刑事裁判に国民が参加する『裁判員制度』がいよいよスタートした。
この裁判員法が成立したのが5年前で、これまで賛否両論がマスメデイアを通じて賑わしていたが、
特に、昨年裁判員候補者が選ばれてからは、制度の問題点や参加拒否など、多くの意見が飛び交っていたようである。
管理者も非常に関心をもって、メデイアのいろいろな意見を見てきたところである。
制度の良し悪しもあろうが、一番の問題は主役になるはずの一般市民の意識が低いことではないだろうか?
周辺でもこの話題が出ても、多くの人は自分は関心がない、関係ないと思っているようだ。
確かに候補者に選ばれる確立は、約350人に一人で、更に裁判員になる確率は、1/5,000だそうである。
しかし、これから続く制度では、いつか自分が選ばれるかも知れないと自覚が必要ではないだろうか?
この制度導入の目的には、『一般市民の感覚や経験を反映させる』ことだそうであるが、逆に考えると、
これまでの刑事裁判では、裁判官の感覚は、一般市民感覚とはずれて裁いていたということであろうか?
プロである裁判官は、あまりに多い件数を裁くために、市民感覚を考慮する余裕も持てない状況であるとも言えるようで、今回の『裁判員制度』採用への切っ掛けにもなっているようだ。
何れにせよ「百年に一度」の司法改革を行い、国民の信頼を得る制度として定着するまでには、参加意識を持って議論していかねばならないと思う。
制度の是非ではなく、新たな国民の義務として一人ひとりが理解し、協力していくことが肝要である。
ただ、素人の我々が市民感覚で正しい判断が出きるか否か、すべてプロの裁判官の説明や裁量に影響を受ける事は避けられないので、更に裁判官の責任は重くなるのではないだろうか?
公判の迅速化と真相の究明を第一に、禍根を残さない判決を導くには、まだまだ乗り越えなければならない峠は多いのではないだろうか?
制度改革とともに、犯罪の無い社会を作るための市民の努力も課せられていると思う。