年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

藤堂高虎と上野

2007年01月16日 | タクワン
上野の山は戦国時代には忍岡(しのぶのおか)と呼ばれており、江戸幕府が開かれた頃から寛永寺草創以前には、忍岡には、伊賀国上野を本拠地とする藤堂高虎の屋敷地であった。
天海僧正の主張によって家光が江戸城の鬼門の地に寛永寺を建立し門前町が開けた。この頃から、寛永寺付近の一帯を「上野」と呼ぶようになる。これは、藤堂家の所領である伊賀上野に地形が似ていたためと言われました。藤堂高虎と上野の地名の由来がこじつけられていますが実際調べれば調べるほど納得がいきます。まあ、偶然だったのでしょう。でも藤堂高虎は愛媛県の『今治』をもとの地名『今張』から少し変えたようで自然と伊賀上野と混同するのはわかります。
藤堂高虎は主人を度々変えた戦国の武将として知られています。しかし、彼が生涯崇敬していたのは豊臣秀長でした。慶長4年に秀長の菩提寺を大和郡山から京都・大徳寺に塔頭(たっちゅう)を造り弔った。
江戸時代の設計者 藤堂高虎 藤田達生著より
藤堂高虎の秀長時代の関係者
千利休
松屋久好 奈良の商人(茶道の援助者)
小堀正次(小堀遠州の父)
小堀正一(小堀遠州)は青年時代古田織部に弟子となり、茶道,作庭、焼き物、立花,和歌、御所、城郭、寺社の作事に才能を発揮した。藤堂高虎の娘婿でもある。
京都・大徳寺出身の沢庵和尚が住持した品川東海寺は小堀遠州の作庭です。
沢庵漬の沢庵和尚と藤堂高虎とは紫衣事件の時、江戸で会ったと思われます。
福神漬のふるさと・上野の地と沢庵漬の不思議な縁です。

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明治10年第一回内国勧業博覧会

2007年01月15日 | タクワン
明治維新直後、江戸は東京と変わったが人口は減り、茶桑栽培が都心で奨励され寂れていった、
 特に上野戦争で荒れた寛永寺は明治6年上野公園に指名され整備されていった。
明治10年第一回内国勧業博覧会が上野公園で始まる。約3ヶ月間(一日平均2000名の見物客)
明治11年 明治天皇 上野公園の桜花観覧 文明開化のファッションを見るため見物人が集まった。
明治14年第2回内国勧業博覧会
明治15年博物館 上野動物園開業
上野寛永寺門前町から文明開化・欧化思想の先駆地となる。
内国勧業博覧会はさらに第3回(明治23年)は東京、第4回(明治28年)は京都、第5回(明治36年)は大阪で開催されました。

練馬区石神井図書館に在る郷土資料館に明治10年(1877)に、明治政府が殖産興業政策の一環として開催した内国勧業博覧会に、上練馬村の相原房次が沢庵漬を出品した折に受けた褒状があります。
 発行は「内務卿従三位大久保利通」である。第一回の博覧会で練馬大根沢庵漬が公に表彰されたことを示す資料である。

内国勧業博覧会は、産業や技芸の発展に主眼が置かれ、珍しいだけの動植物や鉱物、古いだけのものは排除され、後々に価値が出るもの、継続的に商売になるもの、技を極めたものを出品するように要求されました。一大イベントだったのです。明治11年には東京上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会の出品物を販売処分した勧工場(かんこうば)といわれる施設ができました。これは今のデパートの前身といわれ、上野広小路やべったら市の開かれる中央区大伝馬町界隈にもありました。


