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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

内田魯庵

2008年12月16日 | 福神漬
内田魯庵
下谷広小路
上野戦争の直前に今のJR上野駅の東のところに生まれる。母親は生まれて間もない赤子を抱いて砲火弾丸とぶ上野の町を逃げ回ったと言う。父は寛永寺の役人であった。
随筆『 下谷広小路』の執筆中に脳溢血に倒れた。
松坂屋の広報誌に昭和4年『下谷広小路』は掲載された。魯庵によれば上野戦争は江戸武士300年の没落に殉じた行動で戦局は小さがったが意義は大きかった。
 上野の戦跡の血のあとを洗い流して新しい文明を演出したのが明治10年の第一回で内国博覧会、続いて12年のグランド将軍の訪日であった。グランド将軍の訪日記念樹は今でも残っている。

ついでに山口昌男著の『内田魯庵山脈』を借りて読む。なんだかかなりの人だったのがわかるのだが彼の人生と息子の画家の行動はやはり上野戦争の影響があるように思われる。
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小糸源太郎随筆集より

2008年12月15日 | 福神漬
小糸源太郎随筆集より
洋画家小糸源太郎の本が大田区の図書館に4冊(彼の生まれた台東区の図書館には一冊もない)もあっておかしいなと思っていたら、戦後大田区田園調布に住んでいた関係かもしれない。
その随筆から
『雁で思い出したが私が6~7歳の頃上野山下に雁鍋という家があった。大屋根のレンガに漆喰細工の雁が十羽ばかりならんでいた。伊豆の長八の作といわれていたが定かでない。京成聚楽ビルのあたりだったが2006年に取り壊された。
松源と揚出し
揚出しの本家は松源で両家がとなりどうしで繋がっていた。松源は江戸時代からの旧い会席茶屋で表の広小路から裏は池之端まで占めていた。そこでは明治時代池之端御前の福地桜痴・条野伝平さんが三遊亭円朝を呼んで落語をやっていたと言う。また円朝が落語速記を松源で行っていたとき、円朝は観客がいないと上手くいかないと隣に住んでいた人を招いて演じたと言う。
(江湖新聞-福地桜痴が1868年(慶応4)江戸で創刊した佐幕派の新聞。絵入り・総仮名付き。新政府を否定的に論じたため第二二号で発禁処分。東京日日新聞創刊者の一人条野伝平)

小糸源太郎は太平洋戦争末期画材が不足していた時、画材を提供するから戦争協力する絵を描くことを薦められたがきっぱりと断ったと言う。上野戦争の官軍と彰義隊の話が家の話として伝わっていたのだろうか。短い時間の戦争であったが下谷の人々にはかなり影響があった。
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覚王院義観の生涯 長島進著を読む

2008年12月14日 | 福神漬
覚王院義観の生涯 長島進著を読む
築地より文京区千石図書館まで遠征して、上野戦争時、東叡山寛永寺の執当職であった覚王院義観のことを書いてある本を読みに向かう。
 彼は今の埼玉県朝霞市の出身で縁あって東叡山に入った。慶應3年寛永寺の執当職つまり天台座主に代わり職務の代行を行う最高の地位についた。44歳であったと言う。ほぼ同じ時期に21歳の輪王寺宮もその地位に付いた。前例のない幕末に彼等は寛永寺を守らねばならなかったのである。
 慶應4年の鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜が江戸に戻り、謹慎ということで江戸城を出、寛永寺で蟄居することから彼等が歴史の騒動の中に巻き込まれることとなった。
 慶喜を助けるため、静岡に向うが適当にあしらわれた。一般にこのことから覚王院義観の心に変化が生じ恭順から主義主張するという方向に変化したと言う。しかしこの本によると彼は執当職を忠実にこなしていたという。明治になって彰義隊が悪役となったが輪王寺宮の処遇と上野戦争の戦犯との整合性のため彼に責任を負わせた歴史となっている。
 江戸の庶民は上野戦争には参加してなくとも、彰義隊の敗残兵を市中にかくまった行動を見ても密かに応援していて、明治23年の歌舞伎で上野戦争が上演されると桟敷席で涙を流しながら見ていた人が多かったと言う。
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皐月晴上野朝風 23

