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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

塩加減が難しいようで

2009年09月15日 | 宅老のグチ
塩加減が難しいようで
戦後の食生活改善運動の名残で今でも塩分過剰と言われているが、最近業界の講演会では塩分の過小摂取の問題が取り上げられている。食塩感受性が人によって異なり、塩分を控えてもあまり血圧等に影響がなくかえって塩分が少ないため,だるいtという症状が現れる人があるらしい。食塩感受性のテストは血糖値の検査と違って時間と手間ヒマがかかるので一般的に検査しにくいという。いずれ遺伝子分析等によって簡易な検査方法が見つかれば塩分摂取が一律に制限されることはなくなるという。概して日本人は食塩感受性が弱くて塩分を少なくしても血圧を下げることは難しいという。本当なのかな?昔胃ガンの原因は塩分の多い漬物と言われてきたが今はピロリ菌が重要な役目を果たしていて漬物は発ガンのわき役になったようだ。他のガンと違って胃がんは早期発見すればかなり治癒率が上がって来て、最近ではすぐに当事者に胃ガンを告知するようである。
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下母澤寛から

2009年09月14日 | 福神漬
下母澤寛から
下母澤寛全集第13巻を借りた。本の中からある築地の商店から買ったと思われるレシートが入っていた。昭和50年代の食品購入のレシートでまだ消費税のない頃であった。本が出版されたのが昭和49年なので図書館に入ってあまり借り出されてことのない本だったかもしれない。「花と奔流」という小説を読みたかった。生麦事件を処理した唐津藩小笠原長行の物語である。
下母澤寛は北海道生まれでは親族が函館戦争に関係していて、どちらかといえば幕府方を描いた小説が多い気がする。彼は戊辰戦争から生き残っていた人を取材して小説を書いていた。しかし、どの小説家でも明治に入っての旧幕臣の描き方は誰を書いても簡単に処理されている。戊辰戦争で死ぬより、明治に入って生き残る方が大変な時代だった。
 福神漬の創製や販売拡大方法の歴史は明治に生きた旧幕臣のネットワークに負うことが多い気がする。
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曽禰達蔵

2009年09月13日 | 福神漬
曽禰達蔵は嘉永5年(1852年)、江戸城下唐津藩邸に生まれた。父は藩主の傍に仕えて記録する役職だった。当時の唐津藩主は小笠原長国で国もとにあり、その世子(後継者)である長行(ながみち)が江戸にあって幕府の役人を務めていた。達蔵は10歳の頃から長行の小姓となり、幕末動乱時、小笠原長行は炎上する上野寛永寺より脱出した輪王寺宮(りんのうじのみや)を伴って東北に向った。16歳の曽禰達蔵はこの軍勢の中にいたという。途中長行の指示で戦列を離れ唐津に向ったという。明治維新後、唐津に来て教えていた高橋是清の下で学び、東京に出て、コンドルの下で建築を学び、明治12年第一回工部大学校造家学部卒業生となった。
明治23年~39年まで三菱に勤務して多くの三菱の建築物を手がけた。コンドルの死去の際も傍らにいて最期を看取ったという。同じ唐津出身の同窓同期の辰野金吾と違って、戊辰戦争の陰を感じるのは私だけでしょうか。
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鹿鳴館の夢