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福神漬は香煎茶屋から

2007年01月14日 | 福神漬
たべもの語源辞典 清水圭一編より
上野・酒悦の創業者は伊勢山田より江戸に出て『山田屋』を名乗りうに・このわたなど、酒の肴になる珍味類も扱うようになりました。東海方面から乾物も仕入れ業とし、初めは本郷本町に店を構えたが、後上野池之端に移った。その店は香煎屋といわれた。江戸末期の大名・旗本屋敷などでは縁起を担いで茶を用いない風習があった。町屋の人もこれにかぶれて婚礼などの祝儀には茶は仏事のものとして嫌がった。今日でも結婚式に桜湯を飲んでいるのはその名残である。
 香煎屋は神仏両用のものを売るが一般に茶の代用品としては山椒や紫蘇(しそ)の実などの塩漬に白湯をさして飲んでいた。山田屋はやがて東叡山寛永寺の本坊である輪王寺の御門跡の白川宮から、「酒が悦ぶほどうまいもの」の意として「酒悦」の屋号を賜り、江戸名店の一つとなりました。
 江戸時代末期には上野広小路には香煎茶屋が3軒あって競争していて、狂歌に次のように詠まれていた。(上野繁盛史・台東区中央図書館所蔵)

    越王を飲みに上野の茶屋へ寄り

中国の歴史書『十八史略』より越王句践(こうせん)をかけている。
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福神漬に入っているナタ豆とは

2007年01月13日 | 福神漬
福神漬に入っている変な形の野菜はナタ豆の鞘(さや)の部分です。ナタ豆の効能は色々伝えられていますがどうなんでしょうか?
ナタ豆の花は根元の方から咲いてゆき次に末の方から根元に向かって咲くので『もとに帰る』という意味で昔は旅立ちに祝いの膳にナタ豆をつけたところがあったそうで、四国八十八箇所めぐりの人はなた豆を二個お守りとして持っていったそうです。(たべもの語源事典・清水圭一編)
若ボケの予防に効果的な刀豆(ナタ豆)
さやが大きく堅いので、その形から鉈(なた)が連想されることから名づけられたなた豆(ナタ豆)。刀豆には、良質なタンパク質以外にも、アミノ酸、ミネラル食繊維、サポニン、コンカナバリンA、ポリフェノール、鉄分などが含まれており、健康茶として人気がある。腎機能の向上や、若ボケの予防、ストレス解消などに効果があるといわれている。また,避妊に利くとか、男性が食べると精力減退の恐れがあると書いてあるものがあります。どうなんでしょうか?

本朝食鑑によると(ナタ豆の)若い時は鞘付きのまま塩漬したり糟漬にして香の物とするがそれ以外に用いるに適しないと書いてあります。江戸時代はかなり作られていたようですが今では福神漬用しか用途がありません。最近は健康食品として宣伝しているようです。童話の『ジャックとまめの木』の豆はナタ豆のことと記述している人がいます。
とにかく本当にナタ豆はなた(刀)の形に似ています。
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沢庵和尚の鎌倉紀行

2007年01月12日 | タクワン
江戸幕府二代将軍秀忠が死去の後、家光によって赦免された沢庵は江戸に戻ってきたが、約2年間駒込・吉祥寺の堀丹後守直寄の下屋敷や柳生宗矩の世話をうけていた.沢庵は京に戻る事を希望していたが戻れずにいた。その間に鎌倉に旅行している。この旅行の後沢庵は、幕府の庇護の無い寺院の悲惨な状態を知り,後に変心してゆくきっかけとなる。
『天下の五嶽・かくのごとくなり果てる事やあると嘆息止みがたし、またこの日は建長寺に入り仏国禅師を拝み正統庵は夕べに扉を閉じ、人住まざる夜はけだものの住家となるを見たり。いかにしかかる様ぞと問えば所領荘園いささかも無ければ子孫末流ありながら自住の庵さえ守りかねる事になれば本庵をいかにしても維持しようがないと語る。』
 神奈川県鎌倉市・建長寺は江戸時代初期までの度重なる火災や風水害で荒廃していた。後に沢庵和尚の進言で建長寺は徐々に再建し現在残っている伽藍となった。
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福神漬の逸話 河村瑞賢Ⅱ

