年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

曽禰達蔵

2009年09月13日 | 福神漬
曽禰達蔵は嘉永5年(1852年)、江戸城下唐津藩邸に生まれた。父は藩主の傍に仕えて記録する役職だった。当時の唐津藩主は小笠原長国で国もとにあり、その世子(後継者)である長行(ながみち)が江戸にあって幕府の役人を務めていた。達蔵は10歳の頃から長行の小姓となり、幕末動乱時、小笠原長行は炎上する上野寛永寺より脱出した輪王寺宮(りんのうじのみや)を伴って東北に向った。16歳の曽禰達蔵はこの軍勢の中にいたという。途中長行の指示で戦列を離れ唐津に向ったという。明治維新後、唐津に来て教えていた高橋是清の下で学び、東京に出て、コンドルの下で建築を学び、明治12年第一回工部大学校造家学部卒業生となった。
明治23年~39年まで三菱に勤務して多くの三菱の建築物を手がけた。コンドルの死去の際も傍らにいて最期を看取ったという。同じ唐津出身の同窓同期の辰野金吾と違って、戊辰戦争の陰を感じるのは私だけでしょうか。
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