明治6年に刊行した袖珍官員録を国立公文書館のデジタルライブラリ-で検索する。以前検索したときは、工部省鉄道寮の七等のところに長井昌言の記録があったが今は見つからない。昨日再び袖珍官員録を検索すると七等のところに小野友五郎の名前があった。急遽小野友五郎の本を借り出す。明治に入って小野は新橋~横浜間の鉄道の測量に参加したようだ。特に小野は神奈川の担当で高島嘉右衛門とも交流があったと思われる。明治6年に長井昌言は死去しているので小野と長井の同じ鉄道寮の同僚として短い期間だったが交友があったのだろうか。
小野友五郎は茨城県笠間の出身なので資料は笠間の方が揃っているようだ。先週の選挙のあった日(22日)笠間で小野友五郎の講演会があったようだ。小野の伝記ともいえる小説が笠間で多数借り出されている。
福神漬に関係あるかどうかはまだ解らないが長崎海軍伝習所で小野は浦賀の中島三郎助と同期だった。中島は戊辰戦争最後の戦闘で死去している。同日市川行徳の漬物商人が中島と共に戦死している。浦賀でペリ-から米国国書を受け取った戸田伊豆守の3男が長井昌言である。長井と小野が短い期間と思われるが明治6年の同時期工部省鉄道寮の七等の役人だった。小野は築地に移転した幕府海軍伝習所(築地6丁目付近)、中島三郎助の3男は築地市場の隣りの浜離宮で生まれている。小野は二回目の米国行きの後、福沢諭吉の図書購入の件で告発し、福沢の図書は幕府に没収された。この解除を上申したのは浜離宮の出身の木村芥舟であて先は長井筑前守昌言だった。(木村芥舟日記・慶応3年末)
福神漬の歴史から幕末から明治にかけて開国志向のあった人たちの人間関係が明らかになる。特に失業した武士に職を与えることを皆考えていたようだ。