tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

奈良交通・古事記をめぐるバスツアー「安萬侶・阿礼コース」、やじうま同乗記

2012年10月31日 | 記紀・万葉
10月28日(日)、「まほろばソムリエと行く!『古事記』をめぐるバスツアー」(旅行企画・実施=奈良交通、協力=奈良まほろばソムリエ友の会)の安萬侶・阿礼コースコースに同乗した。コース名は《(2)古事記成立の立役者!太安萬侶と稗田阿礼ゆかりの地をゆく(@5,800円)平成24年10月14日(日)、28日(日)》で、ガイドは奈良まほろばソムリエの小野哲朗さんと小出春美さん、オブザーバー参加は石田一雄さんと私であった。添乗員は奈良交通の境課長。お客さまは28名。7割が奈良県内、3割は県外から来られていた。当日の様子を、車中で配付されたレジメをもとに紹介する。

ツアー当日は、朝からあいにくの雨、しかし午後からはウソのように晴れ渡った。バスは近鉄奈良駅、JR奈良駅を出発し、一路、田原の里(奈良市)へ。まず到着したのは、田原の入口・矢田原町のある「春日宮天皇陵」(田原西陵)であった。



「春日宮天皇陵」(田原西陵)は、万葉歌人として有名な志貴皇子(天智天皇の第7皇子)の御陵。 径57m高さ11m円形、715年(霊亀元年)9月に亡くなった志貴皇子は、770年(宝亀元年)第6子の白壁王が光仁天皇に即位したため、春日宮天皇(田原天皇とも)と追尊号を贈られました。

飛鳥時代や奈良時代というと一見、雅やかな印象を持たれがちですが、権謀術数が渦巻く生臭い政争の時代でもありました。そんな中、天智天皇の息子であり、皇位継承争いから外れた傍系の志貴皇子は、政治よりも和歌に生きた人物でした。万葉集には6首が残されています。



采女の袖吹き返す明日香風京を遠みいたずらに吹く (巻1-51)
葦辺行く鴨の羽交に霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ (巻1-64)
むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも (巻3-267)
大原のこのいち柴のいつしかと我が思ふ妹に今夜逢へるかも (巻4-513)
石走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも (巻8-1422)
神奈備の石瀬の社の雀公鳥毛無の岡にいつか来鳴かむ (巻8-1466)

次は日笠町にある「光仁天皇陵」(田原東陵)と「北浦定政顕彰碑」。

「光仁天皇陵」(田原東陵)は、奈良時代最後の天皇である第49代光仁天皇の御陵。径62m高さ7m円形、「白壁王」と称された光仁天皇は、志貴皇子(施貴親王)の第6皇子で、天智天皇の孫になります。当時、皇位継承をめぐる争いが激化していましたが、主流は天武天皇系で、天智天皇系だった白壁王は皇位継承から遠い立場でしたが、普段から酒を飲むなど凡庸を装い、政争に巻き込まれないよう振舞ったと言われています。



しかし770年、称徳天皇が後継者を指名せずに崩御した。度重なる政変で天武天皇系の嫡流にあたる皇族が無く、ここで62歳の高齢だった天智系の白壁王が天皇の位に就きました。70歳を過ぎてもなお、政務をこなした光仁天皇でしたが、第一皇女の能登内親王の死を機に心身とも衰えがちになり、天応元年(781)4月3日、病を理由に皇太子に譲位。同年12月23日、崩御。皇太子の山部王は、平安遷都を行った桓武天皇です。



北浦定政顕彰碑。北浦定政(1817-1871)通称義助。号は霊亀亭。江戸時代後期の陵墓研究家。大和 古市の人。津藩領古市奉行所の手代。自作の測量器で大和の天皇陵を調査し、嘉永元年(1848)「打墨縄(うつすみなわ)」、同5年(1852)には「平城京大内裏跡坪割之図」「大和国班田略図」などを著述した。特に「平城京大内裏跡坪割図」は棚田嘉十郎らによる平城宮跡保存顕彰運動に多大な影響を与えました。光仁天皇田原東陵の考定修補に尽力したとして、昭和51年(1976)に生誕160年を記念して田原村民によって建てられたものです。


