年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語93明治のブランドリ―ダー

2010年02月13日 | 福神漬
明治のブランドリ―ダー
明治の文化は歌舞伎のような日本伝統の演劇でも欧米からやってきた文化に多かれ少なかれ影響を受け、欧米の文化も日本になじむように消化する時期でもあった。日本の伝統食漬物も新しい食文化に入ってゆく時でもあった。自給自足的生活から軍隊・学生寮・工場宿舎等の需要が出てきて、家族や使用人が作った食事をとらない生活が一般大衆まで明治中頃から都市で広まった。このような過渡期に福神漬が生まれた。しかし漬物を金銭で購入する時代ではなかったので販売拡大にはかなりの創意工夫が必要だった。
 上野寛永寺の山下にあった池之端酒悦は上野戦争で上野界隈の観光客が減り苦労していた時でもあった。唯一繁盛していた池之端仲町の守田宝丹は船舶の高速化でコレラという病気が幕末から日本に蔓延し、その薬を販売し利益を上げていた。守田は明治広告業界の祖ともいえる人物でもあった。広報の雑誌を作ったりチラシ広告を各戸へ配布したり、新聞に広告出したり、現在にも通じる広告手法を使っていた。
 酒悦主人が同じ町内で活躍していた販売方法の影響を受けている。また明治の食品の販売は40年代までブランドリーダーとも言える芸者さんを通じて広まっていた。(日露戦争後は女学生に変わってゆく)福神漬も芸者さんの口コミ宣伝によって広まっていった。今は芸者さんは社会と縁遠くなってしまったが明治時代に小新聞の3面記事は芸者・遊郭記事で埋まっていた。そして文明開化の象徴の一つである写真は芸者を新聞に載せるため発展したとも思えるくらいだった。その結果浮世絵等の江戸時代繁栄した絵画産業が衰退した。この時期、多くの海外に流失した日本美術は時代の変化の激しさの結果であるかもしれない。

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福神漬物語92守田宝丹

2010年02月12日 | 福神漬
守田宝丹 守田治兵衛(9代目)
今でも上野池之端仲町通りに薬の店舗を構える。『守田宝丹』という薬を幕末から明治初期に様々な手段を用いて販売した人。明治初期の日本広告史には必ず出る人。
 福神漬の販売拡大にはかなりの影響を与えたと思われる。明治の薬販売広告に関して、下町の人たち(芸人・文化人)の後援者でもあった。明治23年新富座で公演があった『皐月晴上野朝風』という演目で守田治兵衛は池之端の人々を集めて総覧した。下町(浅草を中心とした)に対して新住民(銀座・新橋)の代表は岸田吟香で目薬の宣伝広告をしていた。この件に関しては汐留のアドミュージアムに詳しく展示されている。
守田宝丹 明治東京畸人伝 森田まゆみ著から
寛永年間に創建された上野寛永寺の門前町として池之端仲町は寛永寺の御用をしていた。さらに戦前までは不忍の池に向って料亭や待合が並んでいた。そして仲町通りには江戸時代から続いている老舗が並んでいた。明治に入って寛永寺の御用が無くなり一帯は寂れたがその中で九代目守田治兵衛は宣伝上手で各戸に薬の効能書きを配ったり、PR雑誌を創刊したり、歌舞伎役者に『宝丹の薬』の薬がよく効くとセリフに書き込ませたりしていた。この宣伝手段は今でも使われている手法でもある。明治年代まで色々な新聞に『宝丹』の宣伝が載っている。当時の新聞社にとって大事なクライアントだっただろう。守田は今の電通・博報堂の役目を明治時代に果たしていた。従って福神漬・酒悦の宣伝方法にもかなりの影響を与えたと思われる。
 又人物的にも逸話が多く、上野の山で密かに彰義隊の墓を守っていた人を援助したり、慈善の寄付したりや公共事業に多大な寄与もした。さらに最後のちょん髷保持者としても有名で酒悦の野田清右衛門の保持にも影響を与えたかもしれない。
 江戸から東京になってある程度たって後でも『ちょん髷』をしていることは反文明開化・親江戸情緒との表現と意味していた。

