ラジオの宗教の時間で「則天去私と良寛」(3/4)を興味深く聴いた。
漱石研究家の安田未知夫氏が、良寛の思想を学ぶことなくして漱石の「則天去私」はあり得ないと、いろいろな資料を基に話されていた。
深くは分からないが、聞きながら、「則天去私」の心境はまさに良寛の漢詩「騰々任天真」のことではないかと思った。大文豪も良寛に傾倒した時期があったのだ。
漱石の著書「硝子戸の中」の中に、良寛の心に通ずる文章が見られると言う。本棚の隅から学生時代に読んだ古い薄っぺらな岩波文庫を見つけてきた。良寛を思いながら、静かに読んで見たが良くわからなかった。所々に傍線が引いてあった。溌溂とした私の青春の頃、どんな思いで読んだものかと懐かしくなった。
大正5年に出た『文章日記』(新潮社)の扉に漱石が「則天去私」と揮毫し、その解説には「『天に則り私を去る』と訓む.天は自然である,自然に従うて,私,即ち小主観小技巧を去れといふ意で,文章はあくまで自然なれ,天真流露なれ,といふ意である。」とあるという。「則天去私」は更に弟子筋によって,我意に捉われない自然な生き方を理想とする人生観として解釈されていったようだ。
いつの時代にも自然に任せる生き方が求めら、またそうすることが難しいことを改めて感じた。
【広辞苑の「則天去私」】
「夏目漱石晩年の言葉。 小さな私を去って自然にゆだねて生きること。
宗教的な悟りを意味すると考えられている。また、創作上、作家の小主観を挟まない 無私の芸術を意味したものだとする見方もある。」
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