 
いよいよ次は本日のメイン訪問地、「太安萬侶墓」墓(奈良市比瀬町 通称:トンボ山)探訪である。

太安萬侶墓。昭和54年(1979)1月、茶木の植え替え作業中に、偶然墓誌が発見され、その銅版に41文字からなる銘文が記されていました。名前・居住地・位階・死亡年月日などが読み取れます。



「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」とあり、「古事記序第三段」に「和銅四年九月十八日をもちて 臣安萬侶に詔して 稗田阿礼の誦むところの勅語の旧辞を撰録して献上せしむ・・井せて三巻を録して謹みて献上る臣安萬侶 誠惶誠恐  頓首頓首  和銅五年正月廿八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶」「続日本紀」に「養老七年(元正723)七月 民部卿 従四位下の太朝臣安麻侶が率した」という史書の記述と一致していることから、太安萬侶の墓に間違いないと確認されました。また古事記の編者として知られていた太安萬侶の実在が証明されました。



茶農家 竹西秀夫氏が茶畑で作業中、約30cm掘り下げました。木片の裏に「安萬侶」と刻まれた銅片が貼り付けてあったという。だがこの世紀の大発見に至るまでには、幾多の偶然の積み重ねがあったようです。調査によると、墓は一片1.8mの土抗を掘って内部に炭を敷き、文字面を下に向けて墓誌を敷き、その上に直径4.5mほどの円丘が載る構造。人骨に混じって真珠四粒、漆喰片、銅製墓誌が発見された。国指定史蹟で、現在墓誌は橿原考古学研究所博物館に。遺骨は十輪寺に。又3年後墓誌に記述の旧安萬侶の住していた場所から「羊形硯」が発掘され話題を呼びました。

墓誌銘文(墓誌は重文に指定)
左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳



ヤマトポークのソースカツ丼

このあとバスは南下。途中の「道の駅 針テラス」で食事。小野さんからは「テラス(T・R・S)は、Tea Time Resort Station という意味です」という解説が入る。そんなことまで、よく調べられたものだ。針テラスで私は、生まれて初めての経験をした。バスの乗務員や添乗員用の食堂(乗務員室)で昼食をいただいたのである。


大和肉鶏と大和なでしこ卵の親子丼

メニューは、うどん・そば、ラーメン、カレー、丼物の5ジャンル・14種類から選ぶ。小野さんと小出さんは「ヤマトポークのソースカツ丼」、石田さんと私は「大和肉鶏と大和なでしこ卵(らん)の親子丼」を注文。味もボリュームも申し分なく、皆さん大満足だった。雨も上がり、午後は太安萬侶ゆかりの多神社(田原本町多)へ。  





     

多神社(多坐弥志理都比古神社)。祭神は神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)・神八井耳命(かむやいみみのみこと)・神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)の四神。本殿は一間社春日造り四殿配祀の形式。神武天皇の第二王子 神八井耳命が多神社の主神で、この地を本拠の古代多氏の祖神と言われています。







鳥居に掲げられる「正一位勲一等多大明神」の額が示すように、春日・石上・大神など大きな神社が山の麓に立地している中で、多神社は盆地の真中にあり、弥生文化の発達と共に稲作と祭祀の中心地として、かってはいかに大きな勢力を持っていたかが伺えます。4月初め 東の三輪山の山頂より太陽が昇り五穀豊穣を祈り、9月の末頃 西の二上山の雄岳と雌岳の間に日が沈む時収穫の祭祀が執り行われて来ました。又中世には国民である「十市氏」によって支えられました。





太安萬侶はこの多氏の一族であり、「多神社注進状記事」によると、壬申の乱で天武天皇側について武功を挙げた多品治の息子となっています。711年元明天皇の命により稗田阿礼と古事記編纂を始め、翌712年「古事記」三巻を完成、天皇に献上しました。716年 舎人親王と日本書紀編纂にも関与したとの説もありますが、定かではありません。また、すぐ南にある「小杜(こもり)神社」は太安萬侶を祀っており、古事記編纂後1300年を記念しこの7月に、記念陵が完成しました。