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福神漬物語91本多錦吉郎

2010年02月11日 | 福神漬
本多錦吉郎 嘉永3年―大正10年
鹿鳴館や三菱の建物を設計したジョサイア・コンドルは明治26年頃。日本庭園「図解庭造法(ずかいにわづくりほう)」本多錦吉朗著の英文解説を出した(DANDANSHA1890)。
本多錦吉朗は幕末1850年江戸の芸州(広島)藩邸で生まれた。1863年芸州に戻り、藩の方針で英学を学ぶ。この時芸州藩出身でイギリスに密出国した野村文夫の下で学ぶ。1871年東京に出て慶応義塾に学び、翌年工部省の測量師の見習いとして測量学を学ぶ。この当時は測量を記録するには絵の素養が必要だった。1874年国沢新九朗の下で洋画を学ぶ。
 明治10年同郷の野村文夫に誘われて、團團珍聞に絵を描くようになった。明治13年7月31日号に書いた狂画が有罪判決となり、團團珍聞に絵を書くことを止め、明治16年陸軍士官学校に勤めるようになる。本多が團團珍聞の狂画をやめた後、明治14年から小林清親が風刺画を書くようになった。
 ここに河鍋暁斎の弟子だった小林清親、同じく河鍋暁斎の絵の弟子だったジョサイア・コンドルが本多錦吉郎の庭園の本を野村文夫の團團社から出版した理由が理解できる。
 福神漬の周囲の人脈の意外な結びつきはいつも驚かされる。明治10年に発行された團團珍聞はその雑誌名を梅亭金鵞に命名されたが政府の言論弾圧に備えたものだった。雑誌の中に英文の記事があって、このことに関してどの様な効果があったか不明であるが。明治維新時、発行された東京付近の新聞は殆ど旧幕臣の人達が出していたので明治政府批判の記事であったので発行停止となった。しかし外国人居留地で発行していた新聞は禁止できなかった。さらにこの当時はそろそろ条約改正問題が始まった時だったので色々な日本の事情を紹介して、日本を欧米並みにしようとする目論見があったと思われる。特に言論人が投獄されたことによって江戸時代と同じ拷問が行われていたり、非人道的な遊女の実態が外国に伝わったと思われる。このことが『フジヤマ・ゲイシャ』の絵とともに今でも残っている。監獄の改良は外国人の圧力で非文明的な状態と報道され、その他の様々な法律をつくることが条約改正には必要だと知るようになる。

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福神漬物語90小林清親

2010年02月10日 | 福神漬
小林 清親
こばやし きよちか 弘化4年(1847)- 大正4年(1915年)
最後の浮世絵画家といわれる明治の小林清親は江戸時代の浮世絵とはっきりと違いが解る。
彼は江戸本所の御米蔵屋敷で生まれる。父がその御蔵屋敷の総頭取の地位にあったためである。維新後静岡に滞在中、剣豪榊原健吉とともに剣の興行をしていたほど体格が良かった。1874年27才上京し、横浜で西洋画をチャールズ・ワーグマン(疑いがある)に学び、さらに河鍋暁斎にも一時師事した。1876年洋風木版画の『東京名所図』を出版し始め、その西洋風の画風が「光線画」として人気を博し、浮世絵版画に文明開化をもたらした。1881年の両国の大火後、光線画から遠ざかり、明治13年、洋画家本多錦吉郎が『團團珍聞』に書いた絵が咎められると、本多に代わって「清親ポンチ」と呼ばれた戯画を『團團珍聞』に描くようになる。浅草小島町、山ノ宿、下谷車坂町に住み、上野、浅草を描いた絵も多い。最後の浮世絵師とか日本印象派の先駆者始とも言われた画家である。浮世絵画家として小林清親が評価されるのは明治9年から14年にかけて活躍した時である。しかし福神漬の話に関連してくるのは明治14年以後の話となって来る。徳川の時代が文明開化によって元の世に戻らないことと旧幕臣の意地が絵画に現れてくる時が明治10年代だった。
 小林清親が反明治政府となった原因は明治維新時、米蔵を接収しに来た東征軍の兵士に暴行を受けたことから始まるという。原胤昭・戸田欽堂と付き合ううちに感化され、自由民権運動の絵を描くようになる。しかしのめりこむ事も無く、絵画需要の変化に対応した絵を描いて生活していった。
鶯亭金升が明治22年に結婚するときの仲人を務めたが小林清親が團團社を退社したころから仲が悪くなった。
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福神漬物語89明治事物起源

