年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

再び好色一代男のナタ豆

2017年10月16日 | 福神漬

図書館から井原西鶴の好色一代男の完訳本を2冊借り出す。これは注釈でどの様になた豆に所の解釈が異なっているか知りたいためである。吉行淳之介訳では(塵塚から延びてきたナタ豆のツルが垣根にからみ、その実はおかしな格好でぶら下がっている。)この後に振袖姿の若衆(男性)とかいてある。

 好色一代男の巻二には(はにふの寝道具・14歳)とある。当時の年齢の数え方は数え年なので今の満年齢計算では1歳ほど引いたほうがよいのではないのだろうか。塵塚というのは振袖姿の若衆の裾の乱れからチラチラ見える生え出したばかりの性毛と解釈できないだろうか。もちろんナタ豆は男根をあらわしている。このように見ると大槻文彦の言海という辞書にナタマメとカラタチの関連が理解できるし、明治の山中共古の共古随筆に記述している伊勢地方で女衒(遊郭に少女を手配する)がナタマメを食べさせ、遊女として適するかに使うと言うことどう関連するのだろうか。

 まだまだ妄想が続く。

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缶詰の発明

2017年10月15日 | 福神漬

 

缶詰はフランスのアペ-ルが1804年ガラス瓶のなかに食物を入れて加熱・殺菌・密封する方法から始まる。この発明はナポレオンの長期保存できる方法で懸賞がかかっていた。(1808年長崎に侵入したイギリス船もナポレオンの影響があった。)

軍隊用携行食として缶詰が実用化されたのはフランスではなく、 1812年イギリスで缶詰工場がブリキ缶使用し、稼動した。この缶詰は陸海軍に供給された。その後缶詰製造技術はアメリカに伝わり1861年、アメリカ南北戦争で缶詰産業の成長が加速された。(ヨ-ロッパの舌はどう変わった)の著者南直人氏のによるとフランスで缶詰が発展しなかったのは食文化にうるさい国でイギリスとかアメリカで発展したのは食の文化にこだわらなかったからという。昔はイギリス・アメリカはグルメの国とは言われていなかった。さらにグルメの国として評価されないドイツでも中部ドイツで缶詰産業が発展した。

 明治中期の日本で海外から入った食品は大衆化されるまで時間がかかった。特に缶詰輸入した食品は日本人の味や好みに合わなかったようだ。日本人の好みに合う大和煮・福神漬と言うものが缶詰に入って次第に普及した。ただ福神漬缶詰は缶詰入りとしてしたため、高価となり、軍隊需要が主なようだった。

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幕末の尾張藩

2017年10月14日 | 福神漬

 

明治事物起源・石井研堂の缶詰の始まりに四谷津の守に住まいし米国人という記述がある。気にしなければよいのだが新宿区歴史博物館が津の守坂にあることに気がつき訪問したが石井研堂による記述の根拠は見つからなかった。

 さて幕末に四谷津の守(新宿区荒木町付近)には尾張藩の支藩である美濃高須藩の江戸藩邸があった。高須四兄弟の生誕地であった。石井は二本松藩の福島県郡山出身で維新の混乱に巻き込まれた人で当然津の守の四兄弟には何か言いたいことをソフトに記述したように思われる。米国人に缶詰の製造法を習ったという山田箕之助は西日暮里駅付近の諏訪台浄光寺に福神漬顕彰碑に名前がある。

幕末の尾張藩は福神漬の歴史に尾張本草学が関係してくる。尾張藩士水谷豊文とその門人伊藤圭介・田中芳男に繋がる本草学から植物学の歴史が見えてくる。特に上野公園の整備に尽力した田中芳男は福神漬の命名者の一人にもあげられている。文政12年(1829)秋田で死去した菅江真澄は一時尾張藩の薬草園に勤めていたという。

 

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寒さを感じる日

2017年10月13日 | 築地市場にて

前日の暑さから雨模様となり、急に気温が下がった。日経の朝刊から豊洲の追加工事の1件の入札が応札する業者が1件もないという報道があった。どの工事案件か書いてなかったが景気の良い建設業で安い価格や議会で答弁する可能性のある豊洲工事は安い価格で入札することはないだろう。