2007年01月11日 | 福神漬
神奈川県鎌倉市の建長寺にある河村瑞賢の碑
河村瑞賢は鎌倉事典によると建長寺裏付近に別荘があった縁で墓が建長寺につくられた。
河村瑞賢追悼碑
封建時代においては姓名を歴史に残そうとする者は官吏や歴戦の武士でのみで平民にいたって事業によって惠澤を後世にのこしても 其姓名埋沒して記述されない者も多い。然るに河村瑞賢の姓名のみが伝えられるのを見ては事業人物の如何に傑出したるか想像できるだろう。 瑞賢は元和四年二月十五日伊勢度會郡鵜倉村東宮に生れる。 幼名は七兵衛 後十右衛門と改めた 十三歳にして江戸に出て車力 日雇頭より材木商になった。 機略縦横知恵がわくようにでて 行なうことは一般の人には思いつかないことをして、その企ては失敗することは無かった。 四十歳頃には財力で日本一といわれた。 江戸幕府はその才を重んじて委任する所が多かった。その中で最も大いなるものは寛文十一年奥羽諸國と江戸との航路を改め 船舶を強大ならしめ 海難救助の法を定め 船頭水夫の待遇を改善し 海運の方法を根本より変革した。 従来奥羽より江戸に米を送るに一ヶ年を要したが 変革後東廻り海路は三ヶ月 北廻り路は五ヶ月でたりた。この結果、仙台における米価は金一兩に七石だったものが 此後二石四斗に上って農民の所得が以前の二倍となった。江戸の民もまた物資の欠乏を免れ、地方経済より国民経済に移るのに促進した。天和貞享の間、また幕命を奉じて淀川を修理し溝渠を掘り 排水の方法を講じて數百年来ノ水害を取り除いた。元禄十年将軍綱吉之と謁見し、百五十俵の禄米をもらい若年寄になった。これより名前を改めて平太夫と稱す。 元禄十二年攝津河内の治水工事がおわり、三月江戸に帰ったが病を得て六月十六日八十二歳にて死す。彼は勞働者より身を起こしたにもかかわらず 學問を重んじ萬巻の書を家に所藏して學者に貸しあたえ、また私財を学者に与えること少なからず、 新井白石のごときもその一人にして 機内治河記 奥羽海運記を著して瑞賢の功績を伝えた。別に瑞賢の著したものは疏瀹提要 本朝河攻略記があります。 瑞賢はまた開拓の志しがあり、 浪人小笠原長啓に私財を提供して太平洋の無人嶋を開かしめんと希望するが病で目的を果たせず、この後 小笠原諸島なり彼の一生を見るに喬木の種子が風に翻弄され、雨に打たれて不毛の地に落ちて芽を出し、ついに岩石を貫いて大樹となった如く一人の力が如何に社會の因襲と戦い凌ぎ得るかを示す記念塔というべし。中島真雄君は彼の墓が蔓草に覆われ墓誌の文字風霜に磨損していて読むことが出来ないのを見て、 傷心の情を禁ずべからず。 建長寺の菅原管長 近藤總理 松井七夫 栗田傳兵衛四君と謀って、河村瑞賢のために墳墓保存會を起し 衆人と力を合せて碑を建てた。おおよそ日本經濟史において瑞賢の功績を伝える縁があって文章を撰して、もってそのことを記す。
 昭和九年九月
        竹越與三郎撰
        松本英一書
河村瑞賢の碑は建長寺の奥にある半増坊に向かう途中にある。訪れる人はまばらであるが墓地は綺麗に掃き清められ碑が立っている。

鎌倉市史 社寺編304頁
建長寺は久能山の徳川家の拝殿を正保3年に移築した。(沢庵と瑞泉寺文書)
また唐門も久能山より移築。沢庵和尚は正保2年に亡くなっているので、沢庵存命中に決定されていたのであろう。
大欲-小説河村瑞賢 峯崎淳著に瑞賢は沢庵和尚の東海寺の造作に関与していることになっている。とにかく沢庵和尚という人は吉川栄治の小説宮本武蔵のように、歴史小説家に都合の良い人かもしれない。