2010年02月09日 | 福神漬
明治事物起源 6 石井研堂著 123頁
缶詰製造の始まり
明治2年版『西洋見聞録』に『ガラス器或いは錫器にいれ、防腐法を以ってこれを密封し云々』と書いてあるのは、今日の缶詰のこと言っている。
 缶詰製造の初めは、明治3年中、工部大学雇い教師米国人某が、東京市四谷区津の守に住んで、四季の果物類を缶詰として、自家用に供したのが初めとする。
 当時この外人に雇われ、缶詰製造を手伝いしたのは、千葉県行徳の山田箕之助という者で同人の先代喜兵衛(維新の際五稜郭にて戦死)は、以前将軍家の漬物方を勤めたことあり、その家記によれば、寛永年間北条阿波守が天草征討の際、軍中に副食物の乏しきによって小握り飯には一切黄粉塩を用いたが、後品切れにて胡麻塩に改めたのも、これまた不足を告げ、よんどころなく大根を細かく切って味噌溜りに漬けて、溜り漬けと称し、軍用に提供した。
然るに文化年間、露人北海道に乱入したる頃、近藤重蔵、石狩において、右の溜漬けを醤油漬に改めたるより。これを紋別漬という云々とあり。
 かくて箕之助は、明治7年前記米人の缶詰法によって、この紋別漬を改良し、他の野菜を用いたるこそ、邦人の手にて缶詰を造りたる起源である。同年、三井物産社より、下谷池之端某店に委託し、紋別漬200個をハワイおよび米国に輸出したのを持って、缶詰輸出の初めとなる。

今では紋別漬なる漬物はない。下谷池之端某店とは酒悦のことだろうか。この缶詰の起源は日本缶詰史とはやや違うような気がする。日本の缶詰の初期は醤油漬の魚・肉・野菜等のものが多い。
山田箕之助の名前は日暮里諏訪台にある浄光寺にある福神漬顕彰碑に名前がある。同一人物なのだろうか。

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福神漬物語88佐多稲子

2010年02月08日 | 福神漬
池の端の佐多稲子(1904-1998)

長崎で生まれたが複雑な家庭であったたため故郷喪失となり、上野山下界隈の気風が佐多稲子の心の故里なった。上野山下の心の中にある気風は反文明開化・親江戸情緒と言うことなる。
佐多稲子『私の東京地図』1
今頃この作者の本を読むとは思わなかった。検索すると福神漬のところで読むべき本と。一読すると自伝的小説で1910年ころからの東京の中と転々とした生活の跡と人との交流を書いていたような気がする。さらに福神漬の次の御徒町のあたりの文は樋口一葉の(たけくらべ)と似ているような気がした。
 この文は戦後まもなく書かれたもので(1946年3月)彼女のプロレタリア作家の形成が上野山下であると書いてある。
『東京の街の中でここは私の縄張り、と、ひそかにひとりぎめしている所がある。上野山下の界隈で。池之端、仲町、せいぜい黒門町から御徒町まで。これは、私の感情に生活の情緒が、この辺りで最初に形づくられてからであろう。』

佐多稲子『私の東京地図』30頁
鈴本の手前の大時計との間に、焼ける前は福神漬屋が近代風に店を出していた。この福神漬屋は私のいた頃は仲町の中ほどにあったものだった。池之端の福神漬と呼びならし、名代の店だったが、ずっと後になって、この福神漬の缶詰を手にとって商標をながめた友達の一人が『ああ、これ酒悦(しえつ)ね』
と喜んだ。そのしゅえつ、という名前は私には初めてで、山の手に育った友達は、池之端の福神漬も酒悦の福神漬と呼ぶのかと、耳に残ったことがある。
ある朝、福神漬を買いにやらされたが、この店では福神漬は好みのものだけ交ぜてくれるので、何かおかみさんの嫌いなものがあって、それを交ぜないように、と言いつかって行った。私は仲町まで走ってゆくうちに、その何かの名を忘れてしまった。まだ朝早く、ようやく店の掃除などを始めている仲町にうろうろしていて、何とか思い出そうとするのだがどうしても出てこない。あ、といいことに気づいて、私は福神漬屋に、奥の暗いような店に入ってゆき、福神漬に入る種の色々の名を聞いてみた。大根・しそのみ・こぶ・なた豆、あ、それだった、と、『なた豆だけは交ぜないでくださいな』と、用を果たしたことがある。

