年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

60年前の記憶 ザリガニ

2015年10月16日 | 宅老のグチ

 

今の目蒲線(今は多摩川線)のところに電車へ電源を供給する変電所があった。今でもあるが60年前は変電所の変圧器を冷却する水が絶えず暖かい水が流れていた。その水が線路の脇の田んぼに流れ込んでいた。田んぼにはザリガニがいて子供たちがスルメイカを餌として釣っていた。今では埋め立てられ区民のためのホ-ルが出来ていた。多分地震があれば液状化するところだろう。

 昔は多摩川が蛇行していて田んぼは河川の跡地だった。河川地ということは下水道工事で少し掘ると綺麗な砂が出ていた記憶がある。ある時下水工事の人が簡単に掘れるため壁の先まで掘り過ぎ、崩落して死亡事故があった。いい思い出もあるが同時に悪い思い出もある。

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維新から18年後

2015年10月15日 | 福神漬

明治の18年頃を調べているが戦争が終わって18年後になるのが昭和38年となる。黒四ダムが完成し、日本初の高速道路名神高速が一部開通した。オリンピック開催前年ということで、東京中が建設工事現場だった気がする。
 福神漬が命名された時期が維新後18年経った頃でした。江戸という時代を語る人が老人扱いされる時期でした。ちょん髷姿の文明開化に付き合っていけない人が少数となる時期でした。今の18歳は未成年ですが当時の女性はこの頃が結婚適齢期でありました。伊藤博文の女性に対する行為は今では犯罪になることが許されていました。維新からの18年は時代の変化に対応できる人と出来ない人の差が出る時期でもありました。榊原健吉、酒悦主人の野田氏もちょん髷の人でした。

 新保祐司著 異形の明治 という本を読んでいる。福神漬が作られ、販売方法で苦労している次期と重なる。明治の江戸という時代と決別する時間が18年だったようだ。

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ベッタラ市は晴れそうで

2015年10月14日 | べったら市

 

今年もベッタラ市の時期となった。都心でこのような個性のある祭りはそれほど多くない。昨日もハロ-ウインの祭りの車が走っていた。今年の天気は雨が続くと続き、野菜も高騰している。秋もしっかり寒くなって、昔のベッタラ市のような寒さを感じる。

 明治の暦の改変で祭りが1月ほど早くなったため、冬になると甘みが増す大根栽培が品種の改良に向かった。早稲品種の目立つのがこのような理由である。今は遠距離輸送の発達と冷蔵庫内製造のため、明治期のベッタラ作りより簡単である。当時の人達は高価で売れる大根の漬物販売を期待していたのだろう。

 時代が変わって、甘味を取ることが簡単となり、商家の年末の祭りの走りという意味も消える時代となった。恵比寿講は今の時代でどのような意味があるのだろうか。

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60年前の記憶

2015年10月13日 | 宅老のグチ

 

記録にならない記憶だが昔のことをふと思い出す。

正月

正月は準備から始まる。暮れの商材が少ない漬物は初荷のほうが張り切っていた。のぼり旗を掲げ、三輪トラックの荷台に人を乗せ得意先を回る。年始のタオルを交換し、酒を振舞われ、そのまま運転していた。今では禁止されている行為だが当時は許されていた。それほど酒が高価で酔って運転できないくらい飲むことが出来なかった。その理由として三輪トラックが横転しやすく、冷静に操作しなければならなかったと思う。修理が高い時代だった。

特に路面電車の交差点は横転しやすかった。今は日常見ることの出来る三輪自動車は外国にしかないように見える。

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60年前のクリスマスの日

2015年10月12日 | 宅老のグチ

 

60年前の12月25日に私の父は病死した。つまり今年の暮れで60周忌となる。ボケた母は父の50回忌までは死ねないとがんばっていたがもう60周忌となるのに記憶を失ったようだ。日ごろ母と対立していた人達もほとんど死去してしまった。

