毎月第4金曜日、週刊奈良日日新聞に「奈良ものろーぐ」を連載している。今月(4/27付)掲載されたのは「若槻の環濠集落 もと興福寺大乗院領」。会社の先輩だった中島健(たけし)さんのお宅(大和郡山市若槻町)にお邪魔して、お話をうかがった。
※トップ写真は最近修復された若槻環濠の一部、向こうは天満神社。これら3枚は4月9日の撮影
お邪魔したのは昨年(2017年)6月30日(金)に1回、本年4月9日(月)に1回。4月には環濠の一部がきれいに改修されていて驚いた。中島さんが自治会長時代に手がけられた仕事で、古地図を丹念に調べ、昔のままの形で復元された。これはいい、これでかつての若槻環濠をしのぶことができる。中島さん、良い仕事をされましたね。では記事全文を紹介する。
環濠(かんごう)集落というものを知ったのは、就職して奈良に移り住んでからだ。「奈良盆地には環濠集落が多く存在することで有名である。これまでの調査研究で環濠集落であると確認または推定できるものは二百前後存在するといわれ、大和郡山市、天理市、田原本町、橿原市に多く分布している。環濠集落は防御を目的に中世後期に作られたものが多く、城郭として位置づけられるもの、そうでないものに区分される。」(『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』)。
城郭的性格を備えた集落に若槻(わかつき)環濠(大和郡山市若槻町)がある。もとは若槻荘という荘園だった。豊富な史料が残されているので、環濠の形成過程が判明している。薬師寺伝教院領を経て鎌倉後期に興福寺の大乗院領となった。
もとは散村だったが、室町時代にはおそらく自衛の必要から集村化が進み、濠(ほり)や溝が掘られ、秀吉が天下を統一した後の文禄4(1595)年には、完全な環濠集落となった。それが今の屋敷割と環濠に受け継がれている。環濠の内外を結ぶ道が1ヵ所しかないという堅固な集落である。
若槻環濠はJR郡山駅から徒歩約20分。稗田(ひえだ)の環濠は若槻の北西、番条の環濠は南西にある。若槻町にお住まいの中島健さん(67歳)にお話をうかがった。
中島健さん。これら2枚は2017年6月30日の撮影
「若槻環濠は東西約200㍍、南北約70メートル。西の天満神社のあたりの濠がよく残っています。最近、古地図に基づく改修工事を終えたばかりです」「防御と風よけのための竹やぶも残っています」「濠の水を灌漑(かんがい)用水として使っている集落はよく濠が残っていますが、若槻には大きなため池が3つもありましたので、その必要はありませんでした」。
濠に面したお家は大変だという。「濠に向かって家が傾くのです。コンクリートで補強してもダメです。扉が閉まらなくなってすきま風が入ってきたり、鍵がかけられないなどのトラブルが出てきます。だから近年は濠を埋めてしまう集落が多いと聞きます」。
なるほど、歴史ある環濠を残すのは大変なのだ。県下の環濠集落では、環濠のまま残っているのは約2割で、あとは部分的に濠が残っている「有濠状態」だと聞いたことがある。
若槻は興福寺領だったので「春日若宮おん祭」とも深い関わりがある。当地の加奥家は古くからの役宅(荘園に派遣されて管理する役人)の家柄だ。天満神社の宮座であり代々、同家の女性は巫女(みこ)を務める。おん祭の大宿所祭の御湯立(みゆたて)神事の作法を継承していたのも加奥家である。
中島さんは自治会長時代には大和士(やまとざむらい)に扮してお渡り式に加わったという。環濠集落は、奈良盆地の農村集落の典型である。維持・管理は難しいと思うが、この歴史的美観はぜひ維持・継承していただきたいものだ。=毎月第4週連載=
「濠に向かって家が傾く」とは初めて知ったが、よく「ボウフラがわく」「子どもが滑り落ちる」「掃除が大変」などと聞いたことがある。だからもう環濠は2割程度しか残されていないのだ。しかし環濠集落は奈良盆地の「歴史的風致」であり、大切な遺産である。ぜひ子々孫々まで残していただきたいと願う。中島さん、2度にわたってご厄介をおかけしました、ありがとうございました!
