tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

飛鳥宮跡の北側に、大型の建物跡が出土!

2024年11月29日 | 奈良にこだわる
昨日(2024.11.28)の新聞各紙に、飛鳥宮跡の北側で大型の建物跡が見つかったと報じていた。毎日新聞奈良版〈内裏? なぜ「内郭」の外 飛鳥宮跡北側に大型の建物〉によると、
※トップ写真と地図は、毎日新聞の記事サイトから拝借した

明日香村の飛鳥宮跡北側の7世紀後半の遺構が、東西35.4メートル、南北15メートルと宮最大の建物跡であることが確認された。27日発表した県立橿原考古学研究所(橿考研)は「天武、持統両天皇の住まい『内裏(だいり)』と考えられる」とするが、宮殿中枢「内郭」外側に位置しており、なぜ塀の外に重要建物があるのか謎は深まっている。【皆木成実】

遺構は2009年度に見つかり、22年度にも関連遺構を発見。今回の発掘で建物南東角部分の柱穴計14カ所が見つかり、推定だった建物規模が確定した。柱列は二重にあることから寺院建築などにみられる四面庇(ひさし)付き建物とみられる。東西の端だけ柱間が中間部より広いという平城宮内裏と同じ特徴もあり、南向きに建てられている構造や規模を考えても、内裏の可能性が高いという。



飛鳥宮の内郭外には南東側にも「エビノコ郭」と呼ばれる区画がある。中央の建物跡は東西29・2メートル、南北15・3メートルと今回の建物に次ぐ規模で、国家儀礼の場「大極殿」とみられている。飛鳥宮内郭には天皇の御殿「内安殿(うちのあんどの)」、臣下が控える「外安殿(とのあんどの)」、酒宴の場「大安殿(おおあんどの)」とみられる建物跡があるが、いずれも今回の大型建物より規模は小さい。

藤原宮以降は内裏や大極殿は内郭内の中央部に配置された。また宮のモデルとなった古代中国の都城は異民族の侵入に備え、高い城壁で中枢部を守る厳重な構造だった。鶴見泰寿・名古屋大教授(考古学)は「藤原京遷都を控えた仮の内裏だったため、内郭の外の空いた場所に建てたと考えられる。今後の調査による解明が期待される」と話している。現地説明会は11月30日と12月1日の午前10時~午後3時。問い合わせは橿考研(0744・24・1101、平日のみ)へ。


「藤原京遷都を控えた仮の内裏だったため、内郭の外の空いた場所に建てた」という説には、説得力があるように思う。皆さんは、ドー思いますか?

毎日新聞奈良版(2024.11.28 付)


奈良新聞(同)
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奈良好きによる奈良好きのためのマニアックツアー(by 毎日新聞奈良版「支局長からの手紙」)

2024年08月14日 | 奈良にこだわる
一昨日(2024.8.12)の「支局長からの手紙」(毎日新聞奈良版)のタイトルは、「酷暑より熱きもの」だった。奈良支局長の井上大作さんが、「ホテルアジール・奈良」と、「なら・観光ボランティア団体ガイドの会 朱雀」が共催する4時間半のウォーキング・ツアーに参加され、レポートされていた。記事には、

きっかけは1枚の報道資料です。「奈良好きによる奈良好きのためのマニアックツアー」。ならまち周辺を半日歩き、奈良漬けとしょうゆの製造現場を訪問。日本酒を飲み比べる「醸(かも)してめぐる奈良」とあります。発信元は、奈良市の「ホテルアジール・奈良」。昔から工場見学や職人さんの仕事場を見るのが大好きです。しかも資料からむんむんとした熱量が伝わってきます。早速、同行取材をお願いしました。

地元の人は「うまいものなし」発言をどう捉えているのでしょうか。同行していたホテル支配人の井場眞粧美さんに聞くと、「奈良には歴史があり、おいしいものはたくさんある。SDGs(持続可能な開発目標)やガストロノミーにも取り組んでおり、発言はとても悔しい」。奈良に来る前、私は同僚から初めて発言を聞きました。でも実際に住んでみると、垂涎(すいぜん)の地場逸品にあふれています。

記事内容は、画像をご覧いただきたい。ツアーの全貌が、「Narakko」のサイトに出ていた。奈良屋本店「奈良漬」→井上本店「イゲタ醤油」→今西清兵衛商店「春鹿」→巡ってきた食品を味わい尽くす特別献立「和食ランチ@ホテルアジール・奈良」というコースだ。

このようなツアーをきっかけに、「奈良のうまいもの」を知り、口コミなどで広げていただきたいものだ。井上支局長、良いレポート、ありがとうございました!
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驚き!奈良県の1人当たりGDPは、日本で最下位だった!

