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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

覚王院義観の生涯 長島進著を読む

2008年12月14日 | 福神漬
覚王院義観の生涯 長島進著を読む
築地より文京区千石図書館まで遠征して、上野戦争時、東叡山寛永寺の執当職であった覚王院義観のことを書いてある本を読みに向かう。
 彼は今の埼玉県朝霞市の出身で縁あって東叡山に入った。慶應3年寛永寺の執当職つまり天台座主に代わり職務の代行を行う最高の地位についた。44歳であったと言う。ほぼ同じ時期に21歳の輪王寺宮もその地位に付いた。前例のない幕末に彼等は寛永寺を守らねばならなかったのである。
 慶應4年の鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜が江戸に戻り、謹慎ということで江戸城を出、寛永寺で蟄居することから彼等が歴史の騒動の中に巻き込まれることとなった。
 慶喜を助けるため、静岡に向うが適当にあしらわれた。一般にこのことから覚王院義観の心に変化が生じ恭順から主義主張するという方向に変化したと言う。しかしこの本によると彼は執当職を忠実にこなしていたという。明治になって彰義隊が悪役となったが輪王寺宮の処遇と上野戦争の戦犯との整合性のため彼に責任を負わせた歴史となっている。
 江戸の庶民は上野戦争には参加してなくとも、彰義隊の敗残兵を市中にかくまった行動を見ても密かに応援していて、明治23年の歌舞伎で上野戦争が上演されると桟敷席で涙を流しながら見ていた人が多かったと言う。
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