2009年09月12日 | 福神漬
鹿鳴館の夢
建築家コンドルと絵師暁英
INAXギャラリー 1991年
コンドル先生の不思議という題目で藤森照信という人の文がある。中学校の日本史の教科書にも載っている鹿鳴館という建物のデザインしたイギリス人建築家と知られている。しかし最近まで忘れ去られて護国寺にある墓は一時的に無縁仏となっていた。
藤森照信さんの余分な文章からコンドルの子供の数奇な運命のいたずらで世界中の美術館に河鍋暁斎の絵が所蔵されているという。
「コンドルは前波くめと結婚する前に芸者との間に女の子が誕生していた。くめは里子に出されていた消息不明の子を一生懸命探し出した。場末に近い下町の長屋地帯から青い目をした背の高い裸同然の姿をした少女が現れて、棒を振り回していて直ぐにコンドルの子と判ったという。その子を引き取り、英語を教え、ベルギーに送って教育を身につけさせた。」少女が大人になり、欧州の外交官と結婚し、コンドル死去後暁斎の絵画等が欧州に渡り、散逸した。
この本によるとコンドルが忘れさられた原因は彼の育てた建築家が欧州に留学したら、既にコンドルが時代遅れとなっていたという。
建築探偵団の藤森照信さんでした。
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暁斎画談より

2009年09月11日 | 福神漬
暁斎画談 
明治20年頃、河鍋暁斎が門弟たちのために修学資料を作ることを考え、画論とか技法を暁斎が描き、文章を梅亭金鵞に頼んだ。この本が編集者瓜生政和の名前で出版した。
梅亭金鵞の住所は小石川区指ヶ谷町73 士族
河鍋暁斎の住所として本郷区湯島4-22番地 平民とあった。この本の出版当時は暁斎は根岸に生活の居を構えていた。

筆意
辞書によると筆意とは「筆を運ぶときの気構え。また、書画のおもむき。ふでづかい。」

暁斎画談(キョウサイ ガダン)河鍋洞郁∥画瓜生政和∥編
内篇 上・下と内篇 上・下と外偏 上・下がある。内偏は河鍋暁斎以前の画家の技法や技術論でそれぞれに〘筆意〙として題がついている。
外偏は河鍋暁斎の履歴を文と絵画によって描いてある。一部事実と異なることがあって河鍋家の人達には評判が悪い。戯作者梅亭金駕(瓜生政和)の面白くなければ売れないという考えがあったのだろうか。この本が出版されたころには福神漬がすでに命名されていたのだが何も由来となるべきヒントは無かった。残念。
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花柳流なんて

2009年09月10日 | 福神漬
花柳流なんて
何年か前に築地本願寺で花柳流の方の葬儀があって、黒塗りの車から袴姿の男性が降りてきたのを見かけた。漬物にはまるで縁のない人達と思っていた。その後新聞記事で築地に花柳流の建物があると書いてあった。これも築地の何処にあるのか知らなかった。
 花柳流の歴史が書いてある本がある。残念ながら築地にある中央区中央図書館にはなく、都立中央図書館にある。(通史花柳流 花の流れ一世紀 柴崎四郎著)
 花柳流は江戸時代末期に西川流から分かれたという。浅草の方から明治以後発展してきた銀座に移転し、初期の隆盛を迎えた。しかし、初代が亡くなると跡継ぎが幼く最初の流派の消滅の危機を迎え。このとき親族会議で斉藤くらが幼子を引き取り育てていくこととなった。斉藤くらは横浜で繁盛していた料亭の女将で後に政治家や東京の花柳界を動かす人だった。
 富貴楼のお倉は三井・三菱と関係があり、福神漬の発展の陰にある人物と思われる。
    
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書画会より

2009年09月09日 | 福神漬
書画会より
明治21年6月2日
東両国中村楼にて
主催者 浪野東助 (なみの‐とうすけ)の引退ということで書画会が開催された。1833(天保4年)‐1889(明治22年)57歳
 この書画会で彼の賛助者として河鍋暁斎と服部波山の名前がある。服部波山は根岸に住み幕末から明治にかけて活躍した画家である。明治7年頃根岸に転居した鶯亭金升は彼の母の勧めによって服部学校に通うようになった。服部波山のところで書画、漢籍・漢文を習っていたという。
 鶯亭金升は明治22年画家小林清親の媒酌によって(10代目岩井半四郎の父日本舞踊花柳流・花柳寿太郎〘明治34-昭和42〙の父の姉〙ぬいと結婚する。
 建築家コンドルに嫁いだ前波くめが花柳流の踊り手だとすると意外と知り合いだったかもしれない。
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河鍋暁斎美術館へ6

