皐月晴上野朝風 17
上野寛永寺と人々の交流
明治23年6月19日読売新聞
輪王寺の宮 従者の行方
目下その事跡を新富座で上演している。上野戦争の時、東叡山の座主である輪王寺の宮(今の北白川の宮殿下)は弾丸が雨のように降る間を危険を冒して戦地から落ちて行く時、宮とお供した坊主三名にて辛くも南葛飾郡下尾久村まで守護し参らせたが何分人目を引き怪しまれる恐れがあるので三名は大いに悩み村の百姓小原長兵衛なる者に頼み事情を告げ物置の隅を借り受け数日間ここに潜ませた。
それから泰平の世になって輪王寺の宮は北白川の宮と御改称あるなど百事新しくなった。かの尾久村の長兵衛は百姓のゆえ変わりがなく今も丈夫で暮らしているゆえ先頃新富座を見物したほどである。北白川の宮はもとより雲の上の人になってしまったのでこのような時、一時は家のうちに起居していたことを連絡することもなく素知らぬ顔で過ごしていた。一つ不思議なことは長兵衛のセガレに彦次郎と呼ばれる26歳の息子がいるが上野戦争の頃ようやく一人で歩くようなった頃で輪王寺の宮の隠れ家に握り飯などを運んだこともあったという。その後同村の田中某方へ養子となり、田中彦次郎と名前が変って近衛兵として勤めたこともあった。今は廻り廻って北白川宮の門番として勤めていると言うは珍しい奇遇と言う。
結局彰義隊は徳川家の問題でなく、上野寛永寺輪王寺宮とその周辺の住民との関係となっていて、戦争の時間も短く江戸のごく一部の歴史となって忘れ去られた。、福神漬の生まれる背景にはこんな事情があった。
上野寛永寺と人々の交流
明治23年6月19日読売新聞
輪王寺の宮 従者の行方
目下その事跡を新富座で上演している。上野戦争の時、東叡山の座主である輪王寺の宮(今の北白川の宮殿下)は弾丸が雨のように降る間を危険を冒して戦地から落ちて行く時、宮とお供した坊主三名にて辛くも南葛飾郡下尾久村まで守護し参らせたが何分人目を引き怪しまれる恐れがあるので三名は大いに悩み村の百姓小原長兵衛なる者に頼み事情を告げ物置の隅を借り受け数日間ここに潜ませた。
それから泰平の世になって輪王寺の宮は北白川の宮と御改称あるなど百事新しくなった。かの尾久村の長兵衛は百姓のゆえ変わりがなく今も丈夫で暮らしているゆえ先頃新富座を見物したほどである。北白川の宮はもとより雲の上の人になってしまったのでこのような時、一時は家のうちに起居していたことを連絡することもなく素知らぬ顔で過ごしていた。一つ不思議なことは長兵衛のセガレに彦次郎と呼ばれる26歳の息子がいるが上野戦争の頃ようやく一人で歩くようなった頃で輪王寺の宮の隠れ家に握り飯などを運んだこともあったという。その後同村の田中某方へ養子となり、田中彦次郎と名前が変って近衛兵として勤めたこともあった。今は廻り廻って北白川宮の門番として勤めていると言うは珍しい奇遇と言う。
結局彰義隊は徳川家の問題でなく、上野寛永寺輪王寺宮とその周辺の住民との関係となっていて、戦争の時間も短く江戸のごく一部の歴史となって忘れ去られた。、福神漬の生まれる背景にはこんな事情があった。