 時々その頃のことを思い出すが得意先から回収した空き樽を洗浄し、天日にあて干した樽を整理する仕事をしていた。ポリ袋のない時代で時々水漏れがあって補修しなければならないときがあった。青果市場(神田市場)からやってくる白菜を大きな樽に漬ける作業もあった。断片的な記憶が混ざっているがそんな時代から都内で漬物を販売している人達がドンドン消えている。

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強運

2015年10月11日 | 築地市場にて

 築地場外市場 秋まつり2015 

10日、11日に開催される築地場外市場の祭りも雨と言う予報も外れ、大賑わい。サンマが一番人気で長い行列となっていた。来年完成する場外市場の施設名が今日の新聞に入っていた中央区の広報で「築地魚河岸」と言う名称となったようだ。波除神社の隣の施設工事も休市の日も盛んに工事をしていて、どのような賑わいとなるのだろうか。

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神谷町に漬物屋があった頃。

2015年10月10日 | 築地市場にて

 

都心ともいえる日比谷線神谷町駅前に漬物屋があった。主に高級レストラン向けの食材を扱っていた。この付近を基盤とする不動産業者により、地上げされ今では別の場所で営業している。

 その神谷町での40年ほど前の話だが店内でヤマゴボウ(もりあざみ)を愛知県の八丁味噌で丁寧に漬け込んでいた。いまもその当時も手間のかかるものが敬遠されていたときだった。今は聞くところにでは国産原料を使って八町味噌で漬け込んでいるのはほとんど見当たらない。丁寧なつくりをしていた漬物は塩分を減らす工夫で消えていった。今日本で塩分の強い昔ながらの漬物は何処に生き残っているのだろうか。

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身内の病で

2015年10月09日 | 宅老のグチ

 

突然聞かされた身内の病で、頭が混乱している。仕事をしているときは忘れる。本来ならば秋需要で忙しいのだが為替も落ち着き、仕事はこの時期としては暇なほうである。毎月のように聞こえる廃業連絡で気分がそれでなくとも暗い。

 このままだと日本の漬物文化が消えそうである。残るのは思い出しかないのだろうか。

韓国でキムチを世界無形文化遺産の登録運動があるようだが漬物文化も記憶遺産の登録へ向かうのだろうか。

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一難さってまた一難

2015年10月08日 | 宅老のグチ

 

世界経済がようやく落ち着いたら、シリアで戦闘拡大、難民増加。車の環境対応技術の偽善など落ち着かない。

 10月に異例のコ-スで台風が北海道の東を通過する。台風に縁のないところでどの様な被害があるのだろうか。この時期北海道の漬物用野菜は(聖護院かぶ)しか思い当たらない。

 10月の台風は日本の食慣習を代えるきっかけになることがある。

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大根不足の秋

2015年10月07日 | 築地市場にて

 

 

北海道での最高気温が16度と予報されていた。これでは高校生などを除くと足を隠す服装になるだろう。

 業務回覧で大根関係の作柄が長雨で全国的に悪く、大根不足の秋となりそうである。来年用の大根は今後の天候しだいだが今年は久しぶりの沢庵不足の秋となるのだろうか。

 べったら市ののぼりが立ち、季節は確実に秋で半そでで昼はよいが夜は寒すぎる。最低気温が10度になるときも間もない気がする。

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NHK妄想ニホン料理『福神漬』の誤りか

2015年10月06日 | 福神漬

 

今年NHKで放送されていた福神漬関連のことで検証作業を行っている。明治35年頃、小林一三が日本郵船の船で外国に行ったとき、カレ-ライスに福神漬が付いていて気に入ったという。

小林一三の経歴で明治35年頃は海外へ行く余裕のない時期でおかしいなと思った。小林一三全集第4巻解説で昭和10年頃、インド洋の船中でライスカレ-を食べ、『阪急の食堂でもこれくらいのものが出来ないのか、ひとつこのコックさんに頼んで研究してみないか』と随行者に命じたという話は有名である。