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※トップ写真は最近修復された若槻環濠の一部、向こうは天満神社。これら3枚は4月9日の撮影
お邪魔したのは昨年(2017年)6月30日(金)に1回、本年4月9日(月)に1回。4月には環濠の一部がきれいに改修されていて驚いた。中島さんが自治会長時代に手がけられた仕事で、古地図を丹念に調べ、昔のままの形で復元された。これはいい、これでかつての若槻環濠をしのぶことができる。中島さん、良い仕事をされましたね。では記事全文を紹介する。
環濠(かんごう)集落というものを知ったのは、就職して奈良に移り住んでからだ。「奈良盆地には環濠集落が多く存在することで有名である。これまでの調査研究で環濠集落であると確認または推定できるものは二百前後存在するといわれ、大和郡山市、天理市、田原本町、橿原市に多く分布している。環濠集落は防御を目的に中世後期に作られたものが多く、城郭として位置づけられるもの、そうでないものに区分される。」(『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』)。
城郭的性格を備えた集落に若槻(わかつき)環濠(大和郡山市若槻町)がある。もとは若槻荘という荘園だった。豊富な史料が残されているので、環濠の形成過程が判明している。薬師寺伝教院領を経て鎌倉後期に興福寺の大乗院領となった。
もとは散村だったが、室町時代にはおそらく自衛の必要から集村化が進み、濠(ほり)や溝が掘られ、秀吉が天下を統一した後の文禄4(1595)年には、完全な環濠集落となった。それが今の屋敷割と環濠に受け継がれている。環濠の内外を結ぶ道が1ヵ所しかないという堅固な集落である。
若槻環濠はJR郡山駅から徒歩約20分。稗田(ひえだ)の環濠は若槻の北西、番条の環濠は南西にある。若槻町にお住まいの中島健さん(67歳)にお話をうかがった。
中島健さん。これら2枚は2017年6月30日の撮影
「若槻環濠は東西約200㍍、南北約70メートル。西の天満神社のあたりの濠がよく残っています。最近、古地図に基づく改修工事を終えたばかりです」「防御と風よけのための竹やぶも残っています」「濠の水を灌漑(かんがい)用水として使っている集落はよく濠が残っていますが、若槻には大きなため池が3つもありましたので、その必要はありませんでした」。
濠に面したお家は大変だという。「濠に向かって家が傾くのです。コンクリートで補強してもダメです。扉が閉まらなくなってすきま風が入ってきたり、鍵がかけられないなどのトラブルが出てきます。だから近年は濠を埋めてしまう集落が多いと聞きます」。
なるほど、歴史ある環濠を残すのは大変なのだ。県下の環濠集落では、環濠のまま残っているのは約2割で、あとは部分的に濠が残っている「有濠状態」だと聞いたことがある。
若槻は興福寺領だったので「春日若宮おん祭」とも深い関わりがある。当地の加奥家は古くからの役宅(荘園に派遣されて管理する役人)の家柄だ。天満神社の宮座であり代々、同家の女性は巫女(みこ)を務める。おん祭の大宿所祭の御湯立(みゆたて)神事の作法を継承していたのも加奥家である。
中島さんは自治会長時代には大和士(やまとざむらい)に扮してお渡り式に加わったという。環濠集落は、奈良盆地の農村集落の典型である。維持・管理は難しいと思うが、この歴史的美観はぜひ維持・継承していただきたいものだ。=毎月第4週連載=
「濠に向かって家が傾く」とは初めて知ったが、よく「ボウフラがわく」「子どもが滑り落ちる」「掃除が大変」などと聞いたことがある。だからもう環濠は2割程度しか残されていないのだ。しかし環濠集落は奈良盆地の「歴史的風致」であり、大切な遺産である。ぜひ子々孫々まで残していただきたいと願う。中島さん、2度にわたってご厄介をおかけしました、ありがとうございました!
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