東京の隣で文化の伝播が早いはずなのになぜか(ダサイタマ)と揶揄される埼玉人。
熊谷の県立図書館で埼玉大学教育学部の百年史を読んでいたら埼玉県立師範学校が揶揄の始まりかもしれないと感じた。
最近、少年スポ-ツで野球人気が減り、サッカ-に抜かれているという。ボ-ルが一つでゲ-ムができるが野球は道具が複数いるという。金のない国でも普及しているのがサッカ-であった。埼玉県立師範学校は教育者を育てる授業があったが目立つのは農業教育であった。明治大正期の教科書に師範学校の農業の教科書がある。これは県立図書館のデジタルライブラリ-で読むことができる。明治大正期の師範学校の様子はデジタルライブラリー(鳳翔)で理解できる。彼らが埼玉県を背負っている様子が感じる。
昭和20年に沖縄で特攻した叔父は埼玉師範学校の前の学歴は千葉県野田市の野田農工学校だった。この学校は今の千葉県立清水高校で野田市にある。当時はキッコ-マンのための鉄道が大宮駅から柏まで開通していた。利根川に架かる千葉県の橋は昭和の30年代まで取手のところの道路と鉄道橋であとは渡し舟だったと記憶する。江戸川で野田のところに道路と鉄道の橋があった。この下流には水戸街道のところまで橋がなかったと思う。
百年史で埼玉県が水害が多く、復旧のため学校予算が少なく多様な学部を要する高等教育機関が設立されず、県民の必要な最低の学校しかできなかったようだ。多くの優秀な学生は東京に向かったようだ。浦和地区に多くの県の施設が残るのも明治の名残となる。同様な例は福島県で県の地勢的中心の郡山に県庁がなく、福島市にあるのは戊辰の遺恨の影響がある。
浦和にあった県立師範学校は千葉寄りの川辺村(今は春日部市庄和町)の青年が学校で気後れするのも当然である。今は東京への通勤者の住宅も建っているが戦前は法事等の重大な用がなければ東京に行くことは少なかった。学校史で師範学校の生徒の親の職業は農業が最大であった。授業料が安かったかもしれない。