2008年12月13日 | 福神漬
皐月晴上野朝風 23
引き幕を贈った松坂屋源七
明治23年5月興行の舞台で引き幕を贈った人は松源の主人であった。
洋画家小絲源太郎
明治20年(1887)下谷区上野元黒門町20番地(現台東区上野池之端)の老舗料理屋「揚出し」に生まれる。
料理屋『揚出し』
早朝四時から始めていて、お風呂に入れるというので人気があった。揚出しというものは豆腐を揚げたような簡単な物だったが値段も安かった。樋口一葉が吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)に引っ越したが夕方から人力車の音が頻繁になり、また早朝から吉原帰りの客の車の音に悩まされたという。吉原帰りの客が『揚出し』で一風呂浴び食事をして身支度して帰ったと言う。
 舞台のセリフで雁鍋のあと吉原というのはこのような背景があった。

小糸源太郎随筆集から
松源の想い出
松源と揚出し
揚出しというのは本来、料理の名称だ。いや料理というほどのものでもない。油で揚げた豆腐を醤油で食うだけのものだ。熱いうちにに食べると満更でもないが、大してうまいとも思っていなかった。油あげや、なま揚にならないというのが、一家相伝の秘訣ででもあるように思われていたらしい。本家である松源桜は、徳川幕府全盛であった江戸時代、東叡山寛永寺参拝を口実にしたお歴々の遊び場所であったらしく、お供廻りは専ら揚出しで、といった具合だったものと思われる。
ブル専門の松源が早くつぶれて、プロの方だけが栄えていたのが面白い。松坂屋源七即ち松源である。

ブル専門とはブルジョア=裕福な人を対象としていた
プロとはプロレタリアの略か。貧しい人を対象としていた。

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築地市場の消防訓練

2008年12月12日 | 築地市場にて
例の消防訓練
12月10日は年内最後の平日休市日。いつものように消防訓練。最近の外国人観光客の増大の影響から火災のアナウンスが日本語と英語『ファイヤ-・ファイヤ-』思わずここは築地市場だよ。
年末なのにみかんの滞貨も少なく混雑もない。場外の観光バスだけが増えてきてガイドさん連れられた団体がゆっくり歩く。だんだん素人向けの見かけだけの商材が目についていいものを安く売る築地のよさが消えてゆく。築地市場の個性のない食堂がどんどん寿司屋になって行き、場内の人も何軒あるかわからないと言う。中で長年働いている人の話しでは『大和寿司』の主人が寿司を握っている時が最上と言う。もう何年も目の前にある店には入っていないと言う。仕事をサボって待つことは出来ない。みんなが見ているのだから。
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皐月晴上野朝風 22

2008年12月11日 | 福神漬
皐月晴上野朝風 22
明治23年6月4日 読売新聞 劇評より
凌雲院応接所の場
左団次の長岡鉄太郎(山岡鉄舟のこと)が兵士も連れずに上野彰義隊の屯営に行き、将軍恭順の旨を説き、血気にはやる彰義隊に解散を勧めたが菊五郎の扮する彰義隊隊長天野八郎と大議論するが、観客のほうが歴史を知っているので無駄な場面と評されていた。
実際は覚王院義観と山岡鉄舟の議論で上野戦争の前日に説得に失敗した。当時の覚王院義観や彰義隊の人々の感情と江戸市民はどのように思っていたのだろうか。

明治21年に山岡は亡くなっているのだが上野周辺に居住しなお彰義隊に関係したことは広く知られており、新富座で上演されたのを見てどの様な懐旧の情を引き起こしたのだろうか。覚王院義観の生涯
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皐月晴上野朝風 21

2008年12月10日 | 福神漬
皐月晴上野朝風 21
雁鍋と松源
上野山下に在った料理屋
上野戦争の時、官軍が上野の山に大砲を向けた時、料理屋『雁鍋』と『松源』のところに大砲を置いたという。
色々な文章に出てくる「雁鍋」という料理屋。
『夏目漱石 「虞美人草」』
『森 鴎外 「雁」』
『正岡子規「病寐六尺」』「上野の入ロへ来ると三層楼の棟の所に雁が浮彫にしてある。それは有名な「雁鍋」である。

入口の上に漆喰細工の雁を置いて、ねぎを軒高く積んだ。中庭の周りは入れ込み桟敷で鍋の中に五分重ねて、その上に合鴨の肉を並べて花カツオをかけた雁鍋の繁盛も昔のものだ。今では牛肉屋となっている。上野繁盛記より
寛永寺門前で鳥料理かと思えば精進料理と言うのも見える。がんもどきの料理だったかもしれない。

地域雑誌「谷中・根津・千駄木」 15号では
『津、藤堂二藩が上野の雁鍋屋松源からくり出す大砲。』となっていて、松源も雁鍋が売り物だったのだろうか。


 
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皐月晴上野朝風 20

2008年12月09日 | 福神漬
皐月晴上野朝風 20
明治23年6月4日 読売新聞 劇評より
下谷竹町湯屋越前屋左兵衛の場

榊原鍵吉は上野戦争の時、寛永寺の輪王寺宮公現入道親王(後の北白川宮能久親王)の護衛を務め、山下(今の日比谷線仲御徒町駅付近)の湯屋、越前屋佐兵衛と二人で交互に宮を背負って三河島まで逃げた。
明治23年5月公演の皐月晴上野朝風で当時生存していた湯屋越前屋左兵衛さんの指導によって、風呂屋の内から見る造りで、菊五郎の意気込みが過剰に現れていた。
『御用』と言って官軍に湯に入れろと言われたが左兵衛は『そりゃ出来ません。公方様と上野にご恩があるのでござります。官軍だってさ天子様の御家来だから悪いとは決してありませんがご恩のある人にたいして出来ません』ときっぱりと断ったセリフで下町の人の懐旧の感情を引き起こしたと言う。

越前屋左兵衛は自身が歌舞伎で登場し、さらに当時の人気役者菊五郎が扮するので連日のように新富座に通ったという。下谷の人々がご当地の歌舞伎で話題となっていたことがわかる。上野山下・三橋・竹町・数奇屋町・同朋町・池之端仲町の人達も通っただろう。

池之端の福神漬と五代目菊五郎の接点はこのあたりから始まったのではないのだろうか。
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皐月晴上野朝風 19

2008年12月08日 | 福神漬
皐月晴上野朝風 19
旧幕府 2 合本 戸川残花編
第九号 明治30年12月20日発行
沢太郎左衛門演述
三河屋幸三郎の伝
 彰義隊の隊士の死体が放置され、鳥獣の餌となり霊魂の行くところもないのを憂いて官軍に願って、遺骸を円通寺に納めたのはこの人である。東軍のために兵器を貯蔵し義徒を匿い、ついに西軍の知るところになり、危なく家宅に入られようとしたが見事に追い払ったのもこの人である。
 幕府創立以来250年来、録を受けて恩義があるのに関わらず三河武士の面目を失いただ自身の身の上を心配して様子から一市井の商売人でありながらこの有様を見て憤慨し身命財産を掛けて徳川家の犠牲に供しようとしたのが三河屋幸三郎である。
この人の資料も少なく侠客と言う人もあれば義人ともいう人もある。明治以後横浜で『根付』などを扱う美術貿易商みたいなことをしていたようで彫刻家高村光雲の思い出の文に出てきます。

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円通寺と一葉記念館

2008年12月07日 | 福神漬
円通寺と一葉記念館
日比谷線三ノ輪駅で降りて円通寺に向かう。晩秋の境内はイチョウの落ち葉が敷き詰められていて黄色くなっていた。中に入ると寛永寺にあった黒門がいやでも目に付く。金網で囲まれた墓地に上野戦争の死者が埋葬されている。
 天野八郎と三河屋幸三郎の碑がほぼ同じ大きさであった。荒川区の文化財の文には寛永寺の御用商人三河屋幸三郎のことは書いてあった。何の御用をしていたのだろうか。
 帰りに台東区中央図書館まで歩く。途中一葉記念館による。福神漬の歴史には樋口一葉はまるで関係はない。池之端と浅草は近所で時代も重なるのだがかすりもしない。しかし彼女の人生をたどるとこの明治中頃に女性が自立すると言うことが如何に難しいことがわかる。まともな生き方では髪結いしかなかった時代なのだから。
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銀座の奥村書店

2008年12月06日 | 築地市場にて
銀座の奥村書店
いつものように中央区の京橋図書館にて福神漬と関係あると思われる古書を借りて読む。都営地下鉄東銀座駅に向かう。途中に築地警察署のところの橋を渡り、スリッパがいっぱい並んでいる『吉水』という不思議な旅館を過ぎ奥村書店があった。いつか検索していたら歌舞伎関係の本がある古書店で2007年暮れ閉店とあったが同じ店なのだろうか。次回機会があったら覗いてみよう。それにしても築地市場は歌舞伎関係の調査は歩く範囲で色々な史料が揃うので本当に便利である。大谷図書館・歌舞伎座・新橋演舞場・京橋図書館等が歩いていける範囲にある。
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おくもじ

