年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

皐月晴上野朝風 26

2008年12月22日 | 福神漬
皐月晴上野朝風 26
まとめ
内田魯庵によると浅草は薩長によって代表される維新の江戸文化破壊が最も遅れて及んだのが浅草であったという。その浅草も新富座が出来、上野の駅が明治16年に開業すると次第に文明開化の影響が現れた。
 明治23年は彰義隊23回忌と第三回内国博覧会が上野公園で開かれると、その見物客を当て込み竹柴其水と五代目菊五郎は上野戦争を上演することとなった。しかし現存する当事者のためと演劇改良運動の影響で事実に沿っての芝居となって冗長の感があった。しかし当時の状況を知っている下谷の人々には懐旧の情を呼び起こし成功であった。
 下谷の特に上野山下の人々がこの歌舞伎を見に行った時、当然池之端の酒悦主人は見物に行ったと思われる。維新以前には上野山下には香煎を商う店が三軒あったが上野戦争で寛永寺がさびれ、上野公園として人々が戻ってくるまで苦難の年月であった。このような時新しい味の開発を明治10年頃からはじめ福神漬となった。
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