575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「エレキテルの俳人」

2021年02月07日 | Weblog


平賀源内<ひらがげんない> 1728年香川県生まれ。生家は讃岐高松藩の足軽。系図によると東北の伊達氏に仕えた後に四国に移ったと記されています。13歳の頃、藩医より医学や薬学とともに俳句を学びます。やがて、医学の研鑽を積むため長崎へ留学。西洋医学を学ぶには必要不可欠とされたオランダ語や西洋画を習得します。留学後に藩を辞し妹に婿養子を迎え家督を放棄します。

自由の身となった源内は江戸に下向。田村元雄より医学。林羅山を祖とする聖堂にて漢学を学びます。源内は鉱山の精錬技術を持っていたことから伊豆で薬品となる鉱床を発見し「東都薬品会」を江戸の湯島で開催しています。発明家としては静電気発生装置「エレキテル」や「温度計」を考案。この温度計は数字の他に寒や暖などの文字も記載されていて華氏を採用しています。さらにヘリコプターの力学を利用した「竹トンボ」は源内の発明といわれています。

「秋風や うけ心よき 旅衣」「李山」

本題に入ります。当時、高松における談林派の中核を成していたのが山本古道と稲本梅門。四国の高松では談林派の俳諧が盛んで、西山宗因や与謝蕪村も金毘羅参りを機に訪れ、源内たちの句会に参加しています。源内が先輩の渡辺桃源と稲本梅門の旅宿を訪れた折に詠まれたとされる句。ちなみに源内の俳号は「李山」

「囀や 花の余りを 只の園」「李山」

この句は「象山陰」<きさやまかげ>という俳書に記され、源内の青年像を伺い知ることができます。「象山陰」の序文は下記。

とはにみとり深き讃の高松を去る事、里数八にして西の方に象頭山あり。彼山に金比羅尊神たゝせ給ふ。神威いともかしこし。

源内は俳諧師としての成長が期待されつつ、江戸に下向してしまい、文芸は戯作や浄瑠璃の脚本に活躍の場を移行してしまいます。しかし、源内が高松にとどまり俳諧師としての道を歩めば、与謝蕪村との親交が深まり、モダンな流派が生まれていたかもしれません。

「湯上りや 世界の夏の 先走り」「李山」

平賀源内。享年52歳。大工を殺傷したとされ獄死。友人の杉田玄白により遺体のない葬儀が行われます。しかし、源内は幕府の老中である田沼意次と懇意の中であり、庇護に置かれ天寿を全うしたとも伝えられています。ちなみに、杉田玄白は85歳の長寿を得ています。

「ながらへて 今年も見たり 山桜」<玄白>


構成と文<殿>
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