阿部善雄著 『最後の「日本人」 浅河貫一の生涯』を読了した。
二本松出身の愛国の歴史学者、朝河貫一博士については詳しく知らなかった。
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その後、東京専門学校を首席で卒業した朝河貫一は、米国へ留学するが、その渡航費を川俣の同級生、資産家味噌醸造業の「たまりや」から借用している。
40年も前、私は川俣で6年間、しかもその「たまりや」渡辺弥七さんの離れで借家住まいをしていた。博士のことを知らなかったとは言え、物心両面で貫一を支えた弥七さんのお父様(熊之助)が貫一の同級生だったわけだ。
その後、ダートマス大学で学び、エール大学大学院に進んだ。卒業後は母校ダートマス大学で、東洋史、東洋文明などを講義している。日露戦争勃発時、愛国心から英文の『日露衝突』を出版、祖国の危機を弁護した。戦後の日本は、朝河の主張する「清国の領土保全」「満州、韓国における列島の機会均等」とは全く異なる道を歩むことなった。その後、朝河は、日本の孤立、日米の衝突の危機を『日本の禍機』に著している。
その後も朝河の不安は的中、軍部の暴走は止まらなかった。どうしても避けなければならない日米戦争、彼はルーズベルト大統領に、天皇へ平和を呼びかける親書を送ることを提案し、その草稿を書いた。だが、不幸にもその親書が大統領に届く前に、真珠湾攻撃が起こってしまった。そんな息詰まる歴史の流れが書かれていた。
在米約50年、その間帰国はたったの2回、ふるさとの父、母の思いは如何ばかりだったことか。ふと、同時代に生きた野口英世の人生と通じるものを感じた。
貫一の名は論語、「吾ガ道、一ヲ以テ之ヲ貫ク」から命名された。折々の父の励ましの手紙には胸が詰まるものがある。
辞世と思われる「精進」と言う長歌が残されている。(左)
キーボードをたたいていると、二つの祖国で貫一がこころに描いた平和への思いが巡った。 近いうちに。朝河貫一ゆかりの地を訪ねてみたいと思っている。
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