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福神漬の逸話 河村瑞賢

2007年01月10日 | 福神漬
 江戸時代の豪商・河村瑞賢は13歳の時伊勢から江戸に向かい、車力(一般には荷車または手車とも呼ばれる)から身を起こして近世実業家になり、数々の創意工夫により江戸時代の物流の中心となった海運を安全・確実な運搬方法に変えてゆき、産地・消費地の物価を変えたいわれました。
 彼の人生を変えた漬物は福神漬の元祖とも言われている。

 河村瑞賢は江戸で20歳頃までは仕事も上手くいかず、あきらめて上方(京都)に向かったが、小田原宿で老僧にたしなめられて再び江戸に戻る途中、品川付近の海岸にお盆の精霊送りで瓜や茄子が多数漂流しているのを発見するのです。そして、この浮かんでいる瓜や茄子を拾い集め、塩漬けにしたところ、この漬物が評判となり、莫大な利益をあげたということです。ある言い伝えでは、偶然にも品川の海岸で、誰にも拾われない瓜や茄子を、瑞賢は、これは福の神の仕業によるものと考え、「福神漬」と名付けられたという俗伝があります。
お盆は精霊棚、棚飾りともいわれ一般的な飾りには、野菜のきゅうりで馬、なすで牛を模して作られます。これは、お盆に、我が家にご先祖さまも里帰りいただけるようにと、馬で早くお迎えし、お帰りはゆっくり牛にゆられて、と言い伝えられています。終わった後、野菜の牛馬は川に流します。

 河村瑞賢は作った漬物を江戸の町を建設している労働者に販売しました。明治の中頃まで漬物は購入する食品でなく、ほとんど全部といってよいくらい自家製で文献には贈答か神社仏閣の門前で販売していたことしか記述されていない。つまり、漬物を売ることはとても難しいので誰も売っていなかったのです。彼は建設労働者にどの様にして販売したのでしょうか文献には出ていません。漬物は作るより販売する方が難しいのです。

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明治中頃の福神漬原料の産地

2007年01月09日 | 福神漬
新編武蔵風土記 文政11年(1828)
武江産物誌 文政7年(1824)によると

大根は練馬 言うまでも無い

茄子は駒込付近。駒込付近は土物の野菜の産地で江戸に幕府が移転してきて一番早く市場が出来た所でまた近所の滝野川三軒家は種子販売の集積地でもあった。

レンコンは不忍池(しのばすのいけ)が産地で『江戸砂子・』享保7年によると江都第一の蓮池なりと記述されている。

しそは千住。千住にあった市場から入った。

しょうがは谷中 今でも谷中しょうがの名前は知られている。現在の台東区谷中でなく荒川区の谷中本村と新堀村・日暮里駅周辺が産地であった。

ナタ豆は葛西。しかしどこでも栽培されていたらしい。

しいたけの産地は不明 干ししいたけは軽いので精進料理が盛んであった池之端近辺では手にいれ易かったかもしれない。


竹の子は目黒川水運を利用して、目黒が産地であった孟宗竹の竹の子を運んだと思われる。『江戸の野菜』野村圭佑著より
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福神漬にきゅうりが入らない理由②

2007年01月08日 | 福神漬
江戸時代に農書『農業全書』によると、黄瓜(きうり)又の名は胡瓜(こうり)、これ下品にて賞翫(しょうがん・味のよさを楽しむこと。賞味すること。)ならずといえども、諸瓜に先立ち早くできるゆえ、田舎に多く作る物なり。都にはまれなり。
 従って、胡瓜は江戸時代初期には完熟になり黄色くなった後、食していたらしい。
また『本町食鑑』によると『大体蔬菜としてよくない。ただし塩漬・粕漬して蔵し、香の物とすると良い。京の俗言によると祇園神社の氏人が胡瓜を食べれば必ずたたりを得るといわれている。これは社頭及び神輿に、昔から瓜の紋を画いているからである。およそ禁裏及び神祇のとばりには瓜の紋を画いているものが少なくない。これは胡瓜を横に切って圏を作った形になっている、私はこの件に関して詳しくない。』と記述している。
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福神漬にきゅうりが入らない理由①