最後は、大和郡山市稗田町の賣太(めた)神社へ。

賣太神社・稗田阿礼。祭神は稗田阿礼命、副祭神 猿田彦神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)。古代豪族である稗田猿女君の邸のあった所と伝えられています。「書紀」に猿女君は遠祖天鈿女命とあり、稗田阿礼はその一族です。平城京に通じる「下つ道」(水陸両用の当時の主要幹線道路)があり、京の南端の羅生門に近く、都に出入りする人々の穢れを払う場所でもあったと神社の「御由緒略紀」にあります。



また稗田阿礼は、非常に聡明で、抜群の記憶力の持ち主で数多い学者や名門出身の役人の中から、特に28歳の若い阿礼が選ばれたともあります。阿礼に因んで 昭和の初め頃から、子供達に童話を口演する行事が盛んで、境内にも「かたりべの碑」や、8月16日の阿礼祭には「阿礼さま音頭」などで賑わいます



稗田環濠集落。大和平野には、鎌倉末期から南北朝時代にかけての争乱時代に、防衛の為に集落の周りを掘で囲む環濠が、二百近く散在していると云われますが、この稗田環濠集落は、原型に最も近い状態で現存し、規模の大きさで全国的にもその例を見ないものとされています。



賣太神社の社務所では『はじめての古事記』(神社本庁)という20頁ほどの小冊子を150円で販売していた。「これは便利だ」と早速買い求めると、卵煎餅を2枚いただいた。1枚は「あれさまのちえせんべい」(稗田阿礼の知恵煎餅)」、もう1枚は「うずめさまのふくせんべい」(天鈿女命の福煎餅)。これは有り難い。この話をお客さんにすると、たくさんの方が社務所を訪れ、『はじめての古事記』を買っておられた。



前回の「畝傍コース」同様、とても行き届いたガイドであった。小野さん、小出さんとも事前に史料を調べられ、また何度も現地に足を運ばれている様子がうかがえた。史跡の現地ガイドだけではなく、車窓から見える山や古墳を説明されたり、奈良の方言や万葉歌の解説など、移動の時間も退屈することがない。


小出さん手書きの万葉歌「石走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも」
これを春日宮天皇陵(志貴皇子の御陵)の前で犬養節で朗詠され、お客さまは大喜び

偉い先生のツアーに参加しても、現地では説明が聞けるが、車中ではめったにお話しいただけない。私にはこれが不満だったが「1人で車内でも車外でも話し続けるのは、疲れるのだろう」と諦めていたが、ソムリエのツアーは2人ガイド体制なので、うまくローテーションを組めば、ずっとしゃべり続けられるのである。今回は持ち味の違うガイド2人が、それぞれの得意分野を生かしたガイドをされていて「ガイド同士の組み合わせも、大事だな」と気づいた次第である。


向かって左から、石田さん、小野さん、小出さん、私

さて好評実施中の「まほろばソムリエと行く!『古事記』をめぐるバスツアー」、今後の予定は以下のとおりである。

(1)葛城山麓に鎮座する神々と出会う(@6,000円)
 ■平成24年11月4日(日=満席)、10日(土)
(2)神武東征の軌跡をたどる(@5,800円)
 ■平成24年12月1日(土)、16日(日)
(3)御所・葛城に黎明期の大和を訪ねる(@5,800円)
 ■平成25年3月10日(日)、17日(日)
(4)悲劇の英雄・ヤマトタケルの生涯に迫る(@5,800円)
 ■平成25年3月24日(日)、30日(土)


私は(1)(3)(4)のツアーで、ガイドをさせていただく。1月~2月には、古事記ではなく単発のバスツアーとして、巳の神さま参り、学問の神さま参り、ぽっくり寺参りを予定している。今回の小野さんと小出さんにも、再登場いただく予定である。奈良交通のHPに、ぜひご注目いただきたい。

小野さん、小出さん、素晴らしいガイドを有難うございました。石田さん、楽しかったですね。境さん、奈良交通さん、これからもソムリエガイドをどうぞよろしく。皆さん、ぜひ奈良交通の「奈良まほろばソムリエと行く」シリーズをご利用ください!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霜月祭は、楽しさいっぱいの町家フェスティバル。今年は11月11日(日)開催!(2012Topic)

