河鍋暁斎美術館へ6
コンドルと暁斎との関係
多くの資料から建築家コンドルと河鍋暁斎の関係は宮内省山口融氏の紹介となっている。山口氏を暁斎に引き合わせたのは宮内省の上司である皇太后太夫杉孫七郎だという。
『河鍋暁斎と幕末明治の書画会』
コンドルの妻となったのは前波くめという人で山口の紹介で菊川金蝶から日本舞踊を習っていたが代理できた内弟子の前波くめを見初め明治26年結婚したという。くめは花柳流の踊りの先生だったという。花柳流はその名前の示すように花柳界の人達に教えた流派なので前波くめという人はどんな人だったのでしょう。明治23年画家小林清親の媒酌で鶯亭金升が花柳流の縁者を妻としている。
福神漬の命名者梅亭金鵞が瓜生政和という本名で河鍋暁斎の一生を描いた『暁斎画談』を著わしている。金鵞(明治22年病に倒れる)暁斎(明治22年死去)とコンドルの関係はどうなったのでしょうか。
コンドルと暁斎との関係
多くの資料から建築家コンドルと河鍋暁斎の関係は宮内省山口融氏の紹介となっている。山口氏を暁斎に引き合わせたのは宮内省の上司である皇太后太夫杉孫七郎だという。
『河鍋暁斎と幕末明治の書画会』
コンドルの妻となったのは前波くめという人で山口の紹介で菊川金蝶から日本舞踊を習っていたが代理できた内弟子の前波くめを見初め明治26年結婚したという。くめは花柳流の踊りの先生だったという。花柳流はその名前の示すように花柳界の人達に教えた流派なので前波くめという人はどんな人だったのでしょう。明治23年画家小林清親の媒酌で鶯亭金升が花柳流の縁者を妻としている。
福神漬の命名者梅亭金鵞が瓜生政和という本名で河鍋暁斎の一生を描いた『暁斎画談』を著わしている。金鵞(明治22年病に倒れる)暁斎(明治22年死去)とコンドルの関係はどうなったのでしょうか。