2007年01月07日 | 福神漬
きゅうり
きゅうりは江戸時代の初期はへたの部分が苦かったため、下品の野菜とされ初物競争の野菜にならず、従って作付け制限が無く本格的に普及したのは江戸時代の後期からです。
江戸では「胡瓜の切り口が、徳川家の三つ葉葵(みつばあおい)のご紋に似ている」というので旗本直参連中は食べるのを断り、同じく切り口が三日天下で終わった明智光秀の家紋「桔梗」にも似ているので縁起が悪いと敬遠されました。江戸時代は、輪切りにすると徳川家の家紋である葵の御紋に似ているところから、それを食べるのは不敬であるとして、キュウリを輪切りにされることは慎まれていた
京都でも、きゅうりを食べない風習があったのだそうです。八坂神社、吉田神社、須賀神社近辺の人たちの間ではかたく守られていたとか。それは、神社の神紋がきゅうりの断面に似ていて、きゅうりを食べると神罰があたるといわれていました。
 福神漬の初期の日本農林規格(JAS)には原材料としてきゅうりは入っておりません。上野寛永寺で栄えた門前町としては徳川家の家紋に似た切ったきゅうりを入れることは明治に入っても避けたのでしょうか?それとも単に原材料として手に入れ難かったのでしょうか?
コメントで指摘されましたので調べて
平成17年の日本農林規格(JAS)規格改定からキュウリは原材料として入るようになりました。初期の規格から変更になったのは何時頃の頃でしょうか。
コメント (1)
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上野広小路と福神漬

2007年01月06日 | 福神漬
寛永寺が完成すると(東京都台東区)下谷村は門前町として栄える。江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道(現、金杉通り)沿いに発展し江戸時代は商人の町として繁栄する。
上野広小路は、かつて下谷広小路とも呼ばれていた。下谷広小路は、現在の御徒町の松坂屋付近から上野公園入口までの現中央通りを呼ぶ俗称であった。明暦の大火(1657)の後、類焼を防ぐ目的で拡幅された。火除けのための空地が広小路と呼ばれ、上野(下谷)広小路は浅草・両国と共に三大広小路のひとつである。
 上野と両国の広小路は、すぐ取り払えることを条件に露店や見世物小屋の開店が許可され、娯楽の集積地となりにぎやかな繁華街となった。平成の現在でも東京最古の寄席鈴本演芸場のとなりに福神漬創製の酒悦本店がある。酒悦は寛永寺参詣の人や商人達の茶店から発展していった。新橋と上野間に鉄道馬車が明治15年に開通し、また明治16年上野駅開業(上野―熊谷間)に伴って上野周辺はますます発展したと思われる。福神漬誕生は明治19年のことで、北関東・東北・信州へ鉄道が向かうにつれてますます上野は発展していった。
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上野・寛永寺と漬物の関係

2007年01月05日 | 福神漬
天海僧正は紫衣事件(1627)の時、沢庵和尚(沢庵漬の普及者)を減刑するために柳生宗矩・堀丹後守直寄等と奔走しました。(沢庵和尚書簡集)
元和年代(1615-1625)、上野には堀直寄の屋敷のほかに藤堂高虎、津軽越中守の屋敷があった。寛永2年(1625)に天海の発意で、寛永寺が草創され、堀家が作り寄進した凌雲院は上野最大の塔頭であった。堀直寄は上野の山に戦乱の死者を弔うために大仏を造りました。(上野大仏・関東大震災で壊れ,先の大戦時に供出)他にも祗園堂なども寄進した
また、日本における公共図書館の祖といわれる了翁禅師も関係しています。薬「錦袋円」を作り、販売した収益で図書館をつくりました。また福神漬のもとになるような漬物をつくっていたという文献もあります。なお、薬「錦袋円」を販売していた店は関東大震災まで池之端にありました。
 このような縁で上野の地は漬物と関係があるのです。

