田畑久守著『奄美深山塔碑考』
(あまみみやまんとうひこう)
ー南島の元寇ー
平成15年12月12日発行
元寇といえば文永の役(文永11年)1274年、
弘安の役(弘安4年)1281年。
だがその二年後、弘安6年1283年(元の至元20年)、元軍が奄美に上陸した、という本。
『元史』 巻十二 「至元二十年九月壬戌、黎兵を調して同に日本を征せしむ」
そのとき建てたという碑(現物はなく、拓本)の碑文が、本の表紙になっている。
資料をしめして、推理、立証は進む。「この資料、情報を叩き台とし、踏み台として、皆さんが皆さんの手で、郷土奄美や沖縄の真実の歴史を明らかにしていただきたい」と著者の発刊のことば。
あの名越左源太、東洋文庫『南島雑話』2、 60ページに、享保15年(1730年)、おじさん?4人が古碑を掘り出している絵がある。
(竜)佐伯深山途ニテ古碑ヲ堀出ス之図
享保十五年
湯湾ノ山中田地ヲ開キシニ掘リ出ス処ノ石碑ヲ・・・
写シ置ク
碑文四尺余横ノ巾一上尺上下折レ損ス
字躰難読
別ニ記スなどとある。
この石碑の文字は、奄美研究者の間で長い間、謎とされていた。
この碑はどの場所に建ててあったのか、なぜ今ないのか、他にないのか、なぜ元軍は奄美に来たのか。わからない。
もう一度読んでみる。
チベットの鳥葬歌が奄美の民謡『いきゅんにゃ加那節』にそっくりなわけ、徳之島の線刻画の蒙古相撲の絵、それに1996年に引き揚げられた宇検村倉木崎海底遺跡の貿易陶磁器との関係。興味は尽きないが、インターネットで元寇についてのにわか勉強をしてみて、著者の文字解明の研究に対する執念には頭が下がる思い。はたして、日本史はいつ書き換えられるのか。またいつか読もう。
深山途、深山塔、福元、湯湾山中、はどこか、どの場所にあったのか。
大和村フォレストポリスからマテリアの滝へ向かう途中に、水辺のひろば。
道路から見て、駐車場と勘違いして素通りしてしまうのは、もったいない。
少し下におりた、広場の奥に「福元用水路を構築した田畑佐文仁翁伝」という説明板がある。
奄美の開拓の父、田畑佐文仁が、ここ福元盆地の開発に着手したのは享保5年(1720年)。
案内地図に従って進んだところが、下の写真。遊歩道が有り、大きめの小川がながれていて
奄美特有の植物が生い茂り、古い巣箱が設置されていて、バードウォッチングの穴場。
夏でも涼しい。
小高い丘の上には、開発にともなう犠牲者の霊を慰めるため、佐文仁翁が建てたという祠があった。
神の山とよばれている。苔むした祠の中には、まだ新しいコインが入れられてあって、佐文仁の文字も読める。
これは、この碑ではない。