皐月晴上野朝風 23
引き幕を贈った松坂屋源七
明治23年5月興行の舞台で引き幕を贈った人は松源の主人であった。
洋画家小絲源太郎
明治20年(1887)下谷区上野元黒門町20番地(現台東区上野池之端)の老舗料理屋「揚出し」に生まれる。
料理屋『揚出し』
早朝四時から始めていて、お風呂に入れるというので人気があった。揚出しというものは豆腐を揚げたような簡単な物だったが値段も安かった。樋口一葉が吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)に引っ越したが夕方から人力車の音が頻繁になり、また早朝から吉原帰りの客の車の音に悩まされたという。吉原帰りの客が『揚出し』で一風呂浴び食事をして身支度して帰ったと言う。
舞台のセリフで雁鍋のあと吉原というのはこのような背景があった。
小糸源太郎随筆集から
松源の想い出
松源と揚出し
揚出しというのは本来、料理の名称だ。いや料理というほどのものでもない。油で揚げた豆腐を醤油で食うだけのものだ。熱いうちにに食べると満更でもないが、大してうまいとも思っていなかった。油あげや、なま揚にならないというのが、一家相伝の秘訣ででもあるように思われていたらしい。本家である松源桜は、徳川幕府全盛であった江戸時代、東叡山寛永寺参拝を口実にしたお歴々の遊び場所であったらしく、お供廻りは専ら揚出しで、といった具合だったものと思われる。
ブル専門の松源が早くつぶれて、プロの方だけが栄えていたのが面白い。松坂屋源七即ち松源である。
ブル専門とはブルジョア=裕福な人を対象としていた
プロとはプロレタリアの略か。貧しい人を対象としていた。
引き幕を贈った松坂屋源七
明治23年5月興行の舞台で引き幕を贈った人は松源の主人であった。
洋画家小絲源太郎
明治20年(1887)下谷区上野元黒門町20番地(現台東区上野池之端)の老舗料理屋「揚出し」に生まれる。
料理屋『揚出し』
早朝四時から始めていて、お風呂に入れるというので人気があった。揚出しというものは豆腐を揚げたような簡単な物だったが値段も安かった。樋口一葉が吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)に引っ越したが夕方から人力車の音が頻繁になり、また早朝から吉原帰りの客の車の音に悩まされたという。吉原帰りの客が『揚出し』で一風呂浴び食事をして身支度して帰ったと言う。
舞台のセリフで雁鍋のあと吉原というのはこのような背景があった。
小糸源太郎随筆集から
松源の想い出
松源と揚出し
揚出しというのは本来、料理の名称だ。いや料理というほどのものでもない。油で揚げた豆腐を醤油で食うだけのものだ。熱いうちにに食べると満更でもないが、大してうまいとも思っていなかった。油あげや、なま揚にならないというのが、一家相伝の秘訣ででもあるように思われていたらしい。本家である松源桜は、徳川幕府全盛であった江戸時代、東叡山寛永寺参拝を口実にしたお歴々の遊び場所であったらしく、お供廻りは専ら揚出しで、といった具合だったものと思われる。
ブル専門の松源が早くつぶれて、プロの方だけが栄えていたのが面白い。松坂屋源七即ち松源である。
ブル専門とはブルジョア=裕福な人を対象としていた
プロとはプロレタリアの略か。貧しい人を対象としていた。