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七福神のお話

2007年01月04日 | 福神漬
上野護国院〔大黒天〕のパンフレットより
江戸時代から正月に七福神詣でといって上野近辺の七福神に詣でることが盛んになりました。これらの神様を福の神としたのが江戸幕府初めの宗教顧問の一人であった上野東叡山の開祖天海僧正であり、経典(仁王経)の七難即滅・七福即生の文に基づいて七福神の信仰を勧めました。
 後に徳川家康は絵師(狩野探幽)に七福神の絵を描かせ。これが評判となって宝船に乗った七福神が普及しました。
宝船 
江戸時代初期から、七福神を乗せた宝船を、正月2日、枕の下に入れて寝ると、吉夢を見るということが、盛んにおこなわれるようになりました。宝船のことを「おたから」といい、おたからを江戸の町に売り歩くのを、お宝売りと言ったそうです。
 初夢の中に『なす』がありますが『物事を成す』と江戸時代温室栽培の無かったころ今の江東区砂町で促成栽培をしていて非常に高価な茄子がありました。冬季にナスを食べる夢は非常な贅沢で吉兆な夢とされました。れんこんはおせち料理にもあるように『先が見える=未来が明るい』とされ、たけのこは雨後のたけのこというくらい良く成長する意味があるのでしょうか。しかし、あまり竹の子の入った福神漬は知りません。
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谷中七福神めぐり

2007年01月03日 | 福神漬
福神漬に入っているナタ豆(刀豆)が毘沙門天の持っている宝剣の形に似ているとの説をきいて、念のため谷中七福神めぐりを正月早々行ないました。ただし残念ながら遠くて宝剣がナタ豆の形かどうか解りませんでした。とにかく、上野は七福神めぐりの最古でいまでもかなりの人が正月早々。地図を持ち田端の東覚寺か上野の弁天堂にて和紙で出来た色紙を買い(1220円)朱印押すごとに200円払い回ります。田端から回って約1時間半の行程でした。
上野の弁天堂と広小路の酒悦とはごく近く、漬物としてご当地ブランドとしては最適の名前だったでしょう。なお、福神漬を命名した梅亭金鵞はかなり面白そうな人で調べる余地がありそうです。明治という時代に東京市民がどの様に薩長政府を見ていたか皮肉っています。
大黒天はインドから来た神のガネイシャ神でその象徴として折れた牙、日本では二股大根を意味します。つまり福神漬の大根は大黒天の象徴です。詳しくは浅草待乳山聖天を見てください。
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福神漬とは

2007年01月02日 | 福神漬
福神漬と言う漬物はよくカレーライスについて出されますので知られています。カレーライスの本には必ずといってよいくらい記述されていますがその福神漬が出来るまでどのような歴史があったかあまり知られていません。単に明治19年創製されたということくらいです。
 日本農林規格(JAS)の醤油漬の代表は福神漬でJAS規格にもある通り大根・ナス・しょうが・なた豆・レンコン・しそ・竹の子・もしくはしいたけを細刻したもの又はこれにしそのみ・もしくはゴマを配合したものを主原料とし、これに醤油又はアミノ酸液に砂糖・水あめ等の甘味料を加えた調味液に漬け込んだものをいう。

よくわかりますか?法律用語的で書いてありますが現在JAS規格の福神漬は上記の規格がそろっている物が福神漬の認証を受けてJASマークをつけています。
 なた豆が入っている福神漬が大抵良品と思ってよいでしょう。
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