年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

コレラでの魚河岸封鎖

2020年04月16日 | 宅老のグチ
日本では明治の中頃まで、灯火の費用が高く、蛍の光窓の雪という歌が示すように夜間は寝るしかなかった。従って日が昇る時間が重視され、夏の時間と冬の時間が違っていた。正午のみが動かなかった。築地市場でも豊洲でもセリ時間は冬と夏は動く。これをおかしいと思う人はいなかった。世間で省エネということで夏時間を検討していた時期があったが世間と隔絶していた築地では議論もなかった。
 明治初期までは本も高く、貸本屋などから借りた本を音読して、周囲に集まった人に聞かせていたようだ。明治中期までの本は音読すると理解しやすいと文学研究者が言っていた。(前田愛)
 文明開化で活版印刷と製紙業が発展し、本が安く、大量に出回った。電気が夜を長くし、文化の伝達が早くなった。同時に戦争も大規模となり、情報も日本に早くやってきた。新聞情報が広く出回った。
 コレラが江戸時代末期から日本にやってきて、冬になると終息していた。コレラ蔓延情報が伝わる時代は恐ろしい情報であった。下層民の所は特にコレラが蔓延していて、差別の対象となり、家の打ちこわしもあった。今はコレラにかかっても、点滴で水分補給すればほとんど死なない。コレラ騒動は戦前の魚市場の封鎖問題となっていた。コレラは今のコロナと違って、食物から感染するので、冷蔵庫のない時代は魚から発病する例が多かった。また冷蔵庫のできた時代でも、氷の中のコレラ菌は死なないので発病していた。鮮度重視の生魚食文化から来ている。
 築地市場の移転問題で魚河岸の人たちがあれほど騒いだのは戦前のコレラ騒動・第五福竜丸の放射能マグロ事件などの前例があったためである。まだ東京都中央卸売市場のホ-ムぺ-ジで地下の汚染状況が解るがまだ地下の汚染物質は殆ど減っていないことを気にしない。コロナで豊洲の移転問題がずいぶん昔の話となった。
 市場の封鎖は戦前は度々あった。ただ忘れているだけで、古老だけが記憶していて悲惨さを今に伝える。生き残った人が今の築地・豊洲を支えた歴史がある。
コメント
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