年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

小糸源太郎随筆集より

2008年12月15日 | 福神漬
小糸源太郎随筆集より
洋画家小糸源太郎の本が大田区の図書館に4冊(彼の生まれた台東区の図書館には一冊もない)もあっておかしいなと思っていたら、戦後大田区田園調布に住んでいた関係かもしれない。
その随筆から
『雁で思い出したが私が6~7歳の頃上野山下に雁鍋という家があった。大屋根のレンガに漆喰細工の雁が十羽ばかりならんでいた。伊豆の長八の作といわれていたが定かでない。京成聚楽ビルのあたりだったが2006年に取り壊された。
松源と揚出し
揚出しの本家は松源で両家がとなりどうしで繋がっていた。松源は江戸時代からの旧い会席茶屋で表の広小路から裏は池之端まで占めていた。そこでは明治時代池之端御前の福地桜痴・条野伝平さんが三遊亭円朝を呼んで落語をやっていたと言う。また円朝が落語速記を松源で行っていたとき、円朝は観客がいないと上手くいかないと隣に住んでいた人を招いて演じたと言う。
(江湖新聞-福地桜痴が1868年(慶応4)江戸で創刊した佐幕派の新聞。絵入り・総仮名付き。新政府を否定的に論じたため第二二号で発禁処分。東京日日新聞創刊者の一人条野伝平)

小糸源太郎は太平洋戦争末期画材が不足していた時、画材を提供するから戦争協力する絵を描くことを薦められたがきっぱりと断ったと言う。上野戦争の官軍と彰義隊の話が家の話として伝わっていたのだろうか。短い時間の戦争であったが下谷の人々にはかなり影響があった。
コメント
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