 伝言ゲ-ムというのがある。最初の話が伝わるに従い内容が変わる。NHKで明治35年の小林一三の福神漬伝説となったようだ。

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小林清親と飯岡助五郎

2015年10月05日 | 福神漬

 

時の橋-小林清親私考  酒井忠康著

この本の終りの方に小林清親が飯岡助五郎との関係が書かれていた。著者は清親と侠客の関係を心情の世界と捕らえているようだ。だが小林清親が仲人をした鶯亭金升(長井金升)との関係から見れば東千葉をわざわざ訪問してもおかしくはない。

 鶯亭金升の幕臣長井家は御先手弓組の家柄で知行地は数箇所あり、今の飯岡町の外れのところにもあった。金升から聞いて飯岡の助五郎の寓居に泊まってもおかしくはない。長井家は治安維持を行っていた家系である。二足のわらじを履いていた飯岡の助五郎の話は知っていたと思われる。

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地上げ

2015年10月04日 | 宅老のグチ

 

どうやらバブル期を思い出させる地上げが来ているようだ。今度の地上げは時間限定のようだ。つまりオリンピックまでと言う雰囲気で建設費の高騰も後押ししているようだ。都内の漬物屋さんが100年の歴史を区切りとして、地上げしてきた業者に土地を売り渡すという案内が来た。また都内の漬物業者が消える。相続税増税に耐えられる都内の漬物業者はほとんどいないだろう。同様の問題は地価の高騰の兆しのある地方中核都市へ及ぶだろう。

 このままではつまらない品ぞろえの漬物ばかりがス-パ-に並ぶ時も間もない気がする。すでに沢庵漬に関して大手量販店に対応できる沢庵製造メ-カ-は2~3社となってしまった。今はまだ中国産の安い沢庵があるが人件費と為替の問題で中国産沢庵が消える日も近い気がする。

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東京のキムチメーカ-の廃業案内

2015年10月03日 | キムチ

 

一時は年商60億円を越えていた東京にあるキムチメ-カ-が今月いっぱいで業務を縮小するという案内が来た。

 様々な不運によって、廃業へ向かうようだ。今から10年ほど前、そのメ-カ-のキムチは売れていて、ある大手量販店への納入を目指し、その量販店の衛生管理にあう施設を作り、手作業の多い包装工程を改良するため、機械化用にパッケ-ジのデザインを変えた。そのため消費者が混乱し、売り上げが落ちた。同時期、韓国の人達が激増していた中国産キムチに難癖をつけ、寄生虫が入っていると騒ぎ、中国産のキムチが韓国に入らないようにしようとした。

 ところが日本では事情がわからないので韓国からのキムチの輸入が減少し、国内産のキムチが売り場を増やした。しかし今月廃業するキムチ業者は韓国風の名前の商品であったため、この騒動の影響を受け、新工場の稼働率が落ちた。その後の対策が失敗し、最近の日韓関係の余波で前途を悲観し、廃業を決断したようだ。

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荒天が終わって

2015年10月02日 | 宅老のグチ

 

前日の天気予報が大げさな荒天ということで気にしたいたが夜よりの大雨が意外と早く上がり、気温も上昇中。

 10月の野菜も思っていたほどの高騰もなさそうである。仕事もようやく落ち着いて本を読む時間が増えた。

 小林一三全集第6巻を読む。岩下清周を攻撃した大阪の新聞事情が詳しく書かれていた。206ペ-ジより。後は花柳芸術論。多分戦後の演劇しか知らない世代に理解できない事情が書いてあった。

 小林一三が今生きていたらどのような演劇論を語るのだろうか。今の宝塚の状況で満足しているのだろうか。

 明治期福神漬の商品販売拡大で下谷芸者のネットワ-クで口コミ宣伝があったようだが記録がなく結果のみが今に残る。

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