2024年07月28日 | 奈良にこだわる
人前で奈良県観光の話をすることになり、統計数値に目を通していた。そこで発見した。なんと、奈良県の1人あたりGDPは、全国で最低(47位)だった、Oh My God!(統計数値は、こちらのサイトをご参照。) GDPとは何か、三菱UFJモルガン・スタンレー証券のWebサイトには、
※トップ写真は、なら燈花会で撮影

GDPとは、「Gross Domestic Product」の略で、「国内総生産」のことを指します。1年間など、一定期間内に国内で産出された付加価値の総額で、国の経済活動状況を示します。付加価値とは、サービスや商品などを販売したときの価値から、原材料や流通費用などを差し引いた価値のことです。

極めてシンプルに例えるならば、付加価値とは儲けのことですので、GDPによって国内でどれだけの儲けが産み出されたか、国の経済状況の良し悪しを端的に知ることができます。


つまり、1年間に奈良県の産業が生み出した「儲け」(付加価値)を奈良県民の人口で割ったものが、1人当たりGDPである。これが日本で最低ということは、奈良県が他府県に比べて、儲けていない(十分な付加価値を生み出せていない)ということになる。県の発表では、工場誘致などが順調に進んでいるということだが、まだまだ足りない、ということか。

観光の分野では、「観光消費額が少ない」とよく言われるが、全国最低となると、製造品出荷額も商品販売額も、相当少ないのだろう。うーん、これは何とかしなければ…。皆さん、ご存じでしたか?
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大和の伝統野菜「大和三尺きゅうり」

2024年07月20日 | 奈良にこだわる
水曜日(2024.7.17 付)の奈良新聞「新大和の食模様」欄に、〈成長よく、病害虫にも強く 伝統野菜「大和三尺きゅうり」 「奈良漬」の要望に応えて復活〉という記事が出ていた。
※トップ写真は、的場輝佳さんの講演の様子(2024.3.12 撮影)

NPO法人「奈良の食文化研究会」さんが交代で執筆されている欄で、この回は、奈良女子大学名誉教授の的場輝佳(まとば・てるよし)さんが担当された。

詳細は記事の画像を見ていただきたいが、「大和三尺きゅうり」は、1890年(明治23年)に京都府相楽地方から奈良県添上郡狭川(さがわ)村(現・奈良市)に導入された品種を農家で交雑育種して、大正末期から昭和初期にかけて、県農事試験場(現・農業研究開発センター)で優良品種を選抜。

戦後、大宇陀の芳岡一夫さんが県農事試験場の協力を得て、優良系統を選抜・固定することに成功し、県内に普及していく。しかし、昭和40年代後半から「大和三尺きゅうり」の栽培は激減する。

一方約10年前、森奈良漬店の「地元野菜で奈良漬を」との思いを知り、葛城市の永座(えいざ)農園が栽培を始めた。代表者の永座孝泰さんは「奈良の野菜は、奈良の土壌で育てることで、野菜本来の風味が出る」…。

おいしい奈良漬ができるまでには、こんな生産者の陰のご苦労があったのだな、と感銘を受けた。

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追悼 田中修司さん

2024年07月18日 | 奈良にこだわる
「柿の葉すし本舗たなか」(五條市住川町1490番地)創業者の田中修司さんが、お亡くなりになった。1930年のお生まれなので、今年で94歳。私は以前から存じ上げていて、朝日新聞奈良版に27回にわたって連載された「人生あよによし」(2012.3.25~4.21)はすべて拝読して、当ブログに「総集編」を掲載したこともある。

本業だけでなく、社会貢献活動にも熱心に取り組まれた。昨日(2024.7.17)は甘利治夫さんが、奈良新聞のコラム「國原譜(くにはらふ)」でも紹介されていた。以下、全文を紹介する。田中さんのご冥福をお祈りいたします。

「こんなにうまいものは初めてだ」。駆け出しの時に、五條支局を担当して1週間ほど経ったころ、上司からの差し入れで「柿の葉すし」を食べた。関東で生まれ育ったので、こういう食べ物があることさえ知らなかった。五條市に本社を置く「たなか」の製品だ。その創業者の田中修司さんが亡くなった。

同市の初の名誉市民でもあり、商工会長を務めたほか郷土の歴史的な文化活動に奔走してきた。研究熱心で一途な人柄はよく知られるところだ。弊社が主催してきた、今の奈良マラソンの前身でもある「奈良春日大仏マラソン」を30年近くも支援してくれたのも田中さんで、全国から来るランナーを見る目が温かった。

また俳人・藤岡玉骨の生家を復元し、管理運営を行うNPO法人を立ち上げ、文化活動を精力的に取り組んできた。明治維新の先駆けとなる天誅組もそうだ。五條市が舞台となりすぐに鎮圧されたが、その保存伝承を願って組織も設立した。権力に立ち向かった志士らの姿に、一徹な田中さんは己れの生きざまを見たのかもしれない。合掌。(治)
コメント (3)
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