 今の選挙の様子では小池人気も失速し、オリンピック日程で豊洲の追加工事が終了しないで安全宣言し、安心宣言は先送りとなる気がする。

 築地の寒さは忘れた頃やってくる。

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希望なき築地と豊洲

2017年10月12日 | 築地市場にて

総選挙中なのに静か。株は最高値で野菜は低価格。世間が騒々しいだけで築地は静か。4丁目の火事現場もシ-トで覆われているだけで更地工事も始まらない。すべては豊洲移転の状況を見ている感じがする。新規の難問がまた増えた。弁護士さんとまた話すことが増えてボケる暇がない。

 昭和10年発行の大言海と言う辞書が面白そうだ。古書として読むには良いのだが辞書としては役に立つことはないだろう。少なくともこの辞書は大正以前の日本語の意味を示しているようだ。死語も多く、今の解釈と異なる事例も多いようだ。ただ難点はデジタル化していないのでかさ張ることである。

 新聞の選挙予測で希望の党が失速しそう。豊洲も築地も希望なき日々を過ごす。ゴ-ルなき築地は衰退するのみ。

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迷走の道連れ

2017年10月11日 | 築地市場にて

政治の世界が停滞しているので本来なら時間があるのに進まない。政治によって食の世界がゆがめられることを知ると先行きの心配することが無駄な行為となる。昔の話を老人が話すがコンテナ輸送のスピ-ド化と通関業務が早くなり、韓国中国から食品が日本国内の輸送品と差が無くなる。昔国鉄があったとき九州からコンテナ輸送で築地まで数日かかって荷物が届いた。主な原因は国鉄の貨物関係者が早く安定した輸送に熱が無かった。汐留に何度かとりに行ったこともあった。

日本だけの時代なら政治家が規制するだけでよかったが自由貿易と輸送の高速化で低価格に食品が吸い寄せられる。低価格高品質ならよいのだが低価格だけが注目されるとコストのかかる行動が減り、安く上げることに熱心となる。

量と質。何時の時代も問題の根源。そして途中の雑労働がITによって消える。最初と最後の処理だけ人力となるのだろうか。

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ある意味で節目の日なのに

2017年10月10日 | 宅老のグチ

外部の世界ではあわただしいのに築地は平穏。豊洲日程が未定のうちでは動くことも無く行事を進めるだけ。

 都下の五日市で発見された明治期の憲法草案の起草者千葉卓太郎が仙台藩の藩校で学んだことを知り、仙台大槻家のことを調べている。ついでに大槻文彦の日本語辞書のことを再検証している。

 仙台藩の藩校に学んだ人で福神漬の調査で出てくる人物が多い。多くは台東区根岸関係が多い。富田鉄之助(二代日本銀行総裁)高橋是清(日本銀行総裁)玉虫左太夫、佐藤清(福島事件)函館五稜郭の額兵隊星 恂太郎もいた様だ。戊辰戦争の最後の闘いの日、函館千代が岳陣屋で元浦賀与力の中島三郎助と千葉行徳の漬物商人喜兵衛が同じ日戦死している。同日同場所で額兵隊隊士も戦死している。何があったのだろうか。

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好色一代男のなた豆

2017年10月09日 | 福神漬

大言海の(なた豆)の項目から井原西鶴の好色一代男の中に引用の文があることを知った。ところが西鶴の本の厚さと古文ということでどのあたりを重点的に読めば良いか見当がつかなかった。念のためネットで好色一代男とナタマメで検索すると出てくるではないか。好色一代男二巻にあることが知りえた。14歳はにふの寝道具というとこにあった。

『チリ塚より、なた豆というもの、いとおかしく、なりさがりたる』

チリ塚はゴミの集積所らしい。

(なた豆というもの、いとおかしく、なりさがりたる)の解釈だがどうも国文学者はなた豆の形を文献だけで書いているようだ。なた豆は井原西鶴の時代つまり江戸時代初期に中国から渡来したようだ。国語辞典では隠元豆と混同している例もある。さて西鶴のなた豆の意味するところは(男根)と解釈した方が良いのではないかと思う。14歳の少年にぶら下がっているなた豆の様な形のものを意味している。ゴミの様な所から生え、若いから反りあがっているので気が付いたのだろう。なた豆は刀のように反りあがっている。

