックが普及する1951(昭和26)年頃まで使われていたという。

▼再造林のため苗木を作る
1952(昭和27)年頃から、戦時中に強制伐採された山で再造林が始まり、苗木作りが盛んになった。辻谷さんも、畑にスギやヒノキの苗木を植えて育てた。それを山守(山の管理者)に買ってもらう。その苗は、辻谷さんが雇われ、整地して植えた。成長するにつれて下草刈り、枝打ちするのも辻谷さん。〈他人の山の木を全部自分が育てたことになります〉。

▼テレビCMに大きな反響
営林署から法人化の要請を受け、辻谷さんはヤマツ産業を設立した。当初の仕事は、国有林の請負がほとんどだったが、国有林の赤字が問題となり、経費削減で仕事が減った。しかし作業員は多いときで30人以上を抱えていた。そこでテレビCMを打つことを思いついた。

試しに奈良テレビ放送に問い合わせてみると、30秒のスライド式の静止画にコメントを流すだけだと、週に1日(2回)放送で、月5万円だった。

効果は絶大で、奈良県全域や京都府南部から仕事が舞い込んだ。民有林や森林組合のほか、神社からも「参道の大木を切り倒してほしい」という依頼が来た。テレビのおかげで仕事が増えて対応できなくなり、CMは2年で打ち切った。仕事量はCM前の5倍に増えたという。

▼達っちゃんクラブで20年
辻谷さんは65歳でヤマツ産業をご子息に任せ、翌年の1999(平成11)年、都市住民との交流により村と林業を活性化させたいという思いから、「達っちゃんクラブ」を立ち上げた。年6回程度、山の観察、山菜採り、郷土料理作りなどを行い、2018(平成30)年に活動を終えるまで、20年間で延べ約8300人が参加されたそうだ。

山仕事で村の経済を回すとともに後継者を育て、リタイヤ後は村と林業への貢献に努める。素晴らしい人生でした、合掌。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ働いていると本が読めなくなるのか by 三宅香帆さん/奈良新聞「明風清音」第107回

2024年08月20日 | 明風清音(奈良新聞)
奈良新聞「明風清音」欄に、月1~2回、寄稿している。先週(2024.8.15)掲載されたのは、「読書する余裕ある社会」。ベストセラー街道をひた走る三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を紹介した。

読む前は、端的に「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という疑問に答える本だと思っていたが、そうではなかった。私は〈若い女性のおしゃべりに長々と付き合わされ、「いつ本題に入るのだろう」と不安に思っていた〉と書いたが、これは正直な気持ちだった。

しかし最終章に近づくと、「読書はノイズになった」「半身(はんみ)で働く社会をめざそう」など、興味深い話が登場するので、お楽しみに。では、以下に全文を紹介する。


出版社は、こんなにたくさんのカラフルな「帯」を用意していた!

読書する余裕ある社会
今や16万部を超えるベストセラーとなった三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を読んだ。

版元の紹介文には〈「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」「疲れていると、スマホを見て時間をつぶしてしまう」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではないか。(中略)自らも兼業での執筆活動をおこなってきた著者が、労働と読書の歴史をひもとき、日本人の「仕事と読書」のあり方の変遷を辿(たど)る〉。



著者の三宅さんは、文芸評論家で、今年で30歳。本書はストレートに「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を書いた本というより、明治以降の働く日本人の読書への向き合い方について紹介した本である。若い女性のおしゃべりに長々と付き合わされ、「いつ本題に入るのだろう」と不安に思っていたところ、最終章(第10章)に近づいて、やっと全貌がつかめた。以下、第9~10章から、本書の要点を紹介する。


本書に掲載されていた表

▼読書は教養からノイズに
明治時代から昭和の戦後まで、読書は教養だった。オイルショックからバブル期までは娯楽。バブル崩壊後からは、「ノイズ」(余計な情報)になった。

〈現代において成功に必要なのは、その場で自分に必要な情報を得て、不必要な情報はノイズとして除外し、自分の行動を変革することである。そのため自分にとって不必要な情報も入ってくる読書は、働いていると遠ざけられることになった〉。ファスト社会にあって読書は「ノイズ込みの知」、情報は「ノイズ抜きの知」。だから読書はできなくても、インターネットはできるのだという。



▼本で他者の文脈に触れる
〈本のなかには、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいのか」を知らない。何を読みたいのか、私たちは分かっていない。(中略)だからこそ本を読むと、他者の文脈に触れることができる〉。

〈自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである。そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ〉。



▼半身で働く社会へ
〈しかしこの社会の働き方を、全身でなく、「半身(はんみ)」に変えることができたら、どうだろうか。半身で「仕事の文脈」を持ち、もう半身は、「別の文脈」を取り入れる余裕ができるはずだ。そう、私が提案している「半身で働く社会」とは、働いていても本が読める社会なのである。仕事だけではないかもしれない。育児や介護、勉強、プライベートの関係、そういったもので忙しくなるとき、私たちは新しい文脈を知ろうとする余裕がなくなる〉。

〈新しい文脈を知ろうとする余裕がないとき、私たちは知りたい情報だけを知りたくなる。(中略)長時間労働に疲れているとき、あるいは家庭にどっぷり身体が浸かりきっているとき、新しい「文脈という名のノイズ」を私たちは身体に受け入れられない。それはまるで、新しい交友関係を広げるのに疲れたときに似ている〉。

〈日本はヒロイックなまでに「無理して頑張った」話が美談になりがちではないだろうか。高校野球とか、箱根駅伝とか、情熱大陸とか……〉。〈働きながら本が読める社会をつくるために。半身で働こう。それが可能な社会にしよう。本書の結論は、ここにある〉。

「半身で働く社会」、実現は難しそうだが、働き方改革が言われる今、興味深い提案である。 (てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする