名著のほまれ高い西郷信綱著『古事記の世界』(岩波新書)を読んだ。短距離通勤の車中で読んでいたので、通読するのに2週間以上かかってしまった。読み終わったあと当ブログで紹介しようと、1週間かけてもう1度読み返した。おかげで古書店で買った本は、付箋(緑と赤の2種類)と蛍光ペン(黄と緑の2色)で、悲惨な状態になってしまった。読んでいる途中でN先輩に「これは良書ですよ」と申し上げると、早速その足で買い求め、わずか2日で読み上げたそうで、これはとてもマネできない(ただし2日間とも、午前1時まで読んでいたとのこと)。
版元の紹介文は《
イナバの白兎,国引き,オロチ退治,海幸山幸,天の岩屋戸の話など,古事記は私たちにとって親しみ深い古典である.著者は,古事記伝の宣長という縦糸と,イギリス社会人類学の横糸とを交錯させる新しい問題意識に立って古事記を読み解くことにより,その本質を明らかにした.新しい光に照らし出された古事記の豊かな世界がここにある》。では序文から順に、要点を紹介する(以下、原著本文の「傍点」部分は
太字で表記した)。
序 古事記をどう読むか
《一般に古事記をかなり身近かなものに感じる傾向がある。しかしそこには、それだけ観念的なひとり合点、常識的な早呑みこみが種々と多いわけで、むしろこれらが古事記の真の理解をさまたげる蔽いになっていると見て過言であるまい。ほとんど制度化しているともいえるこの親近感や自明性をカッコに入れ、もっと
根本的に読み直してみようとしてみるがいい。そのとき古事記は、なかなか面白いと同時にきわめてわかりにくく、異様で、挑戦的でさえある作品として私たちの面前にあらわれてくるはずで、黄泉(ヨミ)の国の話、天の岩戸ごもりの話、天孫降臨の話等にしても、またスサノヲとは何か、出雲とは何か、あるいは神武天皇とは何かという、そのどれをとっても、みなすこぶる難解な話題であり、それらをわかったかのように思っていたのは実は観念や常識による誤解にすぎず、つまりは理解せずに適当に説明しようとしていたのだということに気づくだろう》(P3)。
《私のめざすのは、古事記のなかに住みこむこと、そしてその本質をその本文のふところにおいて読み解くことであるが、そのとき私たちは、日ごろ漠然と考えているより遙かにゆたかな意味が古事記のなかに蔵されているのを見出すはずである》(P14)。
1.神話の言語
《「葦原はたんなる客観的な
自然ではなく、古代人の生活とかかわりを持つ
環境、つまり人間がまわりにおいて出あう境域であった。(中略) この基礎にあるものこそ、村落生活における中心と周辺、すなわち人が住む地域と葦の茂る周辺地帯との対立だったのではあるまいか。(中略) が、この対立は同時に統一でもあるわけで、さらにこの周辺部の外側には、死者たちの住む海または原始林地帯がひろがっていたはずで、かかる生活構造の垂直化されたものが、高天の原、葦原の中つ国、黄泉(ヨミ)の国という上中下三重層の神話的世界像に外ならない》(P26)。
2.神話の範疇
《「葦原中国(あしはらのなかつくに)」という語は、ふつう解釈されているごとく日本国の古称ではなく、高天の原からの神話的命名であり、しかも高天の原から見た場合、これは葦の葉の不気味にざわざわと「さやぐ」世界、つまり、荒ぶる神どもが棲息し、混沌と無秩序とに蔽われた未開の地であり、宗教的にいえば聖ならざる、俗なる、醜き世界であり、だからこそ、その棟梁大国主は葦原醜男(しこお)とよばれた》(P32)。
《出雲にしても、神代の物語でそれが決定的ともいえる役を演ずべくわりつけられたのは、宮廷にまつろわぬ勢力がたんにそこに蟠居していたからではなく、その勢力が葦原の中つ国という1つの世界を代表するものと神話的に考えられていたからである。そしてこのことにかんし1ばんものをいったのは、大和が東であり、この東としての大和から見て出雲が海に日の没する西の辺地にあたっていたという宇宙軸の存在であったと思う》(P33)。
《香具山はまた高天の原にあるとされていた。(中略) 大和の香具山は天への昇り口であり、祭式的にはそこから直ちに高天の原に至るとかつて信じられていたことと同義である。(中略) 代々、香具山の界隈に位置する大和の宮廷そのものが、垂直に高天の原につらなる聖なる中心点と考えられていた》(P35)《「天降りつく、天の香具山」(万葉)という句があり、また伊予国風土記逸文には、伊予の天山(アメヤマ)と大和の香具山とは、それぞれ天から降ったとき2つにわれた片端だと伝える》(補注P202)。
《中心としての聖所は、大和王権の政治的発展、天たかき高天の原の形成とともに分化し、さらに東に進み、日出ずる海にじかに接した伊勢の地にあらたな定着をとげるに至るわけで、伊勢神宮の位置が香具山のほぼま東にあたるのは、この宇宙軸の意味するところを考えにいれなければ解けないだろう》(P36)《出雲が雲にとざされた、日の没する西の果てなる国であるのにたいし、伊勢は東の海からじきじきに日ののぼるウマシ国であった。前者が暗の死者の国に接しているとすれば、後者の接するのは陽としての高天の原であった》(P40)。
《宮廷が大和を支配するにはその国つ神を順化せねばならなかったわけで、初期宮廷に天つ神・天照大神と国つ神・倭大国魂神とが相殿にしてまつられたのもそのためである》《そして肝腎なのは、今や倭大国魂は、たんに大和の地の魂であるにとどまらず、オホナムヂすなわち出雲の大国主神の荒魂、または出雲大社の別宮でもあったという点である》(P42)。
以下の「範疇表」(P44)は、スグレモノである。
甲類 高天の原(a) 天つ神(b) 伊勢(c)日向(ヒムカ d)大和(e)
乙類 葦原中国(a')国つ神(b') 出雲(c')襲(ソ d') 熊野(e')
乙'類 黄泉の国・根の国(a'')
3.黄泉の国
《神話は、たんなる信仰者というより行為者としての古代人の生みだしたものであった。死についていうなら、死体を安置したアラキでの行為が、死を創造するとともにこの黄泉の国の物語を生み出す基盤ともなっている》(P59)《死のケガレが古代の日本で厳しく忌まれた例は、ほとんど、枚挙にいとまがなく、神道とはケガレを忌む宗教であったといって過言でない》(P61)
4.須佐之男命
スサノヲは『古事記』では建速須佐之男命(タケハヤノスサノヲノミコト)と表記される。《タケハヤのハヤは、チハヤブルやハヤトのハヤと同語で、勇猛とか狂暴とかの意である。スサノヲのスサがスサプという語への連想をもっているのも否定できない。ただ、スサブからスサノヲという名が出てこれるかどうかは語学的に疑問であろう。出雲にはスサという地があり、出雲風土記でもスサノヲと関係づけているから、スサの地の首長という意にも解される。語源的には恐らくこの方が正しいといえよう。しかしそれが同時にスサブという語への連想をとりこんでいった過程を考えねばならぬ》(補注P205)。
スサノヲの犯した罪が《「
天つ罪」とよばれたのも、高天の原で犯された罪、すなわち祭式にかかわるものであるからにちがいない。現に大嘗祭は、後に見る通り、高天の原を舞台としておこなわれるところの祭であったから、それにたいする侵犯はまさに「
天つ罪」とよばれるにふさわしいといえる。天つ罪、国つ罪はたんなる対句的修辞ではない。スサノヲの「天つ罪」は、祭式の聖性にたいする犯しであったのだ》(P69)。
日本書紀の注記(書紀一書)に《高天の原を追われたスサノヲは「青草を結束(カタ)ねて笠蓑(ミノカサ)」とし、雨のしょぼふるなかをさすらったとあるが、それはさながら、大祓の贖物(アガモノ)たる蒭霊(クサヒトカタ わら人形)が水に流されて行く姿を彷彿させるではないか》(P71)。
《さて高天の原を追われたスサノヲのおりたったのは、出雲の肥の川上の鳥髪という地である。ここで例の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の話になるわけだが、この話におけるスサノヲは、根の国の主としてのスサノヲとは、いちおう分けて考える必要がある。これは別々の伝承であったのが1神格に統合された姿である》(P73)。
《いま1つは、スサノヲが大蛇を退治して結婚したのがクシナダヒメであったという点である。書紀に奇稲田姫と記しているところからも明らかなごとく、この名は水田耕作とふかい縁をもつ。つまり、原始の水の霊に巫女として仕えた処女は、今や新しい豊饒霊の化身たるスサノヲに助け出され、その妻となることによって、稲田の奇(ク)しき稔りを予祝するということになる。果たしてスサノヲは、出雲の須賀の地に宮作りし、「八雲たつ、出雲八重垣、妻籠(ゴ)みに、八重垣つくる、その八重垣を」とめでたく聖婚歌を以てうたいおさめるわけだが、ここには紛れもなく稲の豊饒祭・季節祭の記憶が刻印されている》(P76)。
5.天の岩屋戸 ― 太陽の復活
「岩屋戸」のことを「岩窟」と思いこんでいる人が多いが、本居宣長の《古事記伝に「必ずしも実の岩窟(イハヤ)には非じ、…ただ尋常の殿をかく云るなるべし」とあるのが正しいと思う》(P79)。
「天の岩屋戸ごもり」の話は、冬至の頃に営まれる鎮魂祭と関連づけられる。しかも鎮魂祭の翌日が大嘗(新嘗)祭の日である。このように神話の言葉は《抽象的空間で発せられたのではなく、ひろい意味での祭式的状況において発せられたのであり、少くとも古事記の神代の物語には、何らかの祭式行為と関連を有し、それをモチーフ ― 原因ではなく ― としている様相が陰に陽に見てとれるものが多い》(P81)。なおモチーフとは「題材」のことである。
6.大国主神
因幡の白兎に治療の方法を教える大国主神は《まさに巫医(medicine man)としての原始的な王の姿である》(P93)。巫医とは「呪術医」のことである。
《オホナムヂ(大国主)を主役とするこの1まとまりの説話が書紀にのっていないことは前述した通りだが、こう考えてくると、それが決して気まぐれや後人の追加によって古事記のなかにもぐりこんだものでないゆえんがわかる。やがて高天の原から天孫降臨 ― 後に見るようにこれは即位式=大嘗祭における天皇の誕生ということの神話的反射に外ならぬのだが ― がおこなわれるのとまさに対応して、あるいはその前提として、葦原の中つ国を
うしはく多くの国主たちは、出雲の大国主を核として統合収斂されねばならなかったのであり、そういう大国主の誕生をかたろうとするのが右の説話でめった》(P100)。
《この神が多くの名を持ち、また書紀一書に181人もの子をもつとあるのも、かかる統合過程を示す。俗に神無月には全国の神々が出雲に集まるというのも、この統合過程の俗信化したものかも知れない。神無月(10月)は、大嘗祭のための物忌みの月であった。だから大国玉という名は、大国を領するものの意であるよりは、日本書紀伝にいうごとく、多くの国主を統べあわせた神という意であったと思う。大国主が国作りするとともに国譲りする神であるわけが、かくして理解できるはずである》(P101)。
大国主の国譲りとは《領土権はゆずって祭祀権は保持する、が、その神は延喜式神名帳に見られるごとく宮廷の宗教体系のなかに登録組織されることによって地方的独立をうしない、中央からの班幣にあずかって宮廷を守護する神に外転する。政治と宗教とは、このようにたがいに包みあう関係にあった》(P111)。
8.天孫降臨
《降臨の地がなぜ筑紫のヒムカであったかという問題にしても、イザナキが黄泉の国のけがれをはらうためミソギしたのが筑紫のヒムカであったのと同様で、そこにはやはりヒムカシ(東)という宇宙軸が生きているといわなければならない。だからそれは神話上のヒムカであって、必ずしも現実の日向の国ではなかった》(P141)
《降臨につき従ったのは、中臣の祖アメノコヤネ、忌部の祖フトダマ、猿女の祖アメノウズメ、鏡作の祖イシコリドメ、玉作の祖タマノオヤ等、あわせて五伴緒(イツトモノヲ)である。これらが天の岩屋戸の前での祭にあずかった顔ぶれと同じなのは、天孫降臨と天の岩屋戸とが実は同根の話であるからである。5章でのべたところと考えあわせるならば、このことは容易に納得される。いわば同じ大嘗祭が、冬至の太陽の復活を主にする話と、王の誕生すなわち即位を主にする話とにわれて説話化されたのだ。それにしても、他の四氏の祖にくらべてこの2つの話でのアメノウズメの活動は、とくにいちじるしいといわねばならない》(P141)。
《ウズメが特殊な巫女であることは、天の岩屋戸の前での狂おしい神態を見るだけでわかるが、ここでもウズメは「いむかふ神」「面勝(オモカ)つ神」、書紀一書では「目勝つ者」となっている。どれもぽぼ同じ意で、かの女の目の威力をかたったものと思われる。シャーマンの目はきらきらと光っている点で常人とちがうことが、シベリヤのシャーマンの場合にも指摘されている》(P142)。
《太陽を象徴する天照大神という神が伊勢にあらたに定着するには、多少の政治力の後盾さえあればさほどむずかしいことではなかった。むしろ新たな輪光につつまれたこの神の祀りに従属的にではあれあずかれることは、地方土豪には1つのほまれとうけとられたであろう》(P149)。ウズメ(猿女)の故郷は伊勢で、猿田彦とは兄妹(または姉弟)であった。《ウズメは天照大神(=ヒルメ)がおのれに吸収しなければならなかったみずからの地方的原始形態であり、したがってウズメから天照大神への道は、サルメすなわち田の神の妻が、ヒルメすなわち日の神の妻に吸収される道であった》(P150)。
9.日向3代の物語
《なぜ、いわゆる天孫降臨は大和の地になされず、ところもあろう最辺境の筑紫の地を撰んでなされたのか。そこにはここにヒムカがあったからである。といってそれは、実在の日向の国と必ずしも同じなのではなく、神話的に解釈された日向、すなわち日に向かえる地、さらにいいかえれば伊勢の延長または変形としてのヒムカであった。ヒムカは、高天の原や葦原の中つ国などと同様1つの神話的な範疇なのであり、いろいろの混乱が生じるもとは、神話的な範疇に外ならぬものを実在化したり歴史化したりしようとするからである》(P158)。
《天孫降臨が南九州の地に行われたのは、そこがヒムカであったからだといったが、隼人がそこに棲んでいたからだとこれはいいかえることもできる。隼人の棲むソ(=襲)の国はヒムカと神話的に表裏対応し、それぞれ切りはなせぬ関係にあるという点で、実は両者は1つのものの両側面であった。高天の原と葦原の中つ国、伊勢と出雲等々の二元的対立が、大和における王権の全国的統一過程の弁証法的表現であったように、ヒムカとソも実はこの1つのものの2つの側面に外ならず、現に降臨第1号のニニギは、隼人の女と聖婚をおこなったのである》(P162)。
ウガヤフキアヘズは、ホオリ(山幸彦)と海神(ワタツミ)の娘である豊玉姫の子である。出産時、豊玉姫は八尋(やひろ)ワニの姿になってウガヤフキアヘズを産んだ。ウガヤフキアヘズは、豊玉姫の妹の玉依姫(つまり叔母)と結婚し、神武天皇が産まれた。《この話の主眼は、やはり水の神の女との聖婚、それによって王たるべき子が
異常なる誕生をとげるというにある。そしてこのウガヤフキアヘズは豊玉姫の妹の玉依姫を妻として四子を生み、神武天皇もその1人なのであるから、つまり日本の初代君主の母はワタツミの女であったことになる》(P165)。
10.神武天皇
《神武東征は、歴史的事件ではなく、国覓(クニマ)ぎの物語化されたものとして読むことによってのみ正確に理解される。(中略)国覓ぎ、すなわち都とすべき吉き地を求めるのは、国ぼめや国見と一連の即位儀礼の一部であった 》(P170)《イハレビコ(=神武)のなしつつあるのは、東征という名の国覓ぎであるし、この国覓ぎにおいて熊野は大和と対立しそれと一対をなす神話上の範疇であった》(P174)。これは上記「2.神話の範疇」で見たとおり、大和(e)⇔熊野(e')という関係である。
《饗宴歌であるとともに戦闘歌でもあるという、こうした独自な性格を久米歌にあたえた場こそ、大言祭の豊の明りに外ならない。つまり久米歌=久米舞は、この祭のうちあげの席で演じられた一種の模擬戦(mock combat)であったわけだ。模擬戦というこの概念は、神話の考察にとってすこぶる重要である。スサノヲ追放の物語の基礎にあるのも、罪にたいする模擬戟であり、大嘗祭じしん、冬と春、死と生とのmock combatを軸とする一つの神秘的な劇であったし、一般に祭式とは、自然にたいする人間の想像上のたたかいを表現する模擬的にして比喩的な行為であったといえるだろう》(P180)。
《神武天皇の大和平定にかんする記述のしかたそのものから見ても、右の推定はほぼ動くまい。そこで特徴的なのは、討伐されるべき敵が荒ぶる神、または
もの、すなわちデーモンとして扱われている点である》(同)《問題は、神武が架空の人物かどうかではなく、
いかに架空であるかであって、神話か歴史かという争論は次元が絶望的に低いと思う。神武は大嘗祭、いいかえれば代ごとにおこなわれる即位式=季節祭の主役が、物語の主役に脱化してくるというかたちで作られた人物なのである》(P181)。
《荒ぶる神どもをことむけ、まつろわぬ人どもを平らげ、イハレビコは「畝火の白檮原(カシハラ)宮に坐しまして天の下治(シ)らしめし」(記)た。これは日向に発した国覓ぎの帰結である。「天の下」という日本語はEmpire(エンパイア)を意味する漢語をもとに造ったことばで、日向をたつときの言にすでに「何地に坐さば、平らけく天の下の政を聞しめさむ。猶東に行かむ」(前引)とあったのを想い起さればならない。この語は神武の物語の主題が何であるかを示す鍵ことばである。その主題とはいうまでもなく、古事記へんさんの当代までつづく、天皇が大和の地に都し「天の下」すなわち大八島国を統治しているというこの政治体制がいかに成ったか、その起源と由来をかたることにあった》(P182)。
結び 古事記の成立をめぐって
《すでに高度の成熟をとげていた大陸古典文化の流入は、日本がまだそのなかに生きていた神話的伝統を急速にほりくずし浸蝕する力としてはたらいた》(P191)《ここにはかなり微妙な地理的・歴史的事情もからんでいたはずである。たとえば、もし日本が朝鮮と同じように中国と地続きであったとしたら、神話伝承は結集されるいとまさえなく、中国文化の波にどっとおし流されてしまっていたであろう。また反対に、その波がもっとおそく、もっとゆるやかにやってきていたとするならば、万葉の抒情詩の代りに神話や叙事詩という野の花がもっとゆたかに生い立っていたであろうと考えられる。むろんこれは想像にすぎないけれど、こうした想像によって逆に古事記の本質を定着させることができる》(同)。
《古事記が野の花としての神話であるというより多分に政治色に染められた国家的神話へと変容されているのは、また同じことのちがったあらわれだが、地の散文と歌謡との接着がきわめて不充分なままであるのは、急速に崩壊しつつあった古い神話伝承をあらたに上から、しかも相当あわてて編成し直す必要にせまられた消息をものがたる。宮廷巫女・稗田阿礼と学者官僚・太安万侶とい
う甚だ奇妙なとりあわせによって古事記が成ったことにも、やはりこの同じ足どりを読みとることができる。(中略)7世紀日本の
特殊がいかに烈しく大陸文化の
普遍にゆさぶられていたかがうかがえる》。(P192)《もはや野の花としての神話ではなく、イデオロギー的に再構成されたものではあるけれど、古事記はとにかく依然とまだ神話以外のものではない》(P193)。
要点は、以上である。読み始めると面白くて、黄色の蛍光ペンを引きまくったが、これらをすべて引用するとほとんどまるごと1冊貼りつけることになるので、あとでバッサリ削った。「観念的なひとり合点、常識的な早呑みこみ」を排し、「古事記のなかに住みこむこと」で本質が見えてくる。「葦原中国」という言葉の解釈(15ページを割いている)や、天孫降臨と天の岩屋戸ごもりの類似性の指摘など、良質なミステリーを読むようなサスペンスに満ちあふれている。
私は茶色く変色した古本で読んだが、幸い最近復刊されたので、簡単に入手できる。来年の古事記完成1300年を目前に控え、ぜひお読みいただきたい名著である。