2012年10月30日 | お知らせ
江戸時代の町並みが残るごせまちの「霜月祭(そうげつさい)」、今年(2012年)は11月11日(日)に開催される。パンフレットには《ふるさとの誇り、おもてなしのこころ。ごせまちに点在する文化と歴史の宝庫「町家」 この日限りの特別公開 是非ご覧ください》とある。大和路アーカイブ(県ビジターズビューローのHP)によると

江戸時代より商都として栄えた「御所まち」。その由緒ある町家の特別公開をはじめ、地元の人たちの個性あふれる芸術作品を展示いたします。このほか、御所名物「行者蕎麦」の手打ち実演販売や「おづぬ餅」「霜月茶会」「山伏おねり」など、おもてなしのこころがいっぱいのイベントが盛りだくさんです。

開催日時 : 2012年11月11日(日) 概ね10:00~17:00
開催場所 : 御所まち一帯
問合せ先 : 御所市企画観光課、霜月祭実行委員会
TEL : 0745-62-3001、0745-65-1201
近鉄御所駅またはJR御所駅下車すぐ(駅周辺の町全体が会場です)
※祭りの当日は混雑等が予想されますので、なるべく公共の交通機関をご利用ください。


一昨年、このお祭りを見物されたかぎろひさんがブログかぎろひNOWで、見どころを紹介している。読者からは「市町村の祭りは多くは参加していませんが 霜月祭は今までで一番ですね」というコメントも入っていた。

これまでに3回ほど「霜月祭」に行っているが、ワタクシ的には、なんといっても「町屋ミュージアム」が魅力だ。いつも前を通るばかりの歴史あるお屋敷が、この日だけ特別公開される。住居につき、もちろん玄関先に入らせていただくだけなのだが、それでもゆったりした歴史の香りに浸ることができる。現代家屋にはない重厚さと繊細な造りを垣間見ることができる貴重な機会。

「山伏おねり」も壮観。全国から数百名の山伏衆が、法螺貝を吹き鳴らしながら、近鉄御所駅前から役行者の生誕地と伝えられる吉祥草寺まで練り歩く(12時~13時)。吉祥草寺では、13時から採燈大護摩供養。

このほかにも、行事が目白押し。円照寺(一般公開)、霜月茶会、薬草園公開(奈良県薬事研究センター)、御所まち行者そば、まち灯り物語(17時30分~19時30分) などなど、まちじゅうで何かやっているという感じ。楽しさいっぱいの縁日だ。


このほか「街かどギャラリー」では市松人形展や陶芸展、「お休み処」では、霜月まんじゅう、手作りたくあん、手作りおはぎ、おづぬ餅、コーヒー、無料湯茶接待など、ワクワクするような企画が目白押しである。私も今年は御所市柏原にお住まいの国見山さんことF先輩にご案内いただいて、お祭りをじっくり見物する予定である(当記事に貼っているパンフレットは昨日、F先輩にいただいたもの)。

楽しさいっぱい、ドキドキ感いっぱいの「町家フェスティバル」。たくさんの方のお出ましをお待ちしています。私を見かけられたら、ぜひお声かけください!



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十津川村の大自然にふれる旅は、11月19日(月)・20日(火)開催!(2012Topic)

2012年10月29日 | お知らせ
「奈良観光研究所」は、奈良観光の将来像・観光振興などについて研究し、活動している任意団体である。メンバーは県下の大学、有力社寺、観光事業者などの有志で構成されている。所長は安村克巳氏(奈良県立大学教授)で、事務局は春日大社内にある。私も最近、メンバーに加えていただいた。

この団体のプランニングにより、11月19日(月)と20日(火)の1泊2日で、「昔懐かしい風景と暮らし、十津川村の大自然にふれる旅」が実施される。地元の語り部の会メンバーや船頭さん(瀞峡遊覧船)によるガイドもついている。谷瀬の吊り橋、武蔵小学校(めはり寿司作り体験)、語り部の会の案内による「天空の郷(てんくうのさと)」果無(はてなし)集落と玉置神社参拝(玉置山の絶景ビューポイントも)、瀞峡遊覧などを楽しむ。宿泊は上湯温泉の神湯荘(源泉かけ流しと郷土料理)である。

