『やんちゃジジイ・ゆうちゃん』のイカすセカンドライフ

我儘で『やんちゃ』な爺さんの目標は、
周りに笑顔を振りまいて、楽しくセカンドライフを生きる事。

母校へ

2007年12月01日 | Weblog
今日は僕の母校へ娘を連れて行った。
進学で都立高校と私立高校を受験するのだけれど、
経済的には都立高校へ行って貰うと助かる。

でも、僕は英数国が苦手で、美術や音楽が得意で、特に美術で
さりげなく色々な賞を獲得する長女の才能を考えると
僕の母校へ入れるのも、良いかな?って思っているんです。

僕の母校は、有名校ではありません。
入学はそんなに難しくない。第一希望で美術関連の推薦を受ければ
僕がOBなので、殆ど間違いなく入学できる。
僕が在学中、先生は殆どが20代から30代の若い先生。
つまり、今でも先生として大勢の方が残っていらっしゃる。

母校を訪れたら、最初に懐かしい顔に出会った。
体育の教官だったK先生。32年ぶりに顔を合わせたら、なんと覚えていてくれた。
この先生は、僕が卒業間際のマラソン大会を仲間とサボったのを怒って
「卒業させない!」と、言い出した先生。
教官室へ謝りに行ったら、卒業式までの3週間で100時間。
つまり1日中やって8時間だから、13日体育の授業を受けたら許すといった人物。
毎日朝から夕方まで、下級生の授業に混ざってやりましたよ。
その事も覚えてくれていました。

次に会ったのが、サッカー部の監督だった数学のI先生。
こちらも僕を見て、すぐに思い出してくれた。
中間テスト0点、期末テスト100点というパターンを繰り返し
何とか単位を貰っていた。
そして全国大会で準優勝した事も、いい思い出だって仰ってくれた。
「あのチームは強かったなぁ、今は全国大会すら出られないんだからね・・・・」
東京の杉並区から町田に移転して、凄い校舎の上に羨ましい芝生のグラウンド。
「あの頃はグラウンドが酷かったけど、良く練習したからなぁ。今は恵まれすぎだな」
なんて、すでに監督を退いているが、寂しそうに話していた。

娘をデザイン学科に連れて行ったら、なんと同窓生のTが先生をやっている。
このT、自宅が目と鼻の先。卒業時は、オイルショックなどで就職難だったが
Tは日産のデザインルームに就職、スカイラインのインテリアをデザインして
その後アメリカへ渡った。ところが、帰国して目標を見失った所に
学校から誘いがあって、そのまま教職についたらしい。
32年ぶりに会ったが、お互いに一目で判った。
一緒にいた教官が、元マツダのデザイン室長だった島津豊さん。
娘の事を話したら、Tが「俺が預かるから」と言ってくれた。
娘にはご両人が「待ってるからね!」って、娘の心に揺さぶりをかける。

その後は僕の出身学科である、電気工学科を見学。
そこでもY先生が声をかけてくれ、僕のいた研究室には恩師の先生が
ソーラーカーやリニアモーターカーを見せてくれた。
遊び心が満載の先生。夢工房と呼ばれる実験室にはソーラーカーレース、
鳥人間コンテスト、ロボコンなどに出場した車や機体が置かれていて
本当に心がウキウキした。

目的の進学相談を受けに、学食ならぬ学生サロンへ行ったら、
今度は元担任の先生が僕を見つけて、話が始まる。
他の先生が、そのまま進路相談にしてくださいって言ってくれて
懐かしい話を交えながら、娘の事を色々相談してきた。

勉強を全然しないで、遊んでばかりいた僕の正体も娘に暴露されてしまった。
僕が電子顕微鏡の設計をしていて、先生に教えて頂いた材料学の凄さを
語ったり、僕のお客さんの北大、東大、東北大やオックスフォードの話をしたら
びっくりして、本当に嬉しそうにしてくれた。
僕が「40歳近くになって、勉強するのが好きになった」と言ったら
「その歳でも、判っただけで凄いよ。普通はそれにさえ気づかずに終わるんだからね」
と、いつまで経っても先生と生徒の関係は変わらない。

帰りがけに同期のTへ声をかけたら、
「お前も会社がつまらなくなったら来ないか?」
「今なら非常勤講師から入るチャンスがあるよ」などと言われてしまった。
悪くは無いな・・・・いつかは母校に恩返ししたいと思っていたし・・・・・・・

どうせ行かせるなら、知っている環境で、信頼できる人に預けたい。
そんな気持ちがあって出かけたのだが、その気持ちが強くなった。
娘も好きな物作りを勉強できる事に、ちょっと心が揺れた感じ。
学費の問題はあるが、子供の将来を託すにはいい環境かな?と・・・・・
コメント
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