倉敷市立自然史博物館の文学と植物というところから検索が始まったのだが、倉敷市の学芸員はどう思うのだろうか。

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日本国語大辞典 ナタマメ

2017年10月08日 | 福神漬

中央区の図書館へ返本するため図書館へ行く。大言海昭和3年版でナタマメの項を見る。そこで気がついたのだが井原西鶴の好色一代男にナタマメが出てくるとあった。あれほど旧幕臣山中笑(共古)の語源の由来を探していたが国語辞典に載っているとは想定外だった。あわてて井原西鶴の本を借り出し予約する。日本文学をこのような観点から読む人はないだろう。前に梅亭金鵞がなぜ酒悦主人に命名依頼されたかその根拠として(妙珍竹林七偏人)に上野池之端の香煎茶屋の話がある。丁度命名時期に再発行している。つまり酒悦主人は江戸時代に出版し明治になって再出版する本の内容を利用しているようだ。

ナタマメ・カラタチの恐れ(気遣い)

 古くからテンカンの懸念があって、テンカン持ちかどうか調べる場合、ナタマメとカラタチを食わせ、発作を起こすかどうかをによって容易に知ることができると言われた。特に江戸時代遊女を抱える時にこの方法で試した。

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築地の会社の入社難易度

2017年10月07日 | 築地市場にて

築地の会社の難易度は不明だが、築地の業界団体の飲み会でさりげなく聞くと面白い。青果の荷受会社は毎年採用しているので方針が決まっているので翌年結果がわかる。最近理科系特に農学系は女子学生が増えてやる気のある人が増えて築地に面接に来ていることを実感する。

 まだ青果では女性は経験不足と言うことで書記扱いと見えるが築地の特色として銀座の菓子店の需要がすごく、ベテランの男性社員より提案力は期待されているようだ。大田市場と違って築地の得意先はパテシエという人が魚の仕入れのツイデに青果のほうを回るようでここしかない青果物が築地にある。

 それぞれ欠員がある時しか募集しないので時たま訪問して欠員ある時に真っ先に声をかけてもらう人間関係をきづいたほうが良い。とにかく築地は面白い。ただ給与と休みはダメ。

 当社の面接でも学力だけではダメで築地のダメなところを面接の時話して、それでも良いかを確認して仮採用となる。3ヶ月の仮採用が終わると全て正社員扱いとなる。築地の生活になじめない人は早めに退社することを面接時に通告する。お互いに無駄な時間であることを確認する。

やる気のある人は大抵スカウトされ欠員が出る。会社として残念だがうまくすればいい縁故が出きるので円満退社が好ましい。何があるか判らない築地の人間関係。一度築地を離れて数年以上たっても舞い戻る人もある。商売としてライバルであっても人間として敵にしてはいけない。何時得意先の従業員となるか判らない。

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油うる日々 戸川残花伝

2017年10月06日 | 福神漬

今の築地場外市場の反対にある料亭新喜楽の所に五千坪もあった幕臣戸川家の屋敷があった。三千石の幕臣が明治維新で朝廷に抵抗することも無く、帰順した裏切り者の汚名を持ちつつ、旧幕府の記録を集めたクリスチャン、教育家、ジャ-ナリストの人物伝『油うる日々』から福神漬のことを考える。

 築地の戸川家は岡山県早島に知行地を持ち、タタミに使われる高級イグサの産地で実質6000石の収入があるのに関わらず、戸川家の財政は幕末時破綻していたようだ。築地の戸川家には80人ほどが居住していたようだ。この本を読んでいるうちに今の日本の財政状況を思い出す。過去のしがらみから未来に投資することも出来ず現状に対処する戸川残花。今ならどう対処するのだろうか。

 維新時、幕臣なのに朝廷に参加し、維新後に旧幕臣から裏切り者扱いされ、さらに薩長政権から見放され早島の知行地を廃藩置県のドサクサで取り上げられ、キリスト教に道を見つけたがそれも最終的には仏教徒で終わった。ただ裏切り者と言われつつ旧江戸幕府の記録を収集した人だった。

 福神漬に関しては原胤昭の人脈がどう関わってくるか。

 

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帯刀先生・タチハキセンジョウ

2017年10月05日 | 福神漬

五日市憲法を起草した宮城県出身の千葉卓三郎の自伝を詠むうち大槻家の再確認をしている。図書館で『言葉の大海へ』と言う本を借り出し、読む。著者によると日本で始めての国語辞書『言海』大槻文彦著には植物系の言葉の解釈に誤りが多いと牧野富太郎が指摘していたと言う。あわてて明治期の『言海』を読む。

なたまめのところで別名として帯刀(たちはき・たてわき)とありNETでタチハキを検索する。かなり歴史用語が出てくる。多くの言葉が宮中の警備のことを表しているようだ。武家の中で帯刀はかなりの意味があって、その名前を持っている植物『ナタマメ』には特別な意味があっても不思議ではない。

 

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河村瑞賢の漬物話

2017年10月04日 | 福神漬

河村瑞賢出世話の文献の始まり

翁草 神沢貞幹著

河村瑞賢成立のこと 日本随筆大成 第三期19巻より

河村瑞賢の事、元は車力十右衛門とて常に車を押して世を渡る雇夫なり。

 もともとの先祖が没落し、伊勢地方に住んでいたが生来の才知抜群のもので故郷を出て江戸に行くが中々うまく行かず、ふと思いついて上方に上り見の行く末の転機を計ろうと小田原で一泊した。同宿の老荘に問われ事情を話すと『今景気のよい江戸を離れて上方に行っても出世成功すること出来るのか』と諭され、瑞賢は老僧の意見ももっともだと思い江戸に戻ることにした。品川の海岸で丁度7月のお盆で瓜茄子がおびただしく海岸に流れ着いているのを見て、ふと思い付近にいた乞食どもに金を与え、知り合いのところより古樽を借り、さきの瓜茄子を漬け普請小屋へ行きこの漬物を売る。

 普請小屋は今の建設工事現場で日雇い労働者のために昼食に漬物を販売した。大いに売れたのでそれより工夫して漬物を販売続けた。

ここから福神漬の話になるには無理があるような気がする。何処から変化し、今では福神漬伝説の一つになったのだろうか。

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一心太助と築地魚河岸

2017年10月03日 | 築地市場にて

築地に勤め始めた時、飲む会合でしきりに『天下の築地』と言う言葉を聞いた。なんとなく好景気で人手不足が深刻になり、人材不足を感じていた時だった。朝日新聞が築地に前は本当に怖い世界で若い女性で築地の仲卸の帳場に立つ人は縁故者しか居なかった気がする。

 1958年頃の映画で中村錦之助主演の一心太助の映画があった。三代将軍家光と大久保彦左衛門、日本橋魚河岸の一心太助の物語である。これは架空の話だが大久保彦左衛門の墓の隣りに一心太助の墓があるという。大久保彦左衛門の領地は小田原にあったので築地市場の隣りの町は戦前小田原町といっていて、築地の人たちのねぐらでもある。一心太助の屋号と言うべき印は今でも魚河岸のマ-クとなっているという。架空の話なので講釈はいくらでもできる。

 さて映画の話に戻るが、一心太助が将軍の居城に魚を納品する時、大名行列をさえぎるところがある。普通なら生麦事件のイギリス人のように手打ちされるとことだが、将軍ための納采で行列をさえぎる権利があったようだ。大名を下に見るキモチのよさを築地の人たちは感じていて天下の築地と言う言葉が出るのだろう。

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豊洲市場の電源コンセント

2017年10月02日 | 築地市場にて

10月1日の豊洲市場青果部の習熟訓練のため、久しぶりに見学。ホコリだらけのガラス窓を見ていきなり新車が中古車になった気分。

 今回は色々報道されて見ていたので驚くことは無かったが、先端的な設備があった。表向き電動タ-レ-のコンセントと柱には書いてあったが十年も経てば豊洲市場内の車のアイドリングが禁止され、柱に設置されている電源から冷機を稼動するように指導されるだろう。一つの柱にかなりの数のコンセントがあった。他の先進国でもうこのような設備が常識なのだろうか。それとも見切り発車だろうか。遅れた国が中間の設備をなくし、先端に行く事がある。アフリカの砂漠地帯で携帯電話で決済をしているニュ-スを見たとき、日本ではまだここまで普及はしていないと感じた。

 

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