2008年12月05日 | 趣味としての漬物
おくもじ
もうはるか昔に廃業した高菜の油いため『おくもじ』大田武士商店の漬物。丁寧なつくりであったため採算とれず、もう20年以上前廃業している。したがってブランドとしてのおくもじは使ってもかまわないと思われるが漬物業者は中身がわかりにくいので誰も使用していない。高菜を干してから漬け込み高級な油でいためた漬物の『おくもじ』は今では採算を考えたら造れないだろう。
ご飯に刻んだ『おくもじ』を載せて軽く一食はいけます。高菜のピリッとした辛味が食欲を増進します。
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河竹黙阿弥と竹柴其水のこと

2008年12月04日 | 福神漬
河竹黙阿弥と竹柴其水のこと
竹柴其水は河竹黙阿弥の三番目の弟子ともいう人で『皐月晴上野朝風』の脚本で『天野八郎の場』『本所金魚屋の場』は河竹黙阿弥が書いたという。日本戯曲全集 第32巻
 河竹黙阿弥の俳号(其水)を明治20年頃にもらい竹柴其水を名乗ったと言う。世間一般に知られている歌舞伎脚本の代表作は『め組の喧嘩=神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)』である。
 新しい演目が上演され、ある程度たつと歌舞伎の劇評が現れる。今の時代の劇評と違ってあからさまに筋の変更を求めているのもある。変更が頻繁にあったのだろう。
 明治23年5月新富座公演で上演された竹柴其水作『皐月晴上野朝風』の脚本を読むと、第七幕博覧会の場があるが時間が足りなく実際は上演されなかったようである。しかしこの脚本を読むと明治23年と言う時間が彰義隊と上野周辺の人々、時代の変化に乗った人、乗れない人の懐旧の情が染み出ている。実際に上演したらどんな反応あったのだろうか。新撰組と比べて彰義隊は語られることも少ない。でも上野で福神漬は生まれたのである。
 
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皐月晴上野朝風 18

2008年12月03日 | 福神漬
皐月晴上野朝風 18
山岡鉄舟と彰義隊
上野戦争の前夜、山岡は勝海舟の命で上野にこもる彰義隊に対して説得を図るが失敗した。歌舞伎『皐月晴上野朝風』では長岡悦太郎(左団次)という名で出てくるが読売新聞や朝日新聞の劇評も厳しい評論となっている。天野八郎(菊五郎)と長岡の大議論の場も劇評では時間の無駄で省略したほうがよいとも言われていた。
 でも酒悦の伝説の中で交流のあった山岡鉄舟と菊五郎がこの舞台で一緒になった。明治23年ならば、山岡が亡くなってまだ2年しか経っていなく(明治21年死去)彰義隊の墓を造ったり名誉回復への努力をしたりしていた鉄舟を劇の筋から外すことが出来なかったのだろう。
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皐月晴上野朝風 17

2008年12月02日 | 福神漬
皐月晴上野朝風 17
上野寛永寺と人々の交流
明治23年6月19日読売新聞
輪王寺の宮 従者の行方
目下その事跡を新富座で上演している。上野戦争の時、東叡山の座主である輪王寺の宮(今の北白川の宮殿下)は弾丸が雨のように降る間を危険を冒して戦地から落ちて行く時、宮とお供した坊主三名にて辛くも南葛飾郡下尾久村まで守護し参らせたが何分人目を引き怪しまれる恐れがあるので三名は大いに悩み村の百姓小原長兵衛なる者に頼み事情を告げ物置の隅を借り受け数日間ここに潜ませた。
 それから泰平の世になって輪王寺の宮は北白川の宮と御改称あるなど百事新しくなった。かの尾久村の長兵衛は百姓のゆえ変わりがなく今も丈夫で暮らしているゆえ先頃新富座を見物したほどである。北白川の宮はもとより雲の上の人になってしまったのでこのような時、一時は家のうちに起居していたことを連絡することもなく素知らぬ顔で過ごしていた。一つ不思議なことは長兵衛のセガレに彦次郎と呼ばれる26歳の息子がいるが上野戦争の頃ようやく一人で歩くようなった頃で輪王寺の宮の隠れ家に握り飯などを運んだこともあったという。その後同村の田中某方へ養子となり、田中彦次郎と名前が変って近衛兵として勤めたこともあった。今は廻り廻って北白川宮の門番として勤めていると言うは珍しい奇遇と言う。

結局彰義隊は徳川家の問題でなく、上野寛永寺輪王寺宮とその周辺の住民との関係となっていて、戦争の時間も短く江戸のごく一部の歴史となって忘れ去られた。、福神漬の生まれる背景にはこんな事情があった。
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