酒悦の福神漬は好みのものを交ぜることが出来たのだろうか。店舗ではバラ売りしていたということで一般の人は缶詰の福神漬を食べていた。明治末期の池之端のイメージは今の銀座のイメージと同じようなブランド価値があったのだろうか。
 ところで佐多稲子の女主人はなぜ『なた豆』をまぜないように指示したのだろうか?想像だがナタ豆の言い伝えで『避妊』効果があると信じられていた。佐多は本当の下町の人ではないので遊郭の旧習は知らなかったかもしれない。もしかすると女主人は花柳界の出身かもしれない。

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福神漬物語87戯作者と売文

2010年02月07日 | 福神漬
戯作者と売文
明治新聞経営の危機
 明治時代は新聞の創刊・休刊・廃刊・発行禁止がしばしばあって、読者層拡大の大きな流れは大新聞から小新聞に向っていった。大新聞とは政治等を扱い、風俗の事件とか芸能情報とかは少ししか扱わなかった。それに対して読売新聞などの小新聞といわれる新聞は一般庶民の興味を持つ記事を広く載せ販売部数を拡大した。
 最後の大新聞といわれる『 日本新聞 』は陸掲南が社長で根岸に住んでいた。後に正岡子規は日本新聞に入社し、日本新聞社社長の陸の隣に住み、そこで亡くなった。子規も根岸に住んだが根岸派・根岸党とは関係ないようだが交友があったと思われる。明治22年ころ不忍池のほとりに僅かな期間住んだがそこで福神漬は食べたのだろうか。資料はない。お堅い大新聞は最後に部数が減り買収された。正岡子規の墓の墓銘碑に日本新聞社社員となっているという。

今の日本において売文で生活できる人はどの位いるのだろうか。幕末の戯作者たちは売文で生活することは出来ず、江戸時代は道具屋か薬屋等を兼業しなければならなかった。また後援者を必要としていた。明治中期までまだ不景気で福神漬の命名した戯作者梅亭金鵞も生活のため商品名と引き札広告文を考えたと思われる。酒悦主人と戯作者の関係は池之端周辺で遊んでいた縁とも言える。作者の印税という考えが無く、戯作者も浮世絵画家も生活は厳しかった。
 出版不況で雑誌等が休刊し活躍できる場が減っているのが気になる。このような時代は幕末だと退廃的な風潮の作風となっていった。
 明治政府に迎合した記事では新聞販売の部数の拡大は望めず自然と政府と衝突する記事となってゆく。しかし大新聞から小新聞に読者の関心が向うと際どい文章で表現するようになる。するとそれに対抗するように法律が出来る。あいまいな法律の運用を任される役人は解釈で悩む。そして時代が経るに従い言論弾圧の条文が増えていった。

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福神漬物語86伏字 ○○ まるまる

2010年02月06日 | 福神漬
芸州藩士野村文夫がイギリス留学中に見た社会風刺雑誌をまねて創刊された明治の代表的な時局諷刺雑誌○○珍聞だった。明治10年に創刊された後、30年にわたって大人気を博した。雑誌名は梅亭金鵞が命名し、“團團”とは伏字の○○(まるまる)を意味している。明治8年の新聞紙条令によって言論・表現の自由が制限されて以来禁句をそう表現したことに由来する。洋画家本多錦吉郎や浮世絵師小林清親、ビゴーや田口米作などの有名な画家が画を描き、藩閥政府・官員・企業家を風刺した戯画・戯文で痛烈に批判した。従って出版禁止や発行停止を避けるため政府批判をそれとなく絵や文章で表していた。


