真田太平記11-1
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月13日
この巻から島津義弘が本格的に登場。
関ケ原の決戦
前夜の大垣城の戦い以来三成に田舎者よばわりされ義弘は、三成が好かん。「すぐさま、打って出られたし」の三成の使者八十島に島津豊久(ここでは義弘の孫?)は「うけたまわった」と相変わらずだ。義弘に直接面会もならない
承前 真田太平記11-2
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月13日
66歳の島津義弘の関ケ原決戦場における行動は、まったく独自のものであった。
義弘の賢明な決意と果敢な行動は、戦後の島津家に、よい意味での重大な影響をもたらす。
まもなく1609年、琉球征伐の薩摩軍総勢3000人、80余艘が奄美大島にやってくる。つづく
その時歴史が動いた 「関ヶ原の戦い 決死の敵中突破 戦国の猛将 島津義弘」 (2002年) https://youtu.be/bn0NOJvxLpo
真田太平記11-2島津の退き口
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月14日
島津陣地~家康陣地は歩いて20分弱
島津家存続の為には生きて申し開を。だが敵に背をみせての敗走は島津の名折れ「家康本陣へ攻めかけると見せ、一気に伊勢街道へhttps://t.co/hv10O2aAbhhttps://t.co/gCMUZ7atsL
https://youtu.be/bn0NOJvxLpo その時歴史が動いた 「関ヶ原の戦い 決死の敵中突破 戦国の猛将 島津義弘」 (2002年)
真田太平記10-3敗走する島津軍を最後まで猛追したのは、井伊直政。豊久を捕えなおも義弘の目前まで迫るが島津軍の銃弾で負傷。逃す
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月14日
幕末桜田門外で水戸浪士の中に一人いた薩摩の有村治左衛門に首を討たれた大老井伊直弼はこの直政の子孫にあたる。なお直弼の安政の大獄で追われた西郷は奄美大島へ
真田太平記10-3敗走する島津軍を最後まで猛追したのは、井伊直政。豊久を捕えなおも義弘の目前まで迫るが島津軍の銃弾で負傷。逃す
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月14日
幕末桜田門外で水戸浪士の中に一人いた薩摩の有村治左衛門に首を討たれた大老井伊直弼はこの直政の子孫にあたる。なお直弼の安政の大獄で追われた西郷は奄美大島へ
真田太平記11-4
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島津氏が関ケ原の戦いに大軍を送れなかった理由。
庄内の乱 慶長4年(1599年)島津氏家中最大の内乱
wiki https://t.co/5fIsObQMS5
真田太平記11-5嘗て豊臣家大老として家康と肩を並べ、敗戦後もなお秀頼を擁し大坂城にあった西軍総大将毛利輝元は、あっさり無血開城、結局山口、広島、島根県の120万石から山口県36万石に減その毛利家が260余年後薩摩と共に明治維新の主動力となり徳川幕府を打ち倒すことになるとは
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月14日
↑ 保証がないかぎり、みだりに東軍の手にゆだねてはならなぬと、養子の毛利秀元は反対したが、輝元は、東軍諸将の誓約に疑念をいだいては家康の怒りを買うことになりはすまいか、とおそれた。 p134
家康は大坂入場後、井伊直政をもって輝元に「薩摩攻めの先陣をつとめられたい」一方的に要求する。
毛利家の本拠であった安芸の国広島の新しい城主となったのは大坂城接収に奔走した福島正則(秀吉子飼い)であった。がこれは正則不運の第一歩であった。
真田太平記11-6戦から3年家康62は右大臣征夷大将軍2年後隠居。秀忠27二代将軍へ。信長秀吉跡継ぐ人材なき不幸を見ている。
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月15日
家康庇護下の北政所を通じ大坂城の秀頼13に「新将軍の宣下へ列したまわれたい」
生母淀殿に一蹴され「また戦じゃ」世間騒然「今は仕方なし」名代を送りおさめた。
真田太平記11-6戦から3年家康62は右大臣征夷大将軍2年後隠居。秀忠27二代将軍へ。信長秀吉跡継ぐ人材なき不幸を見ている。
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月15日
家康庇護下の北政所を通じ大坂城の秀頼13に「新将軍の宣下へ列したまわれたい」
生母淀殿に一蹴され「また戦じゃ」世間騒然「今は仕方なし」名代を送りおさめた。
真田太平記11-6上田城籠城戦で秀忠軍を関ケ原遅参に追いだ真田昌之・幸村(信繁)父子は3万8千を討ち取ったも同じの活躍だった
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月15日
戦後長男・信幸の岳父本田忠勝決死の嘆願が家康に受け入れられ助命。紀州・九度山の隠邸で藩主浅野幸長の好意と長男信之(信幸)の援助で家康の怒りが解けるのを待つ
本田→訂正→本多
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8/16日の大河ドラマ「真田丸」は1598年(慶応3)の第32回「応酬」だった。
秀吉が死に有力大名らによる政権運営が始まり、家康と三成は自陣の大名を増やそうと互いに宴を催すなど躍起になる。犬猿の仲といわれる文治派石田三成と武断派加藤清正の、そうともいえない仲をうかがわせる演出がおもしろい。