なかでも果無集落は、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」小辺路(こへち)沿道にあり、昔ながらの古き良き日本の生活を残す集落で、絶景が楽しめる。マイクロバスで向かうので定員は16名限定、参加費は24,800円である(大和八木駅発着。募集締切は11/9)。お申し込みは桜井市初瀬の「やまとびとツアーズ」へお電話で(0744-55-2221 10:00~17:00 火・水曜定休)。ツアーの詳細は、こちらに掲載されている。

観光のスペシャリストのプランニングによるディープな十津川ツアーに、多くの方のお申し込みをお待ちしています!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南部振興課(奈良県地域振興部)の林業・木材産業観光モニターツアー

2012年10月28日 | 奈良にこだわる
「産業観光」という新しい観光のジャンルがある。Wikipedia「産業観光」によると《歴史的・文化的に価値ある工場や機械などの産業文化財や産業製品を通じて、ものづくりの心にふれることを目的とした観光をいう》《愛知県を中心とした東海地方は昔から製造業を中心として栄えてきた地域であり、さまざまな分野の「ものづくり」の現場に直接触れ合うことができることもあって非常に盛んである》。簡単にいえば「工場見学ツアー」であるが、奈良県の場合は工業ではなく、地場産業である林業・木材業の見学ツアーが「奈良県的産業観光」ということになる。
※トップ写真は原木市(吉野木材協同組合連合会)の様子。すべて10/26(金)に撮影した

先日、南部振興課(奈良県地域振興部)のUさんから「近代日本を支えた吉野杉の里とその貯木・木材加工を今に伝える町を歩くモニターツアー」(10/26実施)のご案内メールをいただいた。《概要案ができましたのでお送りさせていただきます。視察先の詳細は後日改めてご連絡させていただきます。業務ご多忙とは存じますが、是非ご参加下さい》とのことだった。なおモニターツアーとは、「お試し」の招待ツアーのことである。その内容は

川上村白川渡(しらかわど)チゴロブチの人工美林。北村林業の所有

~ニッポンの誇り『銘木 吉野材』林業を守り継いで来た川上・吉野地域に学ぶ~【モニターツアー】

近代日本を支えた吉野杉の里とその貯木・木材加工を今に伝える町を歩く

ヒトの暮らしを支えてきた「木」。古くからこの地域では林業に従事し、ニッポンの産業と暮らしに貢献してきた。銘木を育て上げるために、何代も何代もその緻密な技術と丹精こめたモノづくり精神を、今なお継承し続けている。すごいスピードで進化し、変化していく社会の中で、ニッポンに不可欠な『伝統』を守り続けるクールジャパン精神が根付いた川上・吉野地域を訪問し、日本最高峰の良木を産みだす現地の人達に学び、交流してみましょう。



※このツアーは奈良県南部振興課『林業・木材産業観光の導入を検討する調査』事業におけるモニターツアーです。実際に訪問・体験いただくことで導入に向けた意見を頂戴いただくことを目的としています。ですので、ゆったりと楽しめる内容ではなく、まだ受け入れ不十分な近未来の観光資源を駆け足で見ていただきます。予め御了承くださいませ。


というものであった。私は勤務先でCSR(社会的責任経営)を担当しており、奈良県の林業振興にも取り組んでいるので「これは行かねば」と、お邪魔することにした。当日(10/26)は快晴、絶好のツアー日和であった。ツアーにはメディア関係者、旅行業者、ハウスメーカーをはじめ、林業振興に取り組んでいる各種団体などが参加されていた。ざっと見たところ、30人ほどのメンバーである。旅程は



橿原神宮前(8:30)、日本屈指の人工美林見学(9:30~10:15)、生産作業現場見学(10:30~11:30)、昼食(平宗 吉野店 12:10~12:50)、大径木の原木市見学(13:00~13:30)、製材市見学(13:30~14:20)、貯木の街 丹治界隈散策(14:30~16:00)、橿原神宮前(16:45頃)