江戸の判じ絵 岩崎均史著
寛政5年の改革での出版規制で浮世絵に素人女性の名前を表示することが禁止された。これを「判じ絵」で描いて読者に読み解けるようにした。浮世絵「高名美人六家撰 扇屋花扇」は背景の中に扇・矢・花・扇を書いてあって「おうぎやはなおうぎ」と読めるようにした。
どの様な時代でも、法のすき間をついて販売部数を拡大するため工夫していた。しかし時代が変わってしまったため、意味不明となったものや違って解釈されるのも出てきたようだ。原宿にある太田美術館の浮世絵の解説には寛政8年に判じ絵も禁止されたという。
もし、福神漬の名前に梅亭金鵞が七福神から来ただけでなく、何か別の暗示を示していて名前を与えたとしても今ではその暗示がすっかり消えてしまったのではないのだろうか。福神漬の名称が出来た明治16年から18年にかけての社会状況、特に東京の状況を知らねばならない。
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福神漬物語85天衣紛上野初花

2010年02月05日 | 福神漬
『天衣紛上野初花』
くもにまごううえののはつはな.
天衣紛と書いてあって「くもにまごう」とは歌舞伎通しか読めないだろう。天衣紛と書いてあって「くもにまごう」とは歌舞伎通しか読めないだろう。築地の大谷図書館で借り出す時、思わず『上野のてんぷら粉』と言いそうになった。
明治14年の歌舞伎新報で一番初めに出てくる「雲見」とあって、新富座で公演が始まった時には『天衣紛上野初花』となっていた。この出し物は3月1日から当時上野公園で開催されていた、第二回内国勧業博覧会の客を取り込もうとした企画であった。
 この博覧会の事務を取り仕切っていたのが北白川宮能久親王であった。博覧会当時は上野に住んでいたようである。「能久親王事蹟」森鴎外著
「明治十四年辛巳、三十五歳。東京におはす。議定官を兼ねさせ給ふ。歩兵大佐に任ぜられさせ給ふ。紀尾井第を営むとて、しばらく東叡山(上野寛永寺)に住ませ給ふ。」
江戸時代にあった話や言い伝えの実話を明治初めに2代松林伯円(しょうりんはくえん)が「天保六花撰(てんぽうろっかせん)」で講談としてまとめた。ここでは河内山宗俊は上野寛永寺の御数寄屋坊主(茶事や茶器の管理を行う)とされ、松江藩(松平家)への乗り込みと騙り(かたり=金品をだまし取ること)が中心となっている。さらに明治7年(1874年)には河竹黙阿弥が伯円の天保六花撰をさらに脚色し、歌舞伎作品『雲上野三衣策前(くものうえのさんえのさくまえ)』として初演(主演九代目市川団十郎)。さらに明治14年(1881年)3月には、やはり黙阿弥によって『天衣紛上野初花』と改題されて、東京新富座で二カ月上演した。
 福島事件で自由民権運動を支持していた原胤昭は国事犯となった六人を見立て「天福六歌撰」と題して浮世絵を出販し,政府によって犯罪者となった。原の投獄を見ていた團團珍聞の梅亭金鵞はまともな比喩だと投獄されると考えただろう。