2009年09月08日 | 福神漬
河鍋暁斎美術館へ6
コンドルと暁斎との関係
多くの資料から建築家コンドルと河鍋暁斎の関係は宮内省山口融氏の紹介となっている。山口氏を暁斎に引き合わせたのは宮内省の上司である皇太后太夫杉孫七郎だという。
『河鍋暁斎と幕末明治の書画会』
コンドルの妻となったのは前波くめという人で山口の紹介で菊川金蝶から日本舞踊を習っていたが代理できた内弟子の前波くめを見初め明治26年結婚したという。くめは花柳流の踊りの先生だったという。花柳流はその名前の示すように花柳界の人達に教えた流派なので前波くめという人はどんな人だったのでしょう。明治23年画家小林清親の媒酌で鶯亭金升が花柳流の縁者を妻としている。
福神漬の命名者梅亭金鵞が瓜生政和という本名で河鍋暁斎の一生を描いた『暁斎画談』を著わしている。金鵞(明治22年病に倒れる)暁斎(明治22年死去)とコンドルの関係はどうなったのでしょうか。
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河鍋暁斎美術館へ5

2009年09月07日 | 福神漬
河鍋暁斎美術館へ5
 毘沙門天の絵
河鍋暁斎が七福神の絵をかなり描いているがその中の毘沙門天の剣がどの様な形であるかが福神漬の命名には問題である。しかしどの毘沙門天の絵の剣はまともな形でデフォルメされてナタ豆の輪切りの形になっていない。
 どれもまともな毘沙門天の絵で梅亭金鵞が暁斎の絵を見て見立てたと思ったが残念『はずれ』。そうしたら美術館の方が榊原健吉とかコンドルとかの名前が出てきた。コンドルは池之端の隣ともいえる茅町三菱の岩崎邸を設計したという。また有栖川宮・北白川宮の邸宅もコンドルが設計したという。上野戦争の当事者の邸宅を作ったのは奇縁ともいえるだろう。明治14年頃、コンドルと暁斎との関係は宮内省主馬寮山口融氏か紹介したという。
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ローソン100

2009年09月06日 | 築地市場にて
ローソン100
図書館の前にあったローソン100に入った。コンビニクラスの店に100円の商品の品揃えが多い。デフレの中で年金生活者と思われる人が一個か2個を買ってゆく。レジは105円とか210円の声。年寄りの小食には十分の量。他のコンビにより明らかに年齢層が高い。品質はそれなりなので景気が回復したら行くことはないだろう。かなり落ちぶれたという感じがする。自分のエサを買いに行くということ。いつまでこんな生活して行ってよいのだろうか。みんなで貧乏マッシグラ。
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河鍋暁斎美術館へ4

2009年09月05日 | 築地市場にて
河鍋暁斎美術館へ3
 毘沙門天の絵
河鍋暁斎が七福神の絵をかなり描いているがその中の毘沙門天の剣がどの様な形であるか福神漬には問題である。しかしどの毘沙門天の絵の剣はまともな形でデフォルメされてナタ豆の輪切りの形になっていない。
 どれもまともな毘沙門天の絵で梅亭金鵞が見立てたと思ったが残念『はずれ』そうしたら美術館の方が榊原健吉とかコンドルとかの名前が出てきた。コンドルは池之端の隣ともいえる茅町岩崎邸を設計したという。
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パリの中央市場の残骸

