浦賀奉行の戸田伊豆守氏栄の3男が嘉永6年(1853)3月27日に幕府の記録に登場してくる。浦賀にペリ-が来る少し前のことであった。鶯亭金升 日記で当時西丸留守居の筒井政憲の斡旋で途絶えようとしていた長井家に養子となった。最初はペリ-来航時に深く交際し世話したと思っていたが、後の経緯を見ていると何か別の深い経緯があると予想していたが下記の資料でだれも追及することもなく今に至る。
大日本近世史料 柳営補任(りゅうえいぶにん)第二巻 内容紹介
江戸幕府の全時代にわたる役人の補任を集大成.職名別に人名をあげ,その任免,昇進,異動を明記する.幕臣根岸 衛奮(ねぎし もりいさむ)の編修により安政5年(1858)に成った本書は,幕府諸役人の人事に関する最も信頼できる史料である。
この様な信頼できる文献に長井五右衛門昌純は下記のような記録がある。
文政8年12月24日御先手加役より
天保9年10月24日 卒
文献上この時死亡したと思った。この後の長井家の記録が少ない。
火付盗賊改の職だった長井五右衛門昌純は南町奉行筒井伊賀守として同時期江戸市中の治安維持業務を行っていた。
江戸東京博物館図書室で(江戸刑事人名事典・火付盗賊改)釣洋一著の長井五右衛門昌純の項目を見ていたら、死去日が柳営補任の資料と異なっていた。一年くらいの誤差はあってもおかしくはないが安政3年7月13日(84歳)で死去し、四谷栄林寺に墓がある。長井家の墓は明治に本立寺に移転。釣氏は新選組の研究者で五反田本立寺にある長井家の過去帳から史料を得たのだろうか。本立寺の住職中島さんは新選組で函館で活躍した中島登氏の子孫である。
もし安政年間に死去していたら、同じ二番町で隠居生活をしていた筒井政憲は安政6年6月8日(1859年7月7日)、死去。享年82歳。講談師松林伯円とも知り合いだったかもしれない。泥棒伯円は文化文政の時期の話が元になっている。
御仕置例類集 続類集3 682
文政七年申年御渡
町奉行 筒井伊賀守
小普請河内山宗春忰河内山三之助外39名悪事いたし候一件