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福神漬物語84天福六歌撰

2010年02月04日 | 福神漬
天福六歌撰
天福(てんぷく=転覆)
原胤昭は福島事件の浮世絵を配布した時、6被告と公判で問題となった政府転覆に掛けて「天福六歌撰」と題した。これは明治14年(1881)上野公園で開催された第二回内国勧業博覧会のときに、東京新富座で河竹黙阿弥晩年の最高傑作「天衣紛上野初花」の通し上演した。講談「天保六歌仙」を題材にした狂言で、九代目團十郎の河内山、五代目菊五郎の直次郎、初代左團次の市之丞、八代目半四郎の三千歳という顔合わせで大当りをとった。この歌舞伎も題名に上野がついていて、第二回内国勧業博覧会の見物客を取り込もうとしていた。
 原は自由民権運動を弾圧した福島事件の高等法院裁判確定後、間もなく浮世絵画家小林清親に絵をかかせ、文章を原胤昭として出版販売したところ販売禁止となり、無料配布し
た。配布した浮世絵は田母野・花香・平島松尾の3枚であったという。
福島自由党の盟約には「第一条に吾党は、自由の公敵たる専制政府を転覆して公議政体を建立するを以て任となす。」とあった。河野広中(磐州)が最初書いたのは「専制政府を改良して」であったが花香恭次郎が主張して、「転覆」と改めたのであった。後年この二字のため、盟約書が証拠となって、その署名者河野磐州はじめ、田母埜秀顕、愛沢寧堅、花香恭次郎、沢田清之助、平島松尾の六名が被告人となった。つまり「転覆」が犯罪の証拠とされた。社会の法違反者をヒーローとした歌舞伎白波物の影響もあって「天福六歌撰」とした。従って福神漬の命名した團團(まるまる)珍聞主筆梅亭金鵞は単に谷中の七福神から命名しただけでなく、團團珍聞に出入りしていた原胤昭・小林清親から話を聞いていたので、福=復の意味もいれて命名したのではないのだろうか。福島事件被告6人と原胤昭は石川島の監獄で知り合い、原はこの後犯罪者の生活保護を目指す人生となった。

福神漬語り部の鶯亭金升は会津帝政党(福島自由党を攻撃していた)を支援していた池の端御前といわれた福地桜痴(源一郎)の敷地内で新婚生活を送っていた(明治22年頃)
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福神漬物語83原胤昭 

2010年02月03日 | 福神漬
原胤昭から 
今でも銀座にある十字屋の前身(雑貨店・キリスト教関係の書籍販売)を戸田欽堂・戸川残花らとつくり、明治初期はまだ完全にキリスト教関係の布教が完全に自由になっていない時代であった。原はそこの従業員だった人に店を譲り、自身は神田須田町に三好野絵本店という錦絵問屋から紹介されて本屋のような店を開いた。ここは神田雉子町にあった團團珍聞からほんのわずかの距離であった。
 明治16年(1883)7月19日、自由民権運動を弾圧した「福島事件」の裁判が東京高等法院で始まると。小林清親・画・原胤昭・文の風刺画が発売禁止処分になり、これに抗議する形で無料配布した原には、軽禁固3ヵ月の刑が科せられ、石川島の獄(今の中央区佃)に入獄となった。原胤昭が出版して獄に入る理由となった錦絵は明治16年9月5日 神田須田町25  画工版元 原胤昭 となっていて小林清親の名は隠されていて、浮世絵画家小林清親が獄に入ることを免れた。
石川島はかっての佃島の人足寄場をつくろった獄舎があり、旧時代の牢名主が権力を持つという風潮が維持されて、罪人の虐待は公然と行われていた。原自身、13歳から父とともに与力を勤め、年齢の若い身ながら人足寄場見廻り役をさせられていたことを考えると、30歳にして身分が逆転して囚人として入獄することは運命のいたずらとしか考えられない。[『開化の築地・民権の銀座』太田愛人p92]
原胤昭はまた築地の女学校を引き継ぎ、銀座に女学校を作ります。これが今の女子学院です。旧幕臣のキリスト教信者は女子教育に力を入れていました。
その女子学院の村瀬先生の礼拝から、この様な話があります。
「西洋にはクリスマスカードというものがあることを知り自分でも錦絵作家(多分小林清親だろう)に絵を作らせカードを発売したりします。その錦絵とも関係があるのですが、会津で起こった福島事件にも関係します。これは新しく来た県令の悪政に県議会の人々が抵抗して戦い、投獄された事件ですが、原はこの人達を支援して錦絵を売ったり配ったりしたので、自分も思想犯として獄に入れられます。このときに獄中での環境の悪さ、待遇の悪さを身をもって感じます。原自身もチフスで死にそうになり、実際に友人(田母野秀顯か?)は死にました。こういう経験から原は受刑者に目を向け、受刑者を懲らしめるだけでなく更生させなければいけないと感じ、そのために働き出します。後には日本初のキリスト教教誨師になり、生涯をかけて刑期を終えて出獄してきた人の保護活動をします。」
 一般には福島事件の三原県令が悪役となっていますが山形県では評判の良い県令でした。私欲も無くサクランボの栽培とかトンネル掘削など今でも残る事績があります。
「道路を開発こそ近代国家建設の大命題であり、道路は、すべて中央政府に直結する。」とする信念の持ち主の三島通康は福島と山形の間の道路を開発した。 栗子山隧道は、山形県の米沢と福島県の福島を結ぶ全長804mのトンネルで明治11年の初めに工事着工し、明治13年12月に貫通した。標高1,217mの抗甲山(栗子山)の山腹を穿って出来上がったもので計画された当時は狂気の沙汰とだれひとりとして成功を信じていなかった。賦役によって難工時は完成した。この時の悪評判が報道機関によって誇張され、さらに松方デフレによって三島が福島県令になった時、農村部が不景気となり最悪の結果を呼んだようです。
明治17年
田母野秀顯の死は同じ獄中にいた花香恭次郎によって同志に伝えられ、谷中墓地に埋葬されました。原胤昭の作り配った福島事件の錦絵「天福六家撰」は田母野秀顯・花香恭次郎・平島松尾の三人でした。原と田母野ともチフスに罹り、獄中で出会い原は生き返り、数日後田母野は亡くなりました.天福(てんぷく=転覆)を意味しています。ここに福という字が隠されています。もしかすると福神漬には復讐という意味が隠されている可能性があります。
しかし、明治憲法発布(明治22年2月)による恩赦で釈放された福島事件の被告が復讐する前に三島は亡くなりました。(明治21年10月)。この事が福神漬に隠された比喩が伝わらない原因となったと思われます。
山口昌男 1997 国立近代美術館 より
錦絵は明治初期の絵入り新聞を賑わしていたが、小林清親や久保田米僊は、ポンチ絵や時事的な挿絵によって社会的現実を加工してイメージに仕立て上げた。小林清親の場合は原胤昭の十字屋とのつながりから自由民権の運動と奇妙な関係にあった。久保田米僊ははじめは京都にあって京都版「圓珍新聞」である「我楽多珍報」の連中と滑稽を主旨とするグループを形成した。その関係から初期(明治三十年代)の三越の知的グループにも息子の米斎ともども加わった。更に「仲間二連」好みの性格により、インディペンデントな根岸党(幸田露伴など)にも加わった。