2009年09月04日 | 築地市場にて
パリの中央市場の残骸
9月3日の日本経済新聞夕刊を読んでいたら、横浜港の見える公園のフランス山にパリ市内にあった旧中央市場の鉄骨があるそうです。パリの今の市場に移転するにも計画が出てから移転するまで50年以上の年月がかかりました。日本橋にあった魚河岸が移転の話が出たころ(鹿鳴館ができたころ)から実際に築地に移転するまで50年以上の歳月がかかりました。先日石原都知事が「私が築地の移転の話を出したのではなくもう40年も前から話があった」と言っていました。知っている限り今の築地の移転候補地は大田市場とか汐留仮市場とか青島知事の時の現市場再建案(都の税収不足で中止)とかあった。すでに築地移転案が発案から40年たっているとすれば民主義国家で近代都市の中央にある市場はその国の食文化の象徴で移転するのは50年の年月がいるという法則が成り立つ。
 中央市場はその国の食の物流・価格形成の中心となるので利害の調節には時間がかかる。
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物語ジョサイア・コンドル

2009年09月03日 | 福神漬
物語ジョサイア・コンドル-丸の内赤レンガ街をつくった男-
永野芳宣著より
この本は三菱一号館再建企画に合わせて出版された本で小説である。河鍋暁斎からコンドルをみた本と見解は異なるが一般の人たちは事実に従った本とみるだろう。何しろ明治の話は時間が近い割に江戸時代・幕末よりドラマ化されず知っていない。
 コンドルは明治日本にやって来て日本文化を紹介した外国人の中では異色で古い日本文化より、暁斎と付き合っていたため当時の日本文化を紹介していた気がする。その結果彼の設計した鹿鳴館は欧風建築の中にインドイスラム様式が少し入っている。そのため欧風化政策の人達に不満が生じ、さらに反欧風化の人達にも嫌われた。
明治10年代はいろいろ面白い。時代考証に忠実にするには難しいので映像化は費用がかかるだろう。榎本武揚と交流があったようで福神漬人脈の一員と成る。ただこの本は小説とはいえ榎本武揚を鹿児島の出としたのはいけない。彼は江戸下谷の育ちである。
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河鍋暁斎から

2009年09月02日 | 福神漬
河鍋暁斎から
河鍋暁斎美術館で学芸員との会話の中で榊原健吉・歌舞伎役者との交流や建築家コンドルの話が出てきた。
2009年東京駅に近いところに三菱一号館が再建された。ここには来年美術館ができるのだがこの建物は英国人ジョサイア・コンドル(1852–1920)の設計により、1894年(明治27年)に竣工したのを忠実に再建したという。
 三菱グループは明治中期、日本郵船が基幹企業でその社史のエピソードの中で「カレーライスと福神漬』が出てくる。上野で創製された「福神漬」が根岸に住んでいた人達から色々なルートを通して、日本郵船に納入された。しかし具体的な資料・史料がないから周囲の状況証拠で推測してゆくしかない。第二次大戦後、多くの日本郵船関係者の証言があるだけで、今のところ文献が見つからない。
 根岸の人脈と三菱の関係から「記録になくて記憶にある」福神漬の話が始まるのだろうか。コンドルは三菱関係の建物を数多く設計している。コンドルは日本人を妻とし、明治の日本文化を理解しようとした人だった。明治の味ともいえる福神漬とカレーライスと三菱を結ぶ人だったかも知れない。
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新場の小安

2009年09月01日 | 宅老のグチ
新場小安 しんば‐こやす
江東区の史跡案内に新場小安墓がある。東京都江東区猿江一丁目重願寺にある。
日本橋魚河岸に対して、新しい魚市場(日本橋本材木町)、通称新場と言われたところに幕末侠客がいた。講談や小説に出るのは初代の新場の小安だが2代目も色々活躍していて、明治18年河鍋暁斎の両国中村楼の書画会にも最後の剣豪と知られていた榊原健吉とともに参加していた。
 この2代目新場の小安は労働運動にも関係しているようで博徒とか侠客という言葉からくる印象と合致しない。明治の貧しい靴加工労働者の運動を見ていると下町の皮革加工の差別を感じる。軍隊に収める靴加工は彼らにとって安定した得意先でもあった。
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