奄美自然観察の森は、とっくに春だった。ここのヒカン桜の開花宣言は1月5日。宣言は、名勝地といわれる沖縄県名護市より一足早かったので、気温の低い山間部から咲き始めるというヒカン桜の特徴とともに、多くのメディアが伝えた。名瀬の平地で「花見」の名所といわれるところはあまり聞かない。
マイクロバスで来ていた地元のお年寄りたちは、すこし寒そうに見えた。いや、着込んでいたので、暖かそうに見えた、というべきか。
「西郷南州謫居跡まで2.4km」という案内標識に従って森を降りた所のこの標識の前で、右腕を曲げ、ひとさし指で「あっち行く?」ことにした。大概の観光の人は、「こっち」に行く所だ。
後ろは集落の共同墓地。その後ろは県道、水色のきれいな内海は龍郷湾。は、シーカヤックを楽しむ観光客の人の姿を時折見かける所でもある。写真には空色の空も写っている。
ここへ曲がるすこし手前の道路脇に、龍郷町教育委員会の説明板がある。
それによると、この仏像墓が町の文化財に指定されたのは、昭和54年12月20日。
等身大の地蔵と破風式の墓石ともに1725年代のもの。
石質は加治木石と思われるが、当時これだけの彫刻を施した墓石は龍郷町ではここだけ。
笠利家十代頃の由緒ある人々の墓らしい。
地蔵の円柱石には、享保十乙巴歳七月・・・と読める。
刻字はおどろくほど鮮明だが、読めない漢字もあった。
2005-1725=280年前
1725-1611(奄美5島、薩摩藩の直轄領となる)=114年経っている。
1777年、藩による奄美の砂糖の惣買い入れ(第一次)。
1778年、藩から派遣された徒目付の得能左平次という人は島民の良き理解者といわれる。
その彼の大島紀行文にある、当時の大島の島民の様子を記した次の文は、奄美の歴史書で、たびたび見かける。
「家々の労(つかれ)言うもさらなり。腰打ちかけて足を休むる家なく、渇きさえ忍び兼ねるほどなり」
漢字とカタカナの文を読むのに精一杯で、この文で昔の奄美の島民全体をイメージしていたら、この仏像を見たら「衝撃」を受けます。あるいは、この記事同様、「意味写らん」かった知れません。
この、1725年(享保10年)、徳之島の面縄(おもなわ)に尾張の船が漂着、破船している。
徳之島に二ヶ月あまり滞在した、この船の船頭の当時の徳之島での見聞が、「徳之島物語」として書き残されている。
(徳之島郷土研究会報第11号 昭和60年12月発行にその解読文)
何の偏見ももたない、本土の人の目をとおして、当時の徳之島、その他の奄美の人々の、意外に豊かな暮らしぶりや、島の人々の温和な性格などを垣間見ることができる。
その後の島はどうなったか、これから勉強する。
墓のまわりは、きれいに手入れされていた。生花はない。
この墓の敷地の隣には何もないもうひとつの敷地が。
OCNブログ人、今日も不調。
嘉徳鍋加那の墓と比べる
2004.12.28
嘉徳鍋加那節
マイクロバスで来ていた地元のお年寄りたちは、すこし寒そうに見えた。いや、着込んでいたので、暖かそうに見えた、というべきか。
「西郷南州謫居跡まで2.4km」という案内標識に従って森を降りた所のこの標識の前で、右腕を曲げ、ひとさし指で「あっち行く?」ことにした。大概の観光の人は、「こっち」に行く所だ。
後ろは集落の共同墓地。その後ろは県道、水色のきれいな内海は龍郷湾。は、シーカヤックを楽しむ観光客の人の姿を時折見かける所でもある。写真には空色の空も写っている。
ここへ曲がるすこし手前の道路脇に、龍郷町教育委員会の説明板がある。
それによると、この仏像墓が町の文化財に指定されたのは、昭和54年12月20日。
等身大の地蔵と破風式の墓石ともに1725年代のもの。
石質は加治木石と思われるが、当時これだけの彫刻を施した墓石は龍郷町ではここだけ。
笠利家十代頃の由緒ある人々の墓らしい。
地蔵の円柱石には、享保十乙巴歳七月・・・と読める。
刻字はおどろくほど鮮明だが、読めない漢字もあった。
2005-1725=280年前
1725-1611(奄美5島、薩摩藩の直轄領となる)=114年経っている。
1777年、藩による奄美の砂糖の惣買い入れ(第一次)。
1778年、藩から派遣された徒目付の得能左平次という人は島民の良き理解者といわれる。
その彼の大島紀行文にある、当時の大島の島民の様子を記した次の文は、奄美の歴史書で、たびたび見かける。
「家々の労(つかれ)言うもさらなり。腰打ちかけて足を休むる家なく、渇きさえ忍び兼ねるほどなり」
漢字とカタカナの文を読むのに精一杯で、この文で昔の奄美の島民全体をイメージしていたら、この仏像を見たら「衝撃」を受けます。あるいは、この記事同様、「意味写らん」かった知れません。
この、1725年(享保10年)、徳之島の面縄(おもなわ)に尾張の船が漂着、破船している。
徳之島に二ヶ月あまり滞在した、この船の船頭の当時の徳之島での見聞が、「徳之島物語」として書き残されている。
(徳之島郷土研究会報第11号 昭和60年12月発行にその解読文)
何の偏見ももたない、本土の人の目をとおして、当時の徳之島、その他の奄美の人々の、意外に豊かな暮らしぶりや、島の人々の温和な性格などを垣間見ることができる。
その後の島はどうなったか、これから勉強する。
墓のまわりは、きれいに手入れされていた。生花はない。
この墓の敷地の隣には何もないもうひとつの敷地が。
OCNブログ人、今日も不調。
嘉徳鍋加那の墓と比べる
2004.12.28
嘉徳鍋加那節