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福神漬物語82戸田欽堂

2010年02月02日 | 福神漬
福神漬という商品名は戯作者梅亭金鵞が明治16年から18年にかけて命名したものだが単に谷中七福神をから命名したのだろうか。調べると色々な疑問が出てくる。

戸田欽堂1850-1890(嘉永3年-明治23年)
明治13年6月我が国最初の政治小説『情海波瀾』を著した、
民権演義 情海波瀾 戸田欽堂著 住所北豊島郡下駒込村931番地

 戸田欽堂は、父に大垣藩主戸田氏正、行儀見習いで戸田家に奉公していた高島嘉右衛門の姉を母として生まれた。戸田伯爵の系列にありながら、一方で明治初期の豪商高島家の血筋をひく恵まれた境遇にありました。
明治4年渡米し、洗礼を受けるがすぐに帰国。築地の英語学校で伝道、出版、教育に励んでいたカローザス夫妻、原胤昭、鈴木舎定、田村直臣、戸川残花等と知り合う。
銀座でキリスト教関係の書籍を販売する店を開いた。時代はまだキリスト教を解禁して間もない時だったが殆ど採算が取れていなかったので戸田欽堂の資金が必要だったと思われる。
 欽堂はその後も国会開設建議の草案を書いたり、また各種の新聞で自由民権運動の論陣を張ったりと、華族出身の民権運動家として活躍します。戸田家としては厄介な人物であったようです。当時、小説家(戯作者)などは身分の低い人達が行う仕事とみられていました。
政治小説『情海波瀾』の中に佐倉義民伝の話があります。佐倉義民伝は幕末から講談・浪曲・歌舞伎などでも積極的に上演されていました。 福沢諭吉(学問のすすめ)や自由民権運動活動家は、彼らの主張の先駆者として惣五郎をとりあげてあったため戸田の民権小説に佐倉義民伝の評論が入っていったと思われる。
 キリスト教の伝道と自由民権運動に力を注いだ戸田欽堂でしたが、酒のため41歳という若さで亡くなります。明治23年8月に花香恭次郎が亡くなったとほぼ同時期に横浜の高島別邸で亡くなりました。

佐倉義民伝 
千葉県佐倉の藩主堀田上野介は悪政をしたため、領内の農民が困窮し、飢餓に瀕した。その時印旛郡の名主木内宗五郎が訴えるが取り上げられず、最後に将軍が上野寛永寺に参拝する時、不忍池から流れ出る川に架かっていた上野三枚橋の下に隠れ、見事将軍に上訴したが宗五郎一門は極刑となった。この後堀田上野介は宗五郎の怨霊によって死んだという。
 福神漬の命名に関して影響のあるのは明治17年市村座『東叡山農夫願書』九代目市川団十郎主演が考えられる。また戊辰戦争時、花香恭次郎は一時佐倉に避難していて、どの様な教育を受けたのでしょうか。幕末佐倉藩留守居役だった依田学海は佐倉義民伝のような事実はないと明治になって憤慨していました。学海日録より
 自由民権運動弾圧の象徴となった福島県県令三島の圧制が佐倉義民伝を思い出させていたと思われる。

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福神漬物語81高野長英

2010年02月01日 | 福神漬
高野長英―内田弥太郎―花香恭法

嘉永3年(1850年)高野長英(47歳)下総香取郡萬歳に一時潜伏する。花香恭法の家に隠れる。3月まで。
嘉永3年10月30日自刃
高野長英 佐藤昌介著より
212ページ
内田弥太郎(五観)門人で西洋詳細証術(西洋数学)を学んでいた花香恭法を頼って、下総香取郡萬歳(今の千葉県旭市)にしばらく身を潜めた。内田弥太郎の指示で甥が高野長英を江戸で匿ったのだが甥とか高野の妻などが高野が殺害された後処分されたが内田弥太郎はどの様な理由か不問となっている。高野長英の関連の書籍に納得の行く見解がない。長英が自刃したとき(史料では自刃となっているが吉村昭氏によると江戸市内に潜伏していたため、逃走状況が判明すると町奉行の面目がつぶれるので撲殺したという)、この時内田弥太郎は何処にいたのだろうか。
 多くの高野長英に関する本でも、長英が殺害された時、内田弥太郎が幕府の咎めが無かったのは不思議であると書いてある。また明治まで生き残った内田弥太郎(五観)はこのことを語ることも無く人生を終わらせた。嘉永3年の高野の死去後、内田は幕府の職を辞し、麻布の地で西洋詳細証術(西洋数学)を教え、維新前、横浜で外国人向けに刊行されていた英字新聞等を翻訳し、慶応元年(1865)には会員に翻訳新聞の写しを提供する「会訳社」に参加していた。維新後わが国の暦の改定に関わる天文台の仕事に携わっていた。築地の蘭学医者桂川甫周の家に出入りしていた人達と『オランダ正月』を祝っていたこともあった。
 内田弥太郎は戸田伊豆守氏栄に浦賀で会っていたのではないだろうか。戸田が浦賀奉行となったのは弘化4年で高野が死去する前のことで、浦賀を測量した内田弥太郎の意見を必要だったのではなかったのか。当時の幕府の中で開国止むなしと思っていた戸田は内田や高野長英の意見を採っていたと思われる。しかし、戸田の行動は当時の幕府幹部の中では過激すぎて、ペリーらが退去するとペリーと開国の密約をしたと疑いをかけられ、再度来航したとき戸田を応接の場から外した。南浦書信 浦賀近世史研究会著
 戸田が高野長英の死去時、内田弥太郎を保護したのではないか。戸田の3男長井昌言の依頼で内田弥太郎に5男の行く末を頼み、内田の学問上の弟子である花香恭法の養子としたのではないだろうか。既に花香の家には養子がいたので無理して頼んだと思われる。
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