野草に興味をもつようになったのは、今から15,6年前のことだ。
山登りの好きな職場の上司の方が、いつも高山植物の美しさやすばらしさを説いていたけれども、興味のない私たちは、単に相づちをうつくらいのことしかしていなかったのだ。
そんなふうに山に登らないわれわれには、どうせよくわからないよ、という思いがあったのだ。
美しい高山植物にも関心がないのだから、まして平地でそこかしこに咲いているような足元に咲く雑草に興味などもつはずがない。
そんな私だった。
それが変わったのは、件の上司が「今、敷地内に咲いているオオイヌノフグリがきれいだから、見に行こうよ。」と、職場の人々を誘ってからだ。
気分があまり乗らないながらも、「仕方がない。上司の気まぐれに付き合うか。」というような気分で、昼休みに見に行ったのだ。
「まあ、よく見てごらんよ。きれいだろう?」というその言葉に、自分ものぞき込んで見てみた。
よく見てみた。
じっと見てみると、青が本当に美しかった。
「きれいだろ。なのに、『犬のキ〇タマ』なんてひどい名前つけられて、可哀想だよなあ。」
そうか。「フグリ」とはそういう意味であったのか、確かに可哀想だ。
「スター・アイズ」(星の瞳)と呼ばれることもあると聞き、そっちの名前で呼ばれるといいのにな、と思ったのだ。
しかし、それ以上に、自分の足元にこんなに美しくて可愛らしい花がいつも咲いていたことに気付かなかった自分が、恥ずかしく思った。
雑草と呼ばれる草花にも、美しい花を咲かせるものがある。
そのことに感心したのだった。
そこから、しだいに足元の草花に興味をもつようになった。
どの草花にも名前があるのだ。
そして、毎年変わらずに咲いている。
そのすごさ、命のある植物のすばらしさを思うようになった。
名前を知ることで、がんばって生きている植物がたくさんあることがわかるようになった。
そして、花を咲かせている植物の美しさに、感動するようになったのだ。
そんなことから、毎年春になると咲くこの花には、上司だったM氏と並び深く感謝したい気持ちになるのである。
山登りの好きな職場の上司の方が、いつも高山植物の美しさやすばらしさを説いていたけれども、興味のない私たちは、単に相づちをうつくらいのことしかしていなかったのだ。
そんなふうに山に登らないわれわれには、どうせよくわからないよ、という思いがあったのだ。
美しい高山植物にも関心がないのだから、まして平地でそこかしこに咲いているような足元に咲く雑草に興味などもつはずがない。
そんな私だった。
それが変わったのは、件の上司が「今、敷地内に咲いているオオイヌノフグリがきれいだから、見に行こうよ。」と、職場の人々を誘ってからだ。
気分があまり乗らないながらも、「仕方がない。上司の気まぐれに付き合うか。」というような気分で、昼休みに見に行ったのだ。
「まあ、よく見てごらんよ。きれいだろう?」というその言葉に、自分ものぞき込んで見てみた。
よく見てみた。
じっと見てみると、青が本当に美しかった。
「きれいだろ。なのに、『犬のキ〇タマ』なんてひどい名前つけられて、可哀想だよなあ。」
そうか。「フグリ」とはそういう意味であったのか、確かに可哀想だ。
「スター・アイズ」(星の瞳)と呼ばれることもあると聞き、そっちの名前で呼ばれるといいのにな、と思ったのだ。
しかし、それ以上に、自分の足元にこんなに美しくて可愛らしい花がいつも咲いていたことに気付かなかった自分が、恥ずかしく思った。
雑草と呼ばれる草花にも、美しい花を咲かせるものがある。
そのことに感心したのだった。
そこから、しだいに足元の草花に興味をもつようになった。
どの草花にも名前があるのだ。
そして、毎年変わらずに咲いている。
そのすごさ、命のある植物のすばらしさを思うようになった。
名前を知ることで、がんばって生きている植物がたくさんあることがわかるようになった。
そして、花を咲かせている植物の美しさに、感動するようになったのだ。
そんなことから、毎年春になると咲くこの花には、上司だったM氏と並び深く感謝したい気持ちになるのである。