というものであった。大型観光バスとマイクロバスを乗り継いで回る。いただいたパンフレット(コースの見どころ)から抜粋すると

川上村①樹齢300年レベルの大径本
300年近くもの間、何代も何代も時間と手間を注ぎ込んで育ててきたからこそ存在する「大径木」。吉野村の魅力が一目で理解できます。今回散策いただく「中奥」界隈は、200~300年の大径木が生い茂る圧巻の風景、どこか神秘的で神々しい世界すら連想させてくれます。



チゴロブチでは、川上さぷり(川上産吉野材販売促進協同組合)の上嶌逸平代表理事からお話を聞いた



②生産作業現場
日本最高峰の美林「吉野杉」の生産は、丹精こめた作業の賜物です。間伐作業を実際に見ていただき、厳しい自然環境と共存する日本の伝統産業の現場を体感いただきます。



間伐風景。川上村井氷鹿(いひか)で


枝打ち作業

吉野町①柿の葉寿司 平宗吉野店(昼食)
文久元年(1861年創業)、林業という伝統産業が根付く吉野地域ならではの柿の葉寿司の老舗。昔、山深い吉野では、魚は貴重な食料でした。魚をいつまでも美味しく食べるために、熊野や若狭でとれた鯖の塩漬けを、ご飯と合わせ、抗菌・防腐作用に優れた柿の葉でくるみました。この手法は、保存性と共に、格別の風味をも増したのです。今回はお寿司と鍋焼きうどん、葛餅といった吉野名物セットをご賞味いただきます。







②吉野木材協同組合連合会の原木市・吉野材センターの製材市
100年以上の大径木が出荷される「原木市」。セリ人の掛け声とともに買主の人たちが勢いよく手を上げたり、声を上げたり、迫力があり、圧倒されます。木の値段がどんどん決まっていく様子を、見学いただきます。場所を移動し、次は「製材市」。吉野製材所から集まった様々な寸法の杉や桧の造作材、柱、建具材が市にかけられます。






◎吉野材の魅力
真円:木の外まわりが、真円に近い。無節:木に節が無いので美しい。年輪幅均一:年輪幅がほぼ一定している。本末同大:株と末の太さがあまり変わらない。色沢良好:色よくツヤ良し。






③貯木街の散策
吉野川の中流に作られた木材の集積地。原木市場が開かれ、様々な用途に加工する製材所が集まっている林業の盛んな吉野ならではの独特の町です。銘木吉野材は、この地の目利きたちによって作り出されます。今回は、その中のいくつかの工場や近代産業の遺構などを見学しながら巡ります。


くりやま樽丸店で樽丸(たるまる=酒樽の材料)づくりを見学








スペイン人の彼女も、カンナがけにチャレンジ

<訪問予定箇所>酒樽製造の伝統技術【くりやま樽丸店】/製材風景と杉への思いは必見【吉野中央木材】/iphone5の木材カバーも製造【丸商店】/その他水門など産業遺構など


吉野中央木材では、旧知の石橋さんに説明していただいた



Uさんからの案内には「ゆったりと楽しめる内容ではなく、まだ受け入れ不十分な近未来の観光資源を駆け足で見ていただきます」とのことで、確かに駆け足だったが、ちゃんと「産業観光ツアー」になっていた。事前準備は大変なものだったろうとお察しする。関係者のアポイントはもちろん、マイクロバスに乗り継いだり、大型バスを小刻みに走らせたり駐めたりするのも、大変なことなのである。







今回のコースは、林業・木材業の「産業観光ツアー」として立派に通用するコースだった。原木市などは開催日が限られるし、山に入るには季節も限定されるが、そこは「森と水の源流館」や「川上村林業資料館(山幸彦のもくもく館)」、吉野町商工会の展示場見学などに切り替えれば済むことである。川上村や吉野山に一泊して、ゆっくり回るコースも作ることができる。全体を通したガイド役(日本の林業・木材産業の現況や吉野林業の歴史に関する説明など)が必要なら、奈良まほろばソムリエ友の会が協力できるかも知れない。

