約100年前に日本郵船の常陸丸船長富永清蔵 が責任を取って、自殺した。第一次大戦末期日本から欧州に向けて運行中、当時の敵対国ドイツ艦船に遭遇し、常陸丸に装備してある大砲の覆いを外した行為が戦闘準備とみなされ、砲撃され数名の船客船員が即死した。常陸丸はドイツ軍に荷物を奪われ、生きていた人は別の船に乗りドイツへ向かった。残された常陸丸はインド洋で爆破沈没させられた。
その遭難事実の確認のため、日本政府は捜索隊を送り、途中の島で明治屋の練乳とか酒悦の福神漬の木箱を発見した。この報道が日本に入って数日後、常陸丸の乗員乗客の生存報道が日本に入った。しかし次の報道で船長の富永清蔵 が砲撃を避けれなかった責任を遺書を残して自決した。
船長論の著者によると基本は船長は沈没時、死ぬことはないという。円高による運航費の高騰で日本人船長が激減しているという。少ない船員で大型化し、さらに沈没すると海洋汚染の責任が加わる。航行中は家族と離れるがこの部分を見越した給与は感じられない。