Uさん、JTBのYさん、お世話になりました。ぜひこのツアーを「奈良県的産業観光ツアー」として、広めてください!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天理軽便鉄道(産経新聞「なら再発見」第4回)

2012年10月27日 | なら再発見(産経新聞)
毎回ご好評いただいている産経新聞奈良版の「なら再発見」、4回目となった今朝のタイトルは《天理軽便(けいべん)鉄道 楽しい線路跡めぐり》、執筆されたのは奈良まほろばソムリエ友の会の西川誠さんです。以下、全文を紹介します。
※トップ写真は《天理軽便鉄道の線路跡が残る木戸池》

 安堵町の木戸池には池を2つに割る道路があり、途中にレンガ組みの開口部が見える。JR関西線の車窓から、富雄川のすぐ東南にあるりこの池を見ることもできる。
 ここには、かつて「天理軽便(けいべん)鉄道」という鉄道路線が通っていた。新法隆寺(斑鳩町)と天理(天理市)駅間の約9キロを結んだ鉄道だ。
      *   *   *
 天理軽便鉄道は大正4年に開業したが、同9年に天理―平端間を大阪電気軌道(現近鉄天理線)に譲渡。
 残る新法隆寺―平端間は昭和3年にSLから、車輪の付いたボンネットバスのレールカーに代わり、運行を続けていた。
 しかし戦局の激しくなった昭和20年に運行を停止。その後、レールは撤去され、再興をめざしたが、昭和27年に廃止された。
      *   *   *
 今もJR法隆寺駅南口を出て東方向に行くと、側溝にレンガを積んだ橋台跡が残り、住宅街を抜けると広い畦道(あぜみち)に線路跡が見える。
 木戸池の中央を渡る線路跡は、富雄川を越えたところに残っている。
 現在のJR関西線と過去の線路跡を重ねて見ることができる場所で、カメラを手にした鉄道ファンの姿をよく見かける。
 数年前までは富雄川両岸にもレンガ組みの橋脚が残っていたが、残念ながら護岸工事でなくなってしまった。
 「子供の頃に乗った」と話す地元のお年寄りもいる。「池のまん中を走る時は、ワクワクしたなぁ。平端駅に着いたら電車を回れ右さしよんねん。それが面白うて、ずっと見ていたわ」。当時の思い出を話してくれた。
 単線のため、終点駅でターンテーブルに乗せて、180度車両を回していたという。
      *   *   *
 近くには、安堵町歴史民俗資料館がある。この資料館は、かつての県再設置運動の中心人物、今村勤三の生家を改築した建物だ。
 明治4年に設置された県はその後、堺県を経て大阪府に併合された。このため大和が要求する道路の新設・改修や産業振興などが、なおざりにされる傾向が強かったとされる。これに対し、今村勤三らが動き、同20年に奈良県が再設置された。
 資料館の一画には、軽便鉄道に関する展示物がある。セピア色の写真には、駅に立つ乗客や車両の姿がみられ、往時をしのばせる。当時の路線図が大型パネルになっているので、現在の地図と比べたり、道をたどるのも楽しい。
 ガラスケースには、SLの車両とレールカーの復元模型が展示されている。ケースに顔をくっつけて見とれていると、いつの間にか少年時代の自分に戻っていた。
 毎年2月11日には、模型を実際に走らせる「鉄道模型運転会」も行われている。来年はぜひ参加しよう。


これは興味深い話でした。レールカーとか、レンガ組みの橋脚、ターンテーブルで回転させる話など、興味津々です。私の知識といえば、『大和を歩く』(奈良新聞刊・品切)に載っていた《1915(大正4)年、現在の斑鳩町興留付近にあった新法隆寺駅から現近鉄橿原線の平端を経由して天理を結んだ全長約9キロメートルの軽便鉄道は、天理教教会へ向かう客を運ぶことを目的に建設された。平端以東は近鉄天理線として現在も残っているが、平端以西の法隆寺線は1952年に廃線になった。木戸池の中央には、橋桁の跡がわずかに残り、当時の面影を残している。資料館にも路線図や時刻表などの資料が展示されている》という程度でした。

西川さん、ディープなお話を有難うございました。